好きなもの、心惹かれるもの

読書感想、音楽、陶器、織物、雑感などを書いています。

暗号文のラブレター

だいじろーさんの語学の笑える動画を見ていてお勧めに上がってきたのが、「戦時中の笑える話 2ch面白いスレ」というもの。シリーズでいくつかあります。以下少しコピペ。

*長崎大医学部の授業をサボって防空壕で麻雀をしていたら爆音がして、それが原爆だった。防空壕の中に1週間いてから外に出たら、別世界だった。とか可愛がってくれた上官が、「お前、耳が悪かったよな。」と言うなり耳を猛烈に引っ張って、本当に耳の病気になり、出征直前に行かずに済むことになり、上官含め同期が亡くなった。

*戦艦に乗るはずが、遅刻したら目の前で撃沈されて助かってしまった。

*給食の配膳をした時に警報が鳴り、皆は避難したけどどうせ死ぬなら腹一杯食べて死のうぜ、と2人で食べていたら、防空壕が爆破されて自分達だけ生き延びてしまった。

*中国の節句にあたる中元節や中秋節は司令部から「相手が攻撃してこない限り戦闘を厳に控えよ。」と命令があって休戦日になってたそうな。

*フサイチコンコルドの調教師の小林稔さんは馬事公苑に住所があったため、赤紙が来ないで戦争が終わった。 競馬によって人生救われた。

*うちの曾祖父ちゃん(終戦時35歳)は身長が高すぎて零戦乗れないからパイロットになれず、サイズ的に特注になる服に時間とコスト使ってられないってことで戦時中は衛生兵or給仕兵しか経験しなかったそう… 曾祖父ちゃん185cmくらいだったらしくその遺伝子は今でも継がれて男は200〜185、女は195〜175ある巨人家族になってる。

*うちの祖父は外地からその暗号を本部に送らせる側だったそうです。やはり43年には日本は負けるという共通認識があって上司と相談して色々工作していたとか。祖母の話では何カ国語もできて商社マンのふりをして外国人と付き合いパーティー三昧だったそうです。うちのじーちゃんも南方戦線でアメリカ兵に囚われて捕虜になったらしいけど、当時からアメリカ文化に興味があって英語がペラペラだったから捕虜といいつつアメリカ兵と野球とかして遊んで終戦まで過ごしたって言ってた。

*介護の仕事をしているが、10年前に聞いたソ連に抑留され炭鉱で働かされた人の話。悲惨な話かと思ったらソ連(ロスケって呼んでた)の設備は非効率で日本人抑留者に技術系の人が多く設備を改善したら産出量が2倍近くになったそうで上から褒められまくった所長は大感謝。食事や衣服など待遇良かったって。 ある時日本人に病人が出たらトロイカを速攻用意して医者のいるところまで運んでくれたそう。日本人が減ると産出量が減って所長の立場が危うくなるかららしい。その時美人看護婦が短機関銃(バラライカやマンドリンって呼んでたppsh銃)を持って乗るからワケ聞いたら狼撃退用だって。 「寒かったでしょ?」と聞いたら炭鉱から石炭を大量に持ち込みストーブ炊きまくりで寒くなかったそうだ。日本人が優位に立ってた収容所もあったんだな。

*うちの曽祖父は当時24くらいだったらしけど赤紙が来なかったらしい。理由は軍に馬を納める仕事をしていたから (当時は馬も戦争に行っていたんだとか) しかも、口が達者だったので軍の人からかなり気に入られてて米や麦、タバコ、砂糖などをこっそり貰ってたって あまり沢山貰うもんだから近所にお裾分けしたりして、えらい潤ってたと祖父が生前言ってました。

 

中でもダントツに印象的だったのが、通信官をされていたご先祖様が、墓碑に何やら謎の文体を彫るように生前手配をしていた。自衛隊に親族が問い合わせて、暗号の解読をした結果、なんとそれは奥様への熱烈なラブレターだったというエピソードがロマンティックすぎて驚きました。

直感に従って助かった話、敵国人にもわけ隔てなく接していて助かった話、沖縄戦で上官が「長男は一歩前に出ろ。」と言われて自分だけ一歩前に出たら、翌朝寝坊して目が覚めたら自分以外の全員が出征した後で、全員戦死していたなど、本当に様々なエピソードが赤裸々に語られています。どうしても出征したくなくて、わざと醤油を一升飲んで病気になったり、怪我したり。簿記が得意でロシア将校に目をかけられて助かったとか、中国語や英語ができて優遇されたとか、さまざまなエピソードが興味深いものでした。

