好きなもの、心惹かれるもの

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「天平のペルシア人」ほか

杉山二郎著 青土社 1994

 

p24藤原京平城京に、「新撰姓氏録」に記載されなかった、碧眼紅毛の異邦人達が闊歩していたと推測している。

 

p38 日本書記に載っている都訛(貝編)羅人とはトカレスターンと思われる。舎衛とは中世ペルシア語のシャーフ(王)の対音。

 

p123 大安寺、唐招提寺の一角には、ペルシア系渡来人の工人、技術者知識人、商人達が住んでいた。

 

p191-193 東大寺大仏建立の影の立役者、良弁僧正の元で権別当職にいた実忠和上こそが、二月堂のお水取り行法を始めた。

 

p196 北の若狭から南の奈良へのカナート(イラン地方を中心に地下深く水流を人工的に掘って流し、遠く水を運ぶ溝水設備)が想定されていたこと、カナートの水が2本とされている点にゾロアスター教徒の開闢神話の一コマが見られること。以上から、実忠がイラン系の人物だと「ペルシア文化渡来考ーシルクロードから飛鳥へ」伊藤義教著 に論じられていることも紹介されている。

 

p280 空海は、中国語の方言のほか、サンスクリット語、中世パフラヴィー語を理解していた節があること。

 

「世界の博物館6 大英博物館」 杉山二郎・三上次郎 

 

p13 イラクチグリス川の上流、ニムルド遺跡の人面ペガサスの像が素晴らしい。前9世紀の古代アッシリア帝国都城ドゥル・シャルキンの東門に置かれたラマッスと呼ばれる人面獣身有翼像は、何体あったのだろうか。写真右は、顔は横向きだけど、その奥に小さく見える、正面向きのラマッスで、スターリンのような髭があるのとないのがある。
「ラマッスは、目に見えない邪悪な霊を追い払う守護神として、城門入り口の左右に常に設置された。壮牛の角を配した宝冠は、西アジア世界では神を意味する装飾物で、起源は紀元前3000年前に遡る。」

 

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「仏像が来た道」杉山二郎著 青土社 2010

 

p177で紹介されているサーンチー大塔北門の上の飾りがとても個性的。

 

p190 ガンダーラ美術にはギリシャ美術、パルティア王朝美術、ササン朝ペルシア美術の影響がある。通商貿易による富豪商人達がこれら美術のパトロンであった。

 

p191 クシャーナ(貴霜)族は月氏族の一種。元来中央アジア遊牧民族であったが、カニシカ王がインド侵入、北方インドを支配、中央アジア、イランまで勢力が及んだ。クシャーナ帝国の王は、称号として天子と称した。カニシカ王の貨幣には、ギリシアゾロアスター教ヒンドゥー教の神々が刻まれている。

 

p195 シナでは、クシャーナ族のことを月氏、または大夏と伝えている。月氏の主力である大月国について、「史記」に次のように記されている。
「はじめは西モンゴリア・ジュンガリア・甘粛西部・青海に威を振っていたが、匈奴に圧迫されてアム河の北に移った。」月氏が西紀160年以降に大夏を征服したと考えられる。月氏族は大夏国に定住するとともに、従来の遊牧生活を捨て、城市における定住生活を営むに至った。

 

p197 カニシカ王からヴァースデーヴァ王に至るまで、貨幣にギリシア文字のみを用いている。クシャーナ族は月の名をしるすのに、マケドニア風の月の名を用いた。

 

p318 雲岡石窟や龍門石窟の諸尊のなかに、吾が国の飛鳥・白鳳仏の源流と思われる作品のある店、非常に興味深い。

 

大仏と正倉院天平の夢とロマン 日本の美と文化art japanesque 3」 杉山二郎著 講談社 1982

 

p42 平城京への遷都という大土木事業が行われる前、造営の計画準備、推進のための頭脳集団が組まれていたと考えられる。堺出身、帰化系商工業者、貿易業者を背景として、古墳葬送儀礼職能団(古墳造営の土木工事、石棺石槨の石工、副葬品を作る金工、漆工、染織工、屍体処理、儀礼、誄を奏上する者)を配下に従えていた行基は、仏教火葬墳の盛行に伴い、失業離職者を多くかかえていた。いわば民間の失業対策本部の棟梁こそ行基であったといってよい。
彼は奈良盆地の西側丘稜地帯の土師(はじ)氏、菅原氏、秋篠氏ら古墳造営に携わった豪族らを巻き込みながら、古墳群地帯にいた労働力と土木工人らを吸収し、やがて始まる平城京の造営に参画し、一挙に失業を解決しようとしていた。国家鎮護の仏教、僧尼が建前であったから、衆庶の福利厚生のためにのみ奉仕する姿は、体制を破壊する危険分子に移っただろう。

 

p43 藤原氏は寧楽山丘稜一体を将来の遷都計画に基いて買収していた疑いがある。それだけでなく、東山の高円、春日原始林、三笠山に連なる丘稜と、のちに平城下京といった原則な高燥一等地を、没落古代豪族和邇氏や安倍氏から、二束三文で買収していた。いってみれば古代版の土地ころがしの雄が藤原氏であろう。

今日の奈良市の住宅、寺院の位置を見れば、内裏中央部から九条、郡山の間がいかに低湿地であり、春日山から興福寺にかけての高燥地に寺院、商家が密集しているのをみても、地理的条件、生活環境の最上等の地域を藤原氏が独占していたことの、その智慧に驚かざるをえない。

 

p44 シルクロードには中央アジア西アジアでクシャン王朝、パルティア帝国が貿易利潤を独占していたので、ギリシア、ローマの貿易業者らは競って海上ルートの開発に努力し、香料、薬科を直接船で運ぶことを考えた。

そうした薬科は、唐招提寺を創建した鑑真和上によってももたらされ、正倉院薬科の過半が南海産の上薬である点は、注目に値します。

「大仏と正倉院天平の夢とロマン」杉山二郎著 らインドシナ半島、ジャワを経由した仏教とのかかわりが指摘されはじめていますし、ジャワ・ボロヴドゥールの建築遺構に似た四角錐形の土木建築が、行基により堺の大野土塔、良弁、実忠らにより、奈良の頭塔として造られたことなど、南海路を遡った仏教思想の波沫のひとつといえそうです。 

 

p46 伎楽の仮面においても、酔胡王、酔胡従、婆羅門らの面の表情はそのままイラン人、インド人にモデルを見出すことができるほどで、平城京の一隅に居住していたはずの胡人、天竺人をモデルにしたかと思われる。