好きなもの、心惹かれるもの

本、映画、音楽、陶器、織物、工芸品をご紹介します。

パルティア帝国

 

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キメク汗国と同様、日本語の文献がない、というパルティア帝国について、栗原慎一郎氏が言及されていましたので、記事を英語で見つけました。のんびり訳していきたいと思います。

中国語では、安息国と表記されます。安禄山が有名ですが、ソグド系、突厥系の人々で、姓は安氏が多かったようです。

www.crystalinks.com

 

アルサシッド帝国としても知られるパルティア帝国(紀元前247年-西暦224年)は、古代ペルシャにおけるイランの主要な政治的および文化的権力でした。後者の名前は、パルニ族の指導者として、紀元前3世紀半ばにイラン北東部のパルティア地方を征服し、その後セレウコス朝に反逆したサトラップ州を征圧したパルティアのアルサケス一世に由来します。

 

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パルティアのミトラダテス1世(紀元前171〜138年)は、セレウコス朝からメディアとメソポタミアを奪取することで帝国を大きく拡大しました。パルティア帝国は、現在のトルコ南東部にあるユーフラテス川の北端からイラン東部まで広がっていました。地中海盆地のローマ帝国と中国の漢帝国の間のシルクロード交易路に位置する帝国は、貿易と商業の中心地となりました。

 

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パルティア人は、ペルシャ、ヘレニズム、および地域の文化を含む、文化的に異質な帝国の芸術、建築、宗教的信念、および王室の紋章を採用しました。その存在の前半の間、アルサシッド裁判所はギリシャ文化の要素を採用しましたが、最終的にはイランの伝統が徐々に復活しました。アルサシッドの支配者たちは、アケメネス朝の相続人であるという主張として、「王の王」と名付けられました。実際、彼らは多くの地元の王を家臣として受け入れ、アケメネス朝は大部分が自律的ではあるが、中央で地方総督を任命したと思われる。裁判所は、主にイランの外で少数の地方総督を任命しましたが、これらの総督はアケメネス朝が強化するものより小さく、強力ではありませんでした。アルサシッドの権力の拡大に伴い、中央政府の所在地はトルクメニスタンのニサから、チグリス川(現代のバグダッドの南、イラク)に沿ってクテシフォンに移りましたが、他のいくつかの場所も、首都として機能していました。

 

パルティアの初期の敵は、西のセレウコス朝と、東のスキタイ人でした。

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セレウコス朝は、アレキサンダー大王の東部征服から創設されたギリシャマケドニアの国家でした。その権力の頂点には、中央アナトリア、レバント、メソポタミアペルシャ、今日のトルクメニスタンパミール、そしてパキスタンの一部が含まれていました。セレウコス朝は、ギリシャの慣習の卓越性を維持し、ギリシャマケドニアの政治エリートが、主に都市部で支配したヘレニズム文化の主要な中心地でした。支配的なエリートを形成した都市のギリシャの人口は、ギリシャからの移民によって強化されました。エジプトへのセレウコス朝の拡大は、ローマ軍の手による決定的な敗北の後、突然停止されました。帝国の東部の多くは、紀元前2世紀半ばにパルティアのミトラダテス1世の下で、パルティア人によって征服されましたが、それでもセレウコス朝の王たちは、アルメニアの王ティグラネス大王による侵略と、ローマの将軍ポンペイによる最終的な転覆まで、シリアからの残存国家を支配し続けました。

 

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古代では、スキタイは、ポントス・カスピ海の草原に住んでいた遊牧騎馬民族の特定のペルシアのグループを指すために、ギリシャ人によって使用された用語でした。ただし、名前「スキタイ」と関連する単語サカ(ペルシャ語)は、スキタイ人に似ていると見なされるさまざまな人々、または現在の中央アジア、ロシア、ルーマニアウクライナをカバーする広大な地域のどこかに住んでいたさまざまな人々を指すためにも使用され、中世までスキタイとして知られ、「文化的に類似した部族のネットワーク」として説明されてきました。歴史的なヨーロッパのスキタイ人は古代ペルシャ語を話し、古代全体を通して、当時スキタイとして知られていたポントス・カスピ海の草原を支配していました。スキタイ文化と歴史的グループの両方の究極の起源は、依然として学術的な議論の焦点となっています。古典的な歴史と考古学的証拠は、スキタイ文化の起源の部分的な理解しか与えていません。確かなことは、鉄器時代に、東ヨーロッパの草原からアルタイ山脈までの広大な地域で、広く類似したスキタイ文化が開花したことです。

 