特攻隊員は優秀でないとなれなかったそうですが、戦後のために、優秀な人材を残しておこうと思わなかったのか不思議です。そもそも最初の頃は、生きて戻る訓練だったのに、終戦近くになるほど、死んでこい的になってきたようです。その隊の責任者の人格で、部隊の生死が分かれた気がします。自分が責任を取ると言って部下を全員逃がして、20代の若い隊長がハラキリして亡くなっていたとか、涙が出てきますね。

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戦国時代の人身売買

「安寿と厨子王」という物語を子供の頃読みましたが、人身売買のエピソードがありました。島原の乱の頃も、西洋に日本人が奴隷として裸で鎖に繋がれて船で運ばれていったエピソードをネットで読みました。どこでどう見たか忘れてしまいましたが、日本人が首から札を下げて、道端で売られている奴隷市場の様子も読んだことがあります。近代になってからも、からゆきさんと言って、売春婦としてアジアに売られていった日本人女性たちがいたことも読みました。さっきこちらを読んで、はぁ、、、、、と思いました。絶対に教科書には載らない話ですね。信長は本能寺の地下道を這いながら脱出して、南蛮寺に逃げ込み、フィリピン経由でイタリアへ亡命した説を読んだことがあります。信長にそっくりな人物の肖像画があるんですね。最後はバチカンのNO.2に上り詰めた後、火刑になったとか。臨死体験で有名な木内鶴彦さんが書かれていたエピソードだったかな。

以下引用。

「15世紀における真実の世界地図は、これとは相当異なっています。まず一番大きな違いは、現在はロシアとアラスカの間に海がありますが、当時は完全に陸地でつながっていたということです。気候も現在よりだいぶ温暖で、今では雪と氷に閉ざされているシベリアやアラスカの地も、とても温暖で住みやすい気候になっていました。

また現在は北アメリカと呼ばれているアメリカ合衆国およびカナダの地は、当時は「インド」と呼ばれていました。現在一般にインドと呼ばれている、南アジアの国は、当時はインドではなく「バーラト」と呼ばれていました。現在のインド政府はこの事実を知っていて、実際に2023年9月に国号を「バーラト」に変更しています。同年同月、G20 サミットに出席したモディ首相の前にある国号プレートは、バーラトになっていますね。この国に伝わる古代叙事詩、「マハーバーラト」は、偉大なるバーラトという意味であり、その時代からこの国は、バーラトと呼ばれていたことがわかります。

ちなみにお釈迦様が生まれて活動したインドとは、バーラトではなく、本来のインド、現在の北アメリカ大陸のシカゴ周辺です。三蔵法師がお経を取りに行ったインドも、バーラトではなく、北アメリカです。15世紀の世界では、中央アジア、シベリアおよびインド(現在の北アメリカ)の地域にまたがる、広大な「タルタリア帝国」という統一国家が存在しており、高度な古代文明の下で愛に基づく善政を敷いていました。そんな国聞いたことないって? タルタリア帝国は1816年に発生したマッドフラッドと呼ばれる大災害で一夜にして消滅し、文明が一度リセットされているのです。」

「マハーバーラト」の詩は有名で聞いたことがありましたが、古代の国名だったんですね。2023年にモディ首相が国名をバーラトとしていたことも初めて知りました。面白いのでこの著者の「マッドフラッド」という本を読んでみようと思います。

 

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無農薬人参ジュース

りんごジュースとか混ぜないで、無農薬の人参だけのジュースを探していました。ここのを初めて知って、今朝届いたところです。紫人参と、通常のオレンジ色の人参と両方購入してみました。やはり紫のはちょっと特殊なお味。飲めないほどではないです。オレンジ色の人参生搾りジュースが好き。キャロットケーキも自然なお味で美味しいです。

原谷人参生しぼりはリピートで購入してみて、健康状態がどんな感じか試してみます。以前人参ジュースが作れるジューサーを買って、毎日飲んでいて美味しかったのですが、絞った後のカスが多いのと、高速ジュースは栄養にならない、低速ジューサーでないとダメと読んだものの、ジューサーの部品が固くて女性で外せないとAmazonのコメントが多かったので諦めていました。結局完成品を購入した方が割安かもしれません。ジューサーの掃除もないし、安全で美味しい無農薬の人参を探すのも大変だし。

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流砂の古代・ヒデチャコさんのブログ

「流砂の古代」「ヒデチャコ」二つの歴史ブログを書かれているヒデチャコさんのブログがとても興味深いのでご紹介します。

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群馬県前橋市大室古墳群の公園内大室はにわ館展示

これ、馬とは違う生き物ですよね?一体なんでしょう?後ろのもトロイの木馬みたい。

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伽耶という王国について、あまり読んだことがありませんでしたが、故意に任那として隠されてきた国だったのですね。

