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「大英博物館と日本人ー夏目漱石・南方熊楠・孫文」

京大名誉教授 岩村 忍著

 

南方熊楠について、昭和天皇が1度謁見してたいそう喜ばれたと読んだ以外何も知らなかった。孫文の命の恩人でもあったんですね。

 

p163 漱石が「方丈記」を英訳したのは大学生のとき。南方の「方丈記」翻訳も、当時ロンドン大学総長、日本研究家ビクター・ディキンズとの共訳である。

 

p164 南方は奇才、天才で、型にはまった学校教育は歯牙にかけず、自ら好むままの生活を送った。当時のアメリカやその大学は失望以外のものではなく、早々に切り上げてイギリスに向かった。

ロンドンで南方は片岡某という奇怪な日本人に出会った。
ギリシア語、ラテン語以外にほぼ10か国語に通じ、そのほかサンスクリット、漢文に通じていた南方でさえ、片岡の英語に最大級の賛辞を呈している。

片岡は南方を骨董品の売り込み先の大英博物館の館長サー・オーガストス・フランクスに紹介した。フランクスは大富豪であり、有名な考古学者でロンドンでも一流の名士であった。フランクスは、南方を東洋部長であった日本研究者サー・ロバート・ダグラスに紹介した。

 

p165 南方は、1886年科学雑誌「ネーチュア」に中国の天文学に関する「極東の星座」という論文を投稿し、タイムズほかジャーナリズムでとりあげられ、一躍有名になっていた。

フランクスは南方の知識と奇才に驚嘆して、大英博物館に招聘した。こうして南方は6年間、大英博物館に通って、「大英博物館日本書籍目録」を完成するかたわら、珍書500冊を手写した。

孫文日清戦争後、清朝打倒のため広東省城を急襲したが失敗して、米国経由でイギリスに亡命した。
南方と孫は、相互に家を訪問していたが、孫が在ロンドン清国公使館に誘拐監禁された時、南方はダグラスほかと共にイギリス当局に訴え、清国公使館と折衝し、孫の釈放に尽力して成功した。
本国に送還されれば、処刑は免れず、孫は南方に感謝した。

1900年(明治33)に南方は貴国。翌年、孫文和歌山市を訪れ、南方と会った写真が残っている。