しかし、パルティアが西に拡大するにつれて、彼らはアルメニア王国、そして最終的には後期共和制ローマと衝突しました。ローマとパルティアは、アルメニアの王を従属させるために、互いに競争しました。パルティア人は紀元前53年のカルラエの戦いでマーカスリシニウスクラサスをしっかりと打ち負かし、紀元前40〜39年に、パルティア軍はタイヤを除くレバント全体を攻略しました。

しかし、マルクス・アントニウスはパルティアに対する反撃を主導し、ローマ・パルティア戦争中に数人のローマ皇帝メソポタミアに侵入しました。ローマ人は、これらの紛争中に何度もセレウキアとクテシフォンの都市を占領しましたが、それらを保持することはできませんでした。しかし、マルクス・アントニウスはパルティアに対する反撃を主導し、ローマ・パルティア戦争中に数人のローマ皇帝メソポタミアに侵入しました。ローマ人は、これらの紛争中に何度もセレウキアとクテシフォンの都市を占領しましたが、それらを保持することはできませんでした。パルティアの王位争いの頻繁な内戦は、外国の侵略よりも危険であることが判明し、ファールスのイスタフルの支配者であるアルダシール1世がアルサシッドに反乱を起こし、最後の支配者であるアルタバノス4世を西暦224年に殺害したときに、パルティアの権力は雲散霧消しました。アルダシール王朝はアルメニアアルサケス朝まで続いていましたが、アルダシールはササン朝ペルシア帝国を設立し、7世紀のイスラム教徒の征服までイランと近東の大部分を支配していました。

パルティア語、ギリシャ語、その他の言語で書かれたパルティア語の情報源は、ササン朝や以前のアケメネス朝の情報源と比較すると不足しています。散在する楔形文字、断片的な古代ギリシア陶片追放で用いられた投票札の陶片、岩の碑文、ドラクマの硬貨、およびいくつかの羊皮紙の文書を除いて、パルティアの歴史の多くは外部の情報源を通じてのみ知られています。これらには主にギリシアとローマの歴史が含まれますが、パルティア内の中国製品市場によって思い出された中国の歴史も含みます。パルティアの芸術作品は、社会や文化の側面を理解するための有効な情報源とみなされています。

 

 

西尾純さん

映画「縄文」に出演されていた方。芸名はジュン・アマント天人だそうです。実際に縄文人のような生活をしてみたとかエピソードが面白いです。

環太平洋の、ふんどしをして、二軸に中心がある民族の村々を回ったのだそうです。ハワイはわかりますが、タイも二本軸だったんですね。日本の由来が二本だとは聞いたことがあります。

 

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「ミーニング・ノート」

古田真一さんお薦めの「ミーニング・ノート」山田智恵著 金風舎

日々、わらしべチャンス(小さなチャンス)、スパイシーチャンス(心がネガティブになる出来事)、キラキラチャンス(誰もがチャンスと思っているような良いこと)を3つだけ、手帳に書いていくやりかたです。意味付けするノートですね。

確かに、意識が、やだなあ、と思うことを反芻して、あの時もこうだった、などと深堀りに向かいがちなので、これをやってみることにしました。購入したのは、MACOさんの手帳ではありますが、こちらも出来事、問いかけ、決める、と3つにノートが分かれているページがあり、例えば出来事として、セールで洋服を買った、問いかけとして、浪費しすぎではないか、本当に必要だったか。決めることとして、本当に必要で且つ、一目惚れしたような服だけを買う、と記入する。

このように、日々の自分の行動を見直してみるやりかたです。正月に遡って、その日に良かったことと、チャンスと思うことを3つ、そして事件は記入しました。普段から、病気や怪我をした時は、後で医師に聞かれることもあるので、手帳に原因とか症状を書いておきます。どのような仕草をすると、怪我しやすいかを見直したかったので。例えば、慌てて、来ているバスに乗ろうして走ってひどく転んだ、なんてある話です。でもそれでひどい怪我になってしまうと、困るのは自分なので、些細なことでも気をつけないといけないなと思います。

このスパイシーチャンスが、逆転の発想の練習になるのですね。今までなら、ブーブー言いたいような理不尽なことも、この不遇をどんなチャンスに変えるか、と想像する頭の体操が良いな、と思えるようになりました。こういうことは時々ありました。例えば、何かひどく否定されたお陰で、そのことについて詳しく調べる気になり、実はとても貴重な歴史があったと知ったこと。非常に不愉快な思いをしたおかげで、そこに行かなくなったのだが、実はそこがひどいことをしていたことを知ったこと。結果として縁が切れて幸いだった、なんてことがあります。