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スイジガイの埴輪って初めて見ました。

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3本指の腕だけが縄文土器に描かれているのはコワイです。ブルガリア出土の土器にも似たような手が描かれたものがあるとは知りませんでした。

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馬の上に乗ろうとしている小さな人が、子供ではないかという考察。子どもくらい小さいコロボックルのような小さい民族だったかもしれないけれど。

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酒粕から砂糖抜きの甘酒

急に暑くなり、食欲が落ちたので、米麹から甘酒は作っていましたが、酒粕から初めて甘酒を作りました。砂糖を使いたくなかったので、味醂を使いました。

材料:

酒粕100g

本味醂スプーン大5〜6

水400cc

クランベリージュース100% スプーン大1

 

電子レンジは持っていないので、クリステルのステンレスのお鍋に水400ccに100gの酒粕を入れて、弱火でしゃもじで溶かしながら10分。葛餅を作る時と似ています。最後に味醂を入れて数分してから火を止めて、蓋をして余熱で酒粕を溶かしました。

すりおろし生姜、ゆず、クランベリージュース少々などを入れてもいいと思います。今回私は甘酒をカップに入れてから、クランベリージュース100%をスプーン大1くらい入れました。色も美しいです。アサイーやハイビスカス、ブラックベリーのハーブティも、クランベリージュースとそっくりの綺麗な色なので、このハーブティを少し入れても良いなと思います。ミントの葉を浮かべると素敵。

なるべく冷えていないものを飲むようにしていますが、今回作ったのは冷蔵庫で保管して、早めにいただきます。

追記:桃の滴という酒粕は、解凍したときも柔らかくて、10分水を加えてお鍋で加熱して綺麗に溶けたし、味醂を全く加えなくても美味しいです。

 

外国人との関わり

ネドじゅんさんの「幸せ右脳手帳」を買って2年目。小さい頃にしていたことが、好きだったことが、これからAIが人の代わりに仕事をするようになって以降の、自分がやりたいことになる。ということで、小さい頃何が好きだったかを掘り起こしている。ファッションのデザイン、縫い物、音楽、生花、比較文化など。異文化交流は自分の人生でどんなふうに関わってきたんだっけ?と備忘録に書いてみる。

幼稚園年長から住んでいた東京の社宅の隣に、米国人の牧師さんが住んでいた。直接話をしたことはなかったけれど。小学校6年から川崎市に転居。

中1の時、駅からバスに乗ったら、外国人のお年寄りが運転手にガミガミ言われていて、どうやら財布を忘れてきたらしくて、切符の回数券を持っていた私は、1枚ちぎって彼の分を払ってあげた。運転手は私が箱の中に切符を入れるやいなや、さっさと発車した。日本語はできない人だったと思うけれど、その人は私に自分の家に来ないか、と言って一緒にあるバス停で降りた。私が下車するバス停はずっと先で、そのバス停の周辺のことは私は徒歩圏で知っていたので不安はなかった。奥様から紅茶とお菓子は出されたと思う。そして私の住所を聞かれたので、英語で書いた。旅行者ではなく、住んでいたわけだけれど詳細は何も知らない。その年のクリスマス、その男性からチョコレートなどの贈り物が届いた。クリスマスカードに手紙も付いていたので、辞書をひきながら読んで、返事を書いた。数年、そんなやりとりがあったと思う。

19歳の時、キリスト教の母校の関係で学校から2名選ばれて、約1か月米国イリノイ州のお宅にホームステイ。このお宅で、私はテレビを見た記憶がない。面白いことに、蔵書もなかった。なぜ敗戦国の日本の学生を受け入れてホームステイさせ他のかも知らない。想像するに、天国に徳を積みたいと思うタイプの人や、異文化に興味のある人が、自分の子どもと同じくらいの歳の外国人をホームステイさせる気がする。お嬢さん2人の長女は大学生、次女が高校生で、私は次女のローラと仲が良かった。

時は飛んで30歳頃。子供達が習っていたバイオリンのクラスに、スイス人の女の子が入ってきた。それを機会にドイツ語を習い始めた。家に呼んでもらったり、インターナショナルスクールのハロウィーンに連れて行ってもらって、子供達は王子と王女の仮装をしておでかけ。お嬢さん2人に着物を着せてあげて、同じく着物を着た娘と3人で写真を撮ったり。

