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「ジョージ六世戴冠式と秩父宮」

吉田雪子著 新人物往来社 1996 

英国王室ジョージ六世戴冠式には、秩父宮両殿下がご出席だったのですね。雪子夫人の父、牧野伸顕伯爵が若い頃、英国公使館書記官としてロンドンに数年暮らしていたとは知りませんでした。雪子夫人は、晩餐会にダイヤのティアラをされていて、お顔立ちも、日本人離れした印象を受けます。子供時代から英語とフランス語を習われていたのだとか。
この銀色の小さな本は、1936年英国のLongmans Green and Co.Ltd.にて英語で出版された。駐英日本大使夫人という肩書きで、日本の印象を良くするためだったとか。


p90 アルバート・ホールでクライスラーのバイオリン演奏を聞かれ、魂を揺さぶるような彼の演奏の美しさに圧倒されました、と書かれています。

 

p102 ウェストミンスター寺院に入ると、玉座のすぐ近くに私たちの名札があったので、そこに慎ましく腰を下ろしました。儀式の始まるまでにまだ三時間あったので、貴族の奥方や姫君が真紅色の衣装をお召しになり、立派な宝冠を着けてお通りになるのを興味深く眺めておりました。定刻が近付いてなり始めた荘重なオルガンの響きに、私たちはじっと気を引き締めました。他の外国の王族の先頭に立って、秩父宮殿下と妃殿下が寺院の西側の扉から入っておいでになり、ゆっくり歩を進めて来られました。

 

訳者長岡祥三氏のあとがきによると、
p181 吉田夫妻の二度目のロンドン駐在は1920年から大使館一等書記官として1年7ヶ月勤務した。この間の重要な出来事として、皇太子殿下(のちの昭和天皇)のヨーロッパご訪問と、日英同盟の廃止がある。日英同盟について、吉田一等書記官はその存続に懸命の努力を下が、米国の立場を尊重するカナダのメーゲン首相が廃止論の先頭に立ち、同盟存続に傾いていたロイド・ジョージ首相やカーズン外相を押し切って、廃止が決定した。とありますが、カナダの首相が英国首相を押し切って日英同盟を廃止させた???

 

Wikiデビッド・ロイド・ジョージを見ますと、以下のようになっています。

ワシントン会議日英同盟の破棄[編集]

1921年5月15日、皇太子裕仁親王(前列左から3人目)らと日本の国内総生産は1885年から1920年までの間に3倍に成長し、とりわけ鉱業と製造業は6倍という急成長を遂げていた。

1914年までに日本海軍のあらゆる艦船が国産できるようになり、その海軍力は世界第3位か第4位に数えられるようになっていた(ドイツ海軍力の評価で順位が変わる)[25また大きな貿易収支黒字国家として経済的にも無視できない国になっていた。この貿易黒字は大戦でヨーロッパ列強が没落したことでさらに伸び、日本の対英・対米輸出額は戦前の2倍、対中輸出額は4倍、対露輸出額は6倍になった。日本商船の数は急増し、あちこちに日本人が顔を見せるようになった。


欧米人の間で急速に黄禍論が高まっていった。イギリスは自国の中国・インド市場に日本が食い込んでくることを恐れ、アメリカも中国・フィリピン市場を日本に奪われることを恐れた。特にアメリカはマニフェスト・デスティニーの掛け声とともに西進を押し進めている最中であり、1916年には両洋艦隊の建設を宣言し、日本との対決姿勢を強めていた。大戦末には白人連合を作って日本を潰す必要があるとの認識が白人国家間で共有されるまでに至った。


日本には資源がないため、欧米に黄禍論で団結されて貿易を切られた場合干上がることは確実だった。また日本の人口は1885年から1920年までの間に約1.5倍に急増しており、増加した人口の職場(植民地)の確保にも迫られていた。その両方を解決できるのがアジア、とりわけ中国への進出だった。中国は1911年の辛亥革命の失敗で無秩序の極致に陥っており、またアジア知識人層には西欧帝国主義に唯一抵抗できる勢力として日本に期待する者が多く、すでに日本から帝国主義的進出をだいぶ受けている中国においてさえ知識人層の間では日本留学が流行っていた。こうした状況から日本国内で徐々にアジア主義と反米の機運が高まりはじめた日米軋轢が増し、アメリカからイギリスに日英同盟を破棄せよとの圧力が強まっていく中の大正10年(1921年)5月、日本皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)が訪英した。5月13日に駐英日本大使館で開かれたエドワード皇太子を主賓とする晩餐会にロイド・ジョージも出席し、裕仁親王と20分ほど歓談した。

 

裕仁親王が「日英両国がよく同盟の誼を重んじて東洋平和、否、世界平和擁護の為に貢献したことの甚少なからぬとは頗る欣しく」と述べたのに対して、ロイド・ジョージは「日英両国の親善関係を末永く持続させるよう十分な努力を惜しまぬ覚悟です」と答えたという。また健康を気遣ってくれた裕仁親王に感謝したロイド・ジョージ裕仁親王と固く握手した。さらに5月15日には裕仁親王歓迎のための午餐会を主催した。午餐会後にはロイド・ジョージ裕仁親王は一緒に散歩して歓談した。

しかし皇太子の訪英も日英同盟を維持させるには至らなかった。同年12月のワシントン会議でイギリス代表として出席した外相バルフォアはこれ以上対米関係を悪化させないため、日英同盟に代えて日英米仏で四カ国条約を締結した。これについてイギリス政府は「日英同盟破棄ではなく拡大」と弁明したが、実質的には同盟の破棄も同然であった。

 

またイギリスはこれまで世界第二位の海軍国と第三位の海軍国を合わせた海軍力よりも多い海軍力を保有することを目指してきたが、大戦で疲労したイギリスにもはやそれだけの海軍力を維持することはできず、新たな海軍大国となったアメリカと日本に急追されていた。建艦競争の再発を恐れるイギリスは、ワシントン会議においてワシントン海軍軍縮条約の締結に応じた。この条約によりイギリスとアメリカと日本の海軍力比率は5:5:3と定められた。これによりイギリスは戦艦と巡洋艦26隻を含む657隻を廃船することとなり、イギリスの海軍力の絶対的優位が崩れた。また英領香港を海軍基地として使うことができなくなり、租借地威海衛からも英海軍を撤収させることになった。

 

p183 もう1つ、吉田大使が力を注いだのが、日独防共協定に断固反対したこと。

 

p184 広田内閣は日独防共協定を結ぶ方針を決定した。在外の主な大公使の意見を徴したところ、皆が賛成する中で、吉田大使のみが反対した。「日本はナチス・ドイツの実力を買いかぶりすぎている。大戦後のドイツは英米を相手にして戦えるほどの国力をまだ回復していない。今、日本がドイツに組すれば、防共協定は必ずや軍事的なものに発展し、将来英米を敵にして戦わねばならぬ羽目に陥る危険がある。」

この正論が圧倒的多数に阻まれたのですね。