というわけで、日記ではなく、毎日3つ、チャンスをノートに書く、ということ、それに伴い、ありがちなスパイシーチャンスをどう捉えて、発想の転換をしていき、楽しく過ごすかを今年のテーマにしようと決めました。

この本で紹介されているノートブランドから2つが気になりました。

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キモリさんのオーダーノートのリングの位置がユニークですね。手が邪魔になって書きにくいことを想定して、だそうです。

kakimori.com

 

「犬のうんちを踏んでも感動できる人の考え方」

ひすいこたろう著 祥伝社黄金文庫

 

字も大きく読みやすい本です。じわ〜んとくるものがあります。短いエッセイが集められていますが、どれも、ものの見方を反対側から見てみる、という短編です。例えば倒産とか、もうダメだ、という事態に、ピンチはチャンス、などと思える人が、どれだけいることか。それを、逆転の発想で乗り越えた人のエピソードなど。

中でも私が気に入ったのが、インドの王様と家臣アシュタバクラのエピソードです。

いつでも王様に助言を求められると、「起こることは全て、最高でございます。」と答えた家臣。ある時、王様が怪我をしてしまいます。他の家臣に、どう思う?と聞かれ、アシュタバクラはいつものように、「起こることは全て、最高でございます」と答えたところ、他の家臣たちが王様に告げ口をして、牢屋入りになってしまいます。ところが狩りに出かけた王様が、人食い部族に捕まり、生贄の儀式で火をつけられる寸前、手に傷があるのを見咎められて、無罪放免になったのです。この部族は、傷物は生贄にできないしきたりがあったためです。無事に戻った王様は、すぐさまアシュタバクラを牢屋から出して謝りました。するとアシュタバクラ曰く、王様に牢屋に入れられたお陰で、普段はいつも狩りのお供をする自分が生贄になったはずが、命が助かりました。だから人生で起こることは、本当にすべて最高なのです。

童話のようなお話ですね。確かに、日々自分が期待したことが、予想と違った展開になった場合、腹が立ったりします。ジタバタとなんで?と思ったり。それを、これは別のもっと良いことがあるから、今回はやめておけ、ということなのだ、と理解して、パッとあっさり切り替える。気持ちを切り替えて、それは取り敢えずペンディングにしておいて、別のことをしているうちに、もっと良い展開が向こうからやってきたりするのだそうです。

この本のあとがきを書いているのが、誰あろう、古田真一さんでした。そこには赤裸々に、本来は保険のセールスをする事業主でありながら、紆余曲折あり、ふぐやのオーナーにもなった彼が、ふぐの肝の件で逮捕され、服役するハメになった顛末が詳細に書かれていて、これがまた驚くべきストーリーなのです。そして、その服役中に読んだ奥様の差し入れ本、逆転の発想を書いた(ひすいこたろう著 この文庫になる前の「ものの見方検定」)のおかげで、出所後、なんと彼は保険セールス日本一に二年連続輝き、月収は1億を超えるとか。セールスでこれを達成したのではなく、1日3人を喜ばせる、ということをしていたら、こうなったそうです。この数字になったのは、ある企業の会長さんに「あんた、おもろいなぁ。」と一度会社に来るように言われ、法人の契約をその会長さんはじめ、会長さんの紹介で次々もらった結果だそうです。なかなかすごい人だなと思いました。というのも、スピリチュアル本はわんさか出版されていますが、ここまで徹底して実行して、人生を変えて行った方も珍しいと思うので。変えて行ったというか、古田さんがイメージしたことは、予祝でもあり、先にそうなる、と喜んで暮らしていたら(刑務所の二人部屋の中で)、後から続々と富も名声もやってきたわけです。ふぐやには毎日400~500人が、コロナをものともせず、片田舎の古い屋敷にやって来られるそうです。MACOさんの、宇宙は喜びのエネルギーで生きる人を好む、という話も納得の方ですね。

古田真一さんの生き方

偶然、古田真一さんを知りました。ネットのインタビュー記事を見たのが最初でした。何人かの方がブログで紹介されています。

まず、庄屋だった立派な300坪のお宅を改造されて、ふぐやさんをされていますが、目を惹かれたのが、古い帯をリメイクして、椅子にしていらっしゃる写真。私ならもったいなくて、背もたれのみ帯にして、座るところは、汚れたら拭けるように革か木にすると思います。帯は洗えませんし、西陣織は糸が擦れてハゲてしまいますから。でも今や、中古の帯や着物は、一山千円で売られているので、惜しげもなく使えますね。昭和頃の帯ではないかと思われます。