その家族が帰国後、地元のスーパーで買い物をしていたら、突然ある外国人主婦に呼び止められて、お酢とみりんを持って、どっちがビネガー?と聞かれたまま、彼女のアパートへ一緒に行って、ガスや電気のメーターの紙などの説明をしてあげたり、世間話をして仲良くなる。離婚を決めた際に、最初に相談したのが彼女だった。私より10歳年上で、自信を持って、「今すぐ離婚しなさい。お金のことは考えないで。自分の気持ちを最優先して。」と言われた。なぜかこの彼女もドイツ系米国人。同じ頃、やはり地元で偶然ドイツ銀行頭取夫人と知り合い、着物を着せてあげたりした。

いよいよ離婚秒読み。豪州大子連れ留学をする前のリハーサルとして、私はドイツとスイスにホームステイをした。英語が全然通じないルクセンブルグに近いドイツの小さな村。そしてドイツ語圏のスイス。そのスイスでは、お母さんが英国人だったため、結局英語で過ごせてしまった。そしてこのご夫婦とは30年来のお付き合いをさせていただいている。父はほとんど南米出張やイラク赴任で不在で早逝、母はエネルギーバンパイヤで虐待してもなんとも思っていない人だったから、私にとってホームステイ先の方が、心が休まる関係だった。当時は生母がバンパイヤであったことには全く気がついていなかったけれど、明らかに大正生まれの伯母の方に愛されているとは子どもの勘として感じていた。どのお宅でも良くしていただいて、感謝している。

そして豪州の生活。シンガポール人の医師には、「あなたは昭和天皇に戦争責任があると思うか?」と聞かれたり、韓国人学生には、「竹島を知っているか?どう思うか?」と聞かれて、当時竹島がどこにあるかも定かでなかった私は、「竹島は知らないけど、百済、新羅、高句麗との関係があって、仏像が伝来したのは知っている。」と地名は漢字を書きながら英語で話していたら、相手はすぐ理解して喜んでくれたり。任那のことを言うと、揉めるかもと思って言えなかった。「両班出身は漢字が読めるんだよ。」と言われた。

大学のオリエンテーションでは、学生同士協力しあって、教え合うことを奨励していた。どうやって知り合ったか覚えていないけれど、台湾人学生には、「台湾は日本がしてくれたことに感謝している。」と言われて中国語の宿題を手伝ってもらったり。当時私は、日本が戦前台湾で何をしていたか、全く知らなかった。彼女ともう1人の台湾人の一戸建てのお宅に呼ばれて行ったことがあるけれど、螺旋階段のある大きな家で、親戚一同の子女が留学したら、その家を共同で使っているようだった。達筆で漢詩が書かれた大きな額が居間に掛けてあったのが印象的だった。

ドイツ語を大学1年で選択してクラスへ行ったら、私以外全員白人系豪州人で、一斉に白い目で?見られて逆にびっくりした。「なんでアジア人なのにここにいるの?」という目つき。先生に指されても私が答えられるので、やがて親に言われてドイツ語取った学生が、「なんでドイツ語できるの?」と聞いてきたので、「夜間クラスで同じ教科書でやってたから。」と教えてあげた。

パリでは日本食を売っている小さなスーパーで、マレーシア人の主婦に声をかけられて、「味噌スープを作るのにこれを買えば良いの?」と聞かれて、そのまま誘われて彼女のアパートへ行って、実際に作ってあげたりして、しばらくおつきあいをした。彼女がパリの英国婦人会の会員で、誘われて行事に参加して、イギリス大使館での何かの催しに行ったことがある。大使館は、パリの一等地、ロスチャイルド家の建物の近くにあったような気がする。

最初に入ったイラン人のアパート大家さんには、お金を騙し取られたことを税務署で指摘されたりして大変な目にはあった。もっと早く来てくれたら、そのお金を取り返してあげたのに、と税務署員に言われた。つまり彼の税金の金額を私に支払わせた詐欺だった。もちろん腹立たしいことではあるけれども、古くからパリに住んでいて、サンローランブティックで帽子を縫っていた日本女性に聞いたら、レイプされたり殺されたりしなかっただけマシ。とのことだった。大家さんのお嬢さんが小学生で、キティちゃんグッズやお煎餅をお土産にあげていたことが功を奏したかも。そして、私は因果応報はあると思っているので、私を騙していい気になっているだろうけど、どこかで損をするとか本人に返ってくるだろうと思ったので、引越しと共にその事件は忘れた。税務署員も、以後その人物が不正していないかマークしていたかもしれないし。

その彼女は、他のスタッフと共に、エリゼ宮での打ち上げパーティに呼ばれたことがあるそうで、カール・ラガーフィールドと一緒の写真を見せてもらった。大統領夫人の公的衣装を縫うのは有名ブティックで、国賓をもてなすドレス、スーツ等、イベントが終わったら、打ち上げがあったらしい。オートクチュールのファッションが好きなので、彼女の話は楽しかった。