この古い邸宅と帯がとてもマッチしていて、センスのいい方(奥様のセンスかも知れませんが)だなとまず、思いました。 

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二階のご自身の部屋は、天井を星空にして、バーに改造されていますが、業者さんをご自分でネットで探し、打ち合わせに初めていらした兄弟の方に、宇宙と星をテーマにしたいんです、と説明されたところ、その業者さん兄弟の名前が、宇宙と星、だったそうです。すごい出会いですね。

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この覗き窓がなんとも言えないセンスです。

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この4枚の写真は、菅原さんのブログからいただきました。

ameblo.jp

ひすいさんのブログでも紹介されているのですが、これを読んで、ひすいこたろう著 「犬のうんちを踏んでも感動できる人の考え方」を思わず買ってしまいました。

ameblo.jp

●古田真一さんのインタビュー全編こちらで無料公開中。

ひすいユニバース

https://hisui-universe.com/j-tube/?fbclid=IwAR1ORmwVxPMXypAyqSY4pY3jX9J_YlFoeO4TR7kvYhZlxNeVdk38oiec7Bc

 

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フランスTétard 工房

Odiot工房と双璧をなす評価の高いTétard 工房です。1670年創業のOdiotに比べるとTétard 工房は1870年創業と2世紀後の創業にはなりますが、Tétard 工房が有名なことの1つは、エレガントなデザインによるものではないかと思います。万国博覧会で3度Tétard は金賞などを受賞していますが、カトラリーのデザインが美しいです。下の記事では創業1880年になっていますが、正規店のコメントでは1870年創業でした。

これが、ティタールの刻印です。

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Trianonという名前のカトラリーシリーズ。このトリアノンで、最初の万博金賞を受賞しています。詳細はわかりませんが、Tétard は1980年代に、オディオに買収されたそうです。現在トリアノンとマリーアントワネットのシリーズは、オディオマークをつけて売られていますが、オリジナルはティタールのものです。デザインと金型も含めて買収されたとオディオ正規店からのコメントです。ですからTFRESというマークが刻印されているカトラリーならば、買収される前に製造されたことがわかります。

 

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こちらはMarie-Antoinette命名されたシリーズ

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www.odiot.com

www.koopman.art

Tetard Freres エレガントで伝統的なスタイリングと伝説的な品質で有名です。「王への銀細工職人」として、テタール・フレールは、1880年エドモンド・テタール(1860-1901)によって設立されて以来、フランスの貴族に上質な銀細工を供給するフランスの主要な工房です。1889年、エドモンド・テタールは万国博覧会に参加し、彼の卓越したデザインと最高品質の銀製品で金メダルを獲得しました。同社は、ルイ15世スタイルのスターリングシルバー食器セットと食器製品を専門としています。1901年、会社はエドモンズの3人の息子、アンリ、ジャック、ジョージの管理下に置かれました。1920年から、同社は前衛的な作品で知られるヴァレリー・ビゾアール(1875-1945)とルイス・タルディ(1881-1978)のデザインに従って模範的な銀食器を製造しました。1931年の国際博覧会で、テタール兄弟の銀細工の傑出した作品に対して、10個のメタルが授与されました。

 

Edmond Tetard (1860 - 1901)
Tetard Freres - famed for their elegant, traditional stylings and legendary quality. As "Silversmith to the King," Tetard Freres has been France's premier supplier of fine silver to the French Aristocracy since its founding in in 1880 by Edmond Tetard (1860-1901). In 1889, Edmond Tetard participated in the Universal Exposition and received a gold medal for his outstanding designs and premier quality silver products. The firm specializes in sterling silver flatware sets and tableware products in the style of Louis XV. In 1901 the firm was put under the control of Edmonds' three sons - Henri, Jacques and Georges. From 1920 the firm produced exemplary silver pieces following the designs of Valery Bizouard (1875-1945) and Louis Tardy (1881-1978) - known for their creations of the avant-gards. In the International Colonial Exhibition of 1931, the Tetard Brothers won "un palmares exceptional" - a stunning 10 medals were awarded for their outstanding creations in sterling silver. 

 

www.hancocks-london.com

Tétard Frères

エドモンド・テタールは、1880年に有名な銀細工職人エミール・ヒューゴの事業を引き継ぎました。彼はその年の8月に彼のマークを登録し、パリ中心部のマレ地区の北にある4rueBérangerに工房を作りました。彼は才能のある職人であり、彼の作品はすぐにクライアントと彼の同時代人の両方の注目を集めました。同社は、コーヒーやお茶のセット、装飾的なトレイや壷など、食器やその他の食器の美しいセットの製造を専門としています。全ての作品は、エレガントなプロポーションが特徴で、細かく細工されており、多くは装飾的なディテールがあり手彫りで作られています。彼は1889年にパリ万国博覧会に出展し、ロココ様式の影響を受けた優れたデザインと、高品質の銀製品で、金メダルを受賞しました。テタールの作品は、目の肥えた顧客から非常に人気があり、フランス貴族のお気に入りになりました。

Edmond Tétard took over the business of the renowned master silversmith Émile Hugo in 1880.  He registered his mark in the August of that year giving the workshop address as 4 rue Béranger, north of the Marais in central Paris.

He was a talented craftsman and his work soon came to the attention of both clients and his contemporaries.  The firm specialized in creating beautiful sets of flatware and other table ware such as coffee and tea sets, decorative trays and urns.  All the pieces featured elegant proportions and were finely wrought, many embellished with decorative details and hand engraving. He exhibited at the Exposition Universelle in Paris in 1889 where he was awarded a gold medal for his outstanding designs and fine quality silverware, much of which was influenced by Rococo style.  Têtard’s pieces were highly sought after by a discerning clientele and he became a favourite of the French aristocracy.

テタールの死後、会社は彼の3人の息子、アンリ、ジャック、ジョージに引き継がれました。Tétard Frères と改名され、兄弟は1903年2月に父親の工房マークをやめて独自のマークを登録しました。この会社は20世紀初頭の主要な銀細工工房となり、アール・デコ様式の作品は、広く賞賛されました。芸術的才能と前衛的な傾向で有名な、デザイナーのヴァレリー・ビゾアールとルイス・タルディは、1919年頃に会社に加わりました。

After Tétard’s death the firm passed to his three sons Henri, Jacques and Georges.  It was renamed Tétard Frères and the brothers retired their father’s maker’s mark and registered their own in February 1903. The firm went on to become one of the leading silversmiths of the early 20th century and their Art Deco style pieces were widely admired.  The designers Valery Bizouard and Louis Tardy who were renowned for their artistic talents and avant-garde leanings joined the firm around 1919.

アンリテタードの息子ジャンとともに、彼らは会社の幅広い称賛と数々の賞をもたらした首謀者の作品を担当しました。特にBizouardのデザインは、過去への深い敬意を反映し、同時に現代の味と要求を認識し理解する、美しく精巧に作られた作品に対する同社の評判を確固たるものにしました。

Along with Henri Tétard’s son Jean, they were responsible for masterminding works that brought the firm wide acclaim and numerous awards.  Bizouard’s designs in particular helped cement the company’s reputation for beautiful and finely made works that reflected a deep respect for the past whilst simultaneously acknowledging and understanding the taste and demands of the modern era.

1930年に発表された記事は、過去の最高の作品との高貴で微妙な親和性があると称賛しています。

 An article published in 1930 observed that, “In Tétard’s search for new patterns and pure harmonies, we will readily discover the care they have always shown for adorning the modern home with pieces that are clearly of our time and whose forms reflect its spirit and style while still retaining …. noble and subtle affinities with the finest productions of the past.”

今日、ティタールという名前は、1920年代と30年代の印象的な作品で、最もよく記憶されています。その角度のある形と、すっきりとした幾何学的な線は、永続的な魅力を保証し、今日も評価され、収集され続けています。

Today the name Tétard is best remembered for their striking pieces of the 1920s and 30s whose angled forms and clean geometric lines have ensured their lasting appeal and they continue to be appreciated and collected today.

フランス Odiot工房の芸術品

11月3日の記事で、1830年にボスポラス王国首都のケルチの近くで、クル・オバ古墳が発見され、出土したギリシャ風の黄金細工の写真を紹介しましたが、それはすぐに王宮の職人によって、真似されていたのでは?と思いました。

フランス最高峰で最古、欧州王室御用達 Odiotオディオという銀細工工房の作品です。

 

The Heritage and History of Odiot and its Influence on the Modern Day Silver Market

The House of Odiot was founded in 1690 by Jean-Baptiste Gaspard Odiot. The House rose to prominence under the extremely talented Jean-Baptiste Claude, Jean Baptiste Gaspard’s grandson. He received many prestigious orders from the Emperor, including Napoleon’s coronation sword and scepter and the Emperor’s campaign dinner service. Odiot was particularly influenced by the antique style and created lavish displays in silver-gilt. Odiot’s reputation spread beyond the Empire to all the courts of Europe.

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The Heritage and History of Odiot and its Influence on the Modern Day Silver Marketkoopmanrareart.wordpress.com

 

オディオ工房の芸術的作品の写真が載っているサイトがありました。フォーク、スプーン等のカトラリーも写真には出ていませんが、ここにあるはずです。

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quintessenceblog.com