娘の高校が移転したこともあり、運良くその高校があるのと同じ駅にアパートが見つかり、さっさとイラン人大家さんのアパートは半年だったか1年で引き払った。次に入ったフランス人の大家さんが日本へ旅行したこともある親日で、ぜひ日本人に貸したいという方で、とてもよくしていただいた。

パリの街角で信号を待っていたら、車の運転席の窓が開いて、「OOへ行くのはこっちでいいのか?」といきなり聞かれて面食らったり。幸い知っていたので、それで良いと教えてあげられて良かった。徒歩で街を歩いていても、フランス人に道を聞かれたことがあり、移民が多い国だと、知っていそうと思われたら聞かれるらしいとわかった。

最近では新幹線のプラットホームで、若い金髪女性から突然切符を見せられて、「この列車がここのホームであっているか?」と聞かれた。私も海外でも日本でも、方向音痴だからそんな感じで、答えてくれそうな人を第六感で見つけては尋ねていたっけ。

蛇足ながらつけ加えると、パリの大きな駅でTGVの切符を買おうとして、私の前の観光客と同じ質問を、英語でしたら、若い女性の係員がブチ切れて、ヒステリーをおこしたので、簡単な旅行会話は、仏語でした方が無難。洋服店やハーブ系、薬局などでは英語を話してもヒステリーを起こされたことはないけれど、警察は特に、仏語で話さないと答えてくれない。下手でも単語だけでも、仏語で言えば相手は通常上機嫌。気を良くして、こちらの仏語がかったるかったら、相手が英語に変えてくれたりする。但し全てにおいて、最初の枕詞で目を見てBonjour!最後にMerci!を客が言うのが常識。スーパーのレジでも同じ。

海外の家の間取り

私が訪問した限りの米国、豪州、ドイツ、フランス、スイスの家と家族のみですが、家の間取りで夫婦の寝室の一角に浴室があることは面白いと思います。寝室から一歩も出ずに、入浴、シャワー、トイレができる。家の主人たる夫婦の営みは、子供たちとは一線を置いている。また私が訪問したり、ホームステイしていた間、テレビが付いていたことは一度もありませんでした。来客中や、家族団欒の時に、テレビは介在しないのです。1か月滞在していても、テレビを見たことがありませんでした。

スイスの一戸建てやマンションで驚いたのは、地上が3階建て、地下が2階であったこと。地下は洗濯物を干す部屋と、政府の方針により食糧半年分の貯蔵を置く場所。及び核戦争になった場合の避難部屋となっていました。地上は3階も必要かな?と思いますが、そういう5階構造の家が特別ではないようでした。フランスとドイツの家は、地下階はなかったと思います。米国の家は2階建て、地下1階はあって、卓球部屋と貯蔵庫になっていました。家族や夫婦で会話をする時間を大事にしていて、テレビは別にどうでもいいという感じでした。

なぜ日本では夕食時や、時には一日中テレビが付いていて、テレビの前から離れられないのか。それはそのまま、スマホへ受け継がれています。電車の中で、スマホを見ている人が9割くらい。東京では電車の広告がテレビのような画面になっています。なんとなく乗っ取られているような気がするのですが。AIが単純労働をどんどん引き受けていくと、暇になった日本人は、どんな生活をするのでしょう。動画を見ているだけ?AIがホワイトカラーの仕事もやってしまうと、暇になった人は何をして過ごすのでしょう。ネドじゅんさんの「未来予言」では、10年以内にそんな生活がやってくるらしいです。

母国で一流大学を卒業し、日本語検定試験1級を取り、日本に住んでいる外国人の動画では日本を絶賛していますが、たしかに日本の良いところは沢山あるのだけれど、全体主義的なところはあるかなと思います。社畜とか、個人の自由を犠牲にして全体に合わせるやり方。

私が最近やっているのは、何月であろうと、寒ければ暖房するし、ダウンコートも着ます。気温や天候が不順なので、春だから少し先取りしたファッションを楽しむなんてやっていたら、風邪を引くだけ。夏でも冷房がきつすぎて身体がしんどいこともあるので、遠出する際はホッカイロを持参します。せっかく遠出して楽しみに行って、道中で風邪をひくのは残念だから。

数日前は、6月でもウール100%のパンツにカシミヤ100%のカーディガンを着てちょうど良い温度でした。歳を重ねると、温度に付いていけなくなるとは聞いていましたが、本当だと実感しています。