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南方熊楠の人生

wikiを読んだら、スケールの大きな天才児、残念ながら子孫は絶えていること、昭和天皇へのご進講はたったの25分であったこと、天皇の希望で5分延長されたこと、孫文からの手紙を人に騙し取られたこと、英、仏、独、伊、スペイン語は堪能、ロシア語、ギリシャ語も独学していたなど、いろいろわかりました。交友関係もキラ星の如し。

大英博物館にて、何度も人種差別をスタッフや訪問客に受けて、怒りのあまり暴力事件を数回起こしたものの、ヴィクトリア女王から引き止められたという竹内睦泰氏の裏話。でも帰国したのは、スポンサーの父が亡くなってお金がなかったというのが実情だったようです。昭和天皇とヴィクトリア英女王のお二人から、偉業を認められていたのは、かなりすごいことですね。無冠の学者。本当は昭和天皇も叙勲したいお気持ちはあったでしょうが、和歌山県知事に唾を吐いて牢屋にいたりしたら、無理だったんでしょうね。ディキンズの訳した「かぐや姫」を訂正したのがきっかけで友人になったり、ディキンズと「方丈記」を共訳していたんですね。孫文については、たしか、命の恩人だったと思います。ロンドンで、孫文を匿って、助けたと読んだ記憶が。

1914年(大正3年)、1月から1923年11月まで『太陽』に「十二支考」を連載。『ネイチャー』1月15日号に論文「古代の開頭手術」を寄稿。「蛇に関する民俗と伝説」「犬に関する民俗と伝説」「ミイラについて」「人柱」の執筆など民俗学にも興味がおありだったのですね。

 

1883年(明治16年)、和歌山中学校を卒業し上京。神田の共立学校(現・開成高校)入学。当時の共立学校は大学予備門(のちの東京大学)入学を目指して主として英語によって教授する受験予備校の一校で、クラスメートに幸田露伴の弟の成友らもおり、高橋是清からも英語を習った。この頃に世界的な植物学者バークレイが菌類6,000点を集めたと知り、それを超える7,000点の採集を志し、標本・図譜を作ろうと思い立った。またこの頃、手紙の控えなどから成る備忘録をつけている。

1884年明治17年)9月、大学予備門に入学。同窓生には塩原金之助(夏目漱石)、正岡常規(正岡子規)、秋山真之寺石正路芳賀矢一山田美妙本多光太郎などがいた。学業そっちのけで遺跡発掘や菌類の標本採集などに明け暮れる。郷里では、父・弥右衛門が南方酒造(後の世界一統)を創業していた。

1885年(明治18年)1月1日、現在残された日記はこの日から始まり1941年12月の死去までほぼ毎日つけられている。4月、一人で鎌倉から江ノ島に旅行。海辺の動物を採取し、貝類を購入する。4月29日、日記に「余一昨日より頭痛始まり今日なほ已まず」と書き込む。5月12日、大森貝塚を訪れ、土器、骨片を拾う。6月、この頃から翌年にかけて『当世書生気質』『南総里見八犬伝』を一冊ずつ買い足して読んでいる。6月14日、眼病を理由に三学期の試験を欠席することを決定する。7月、日光に旅行。動物、植物、化石鉱物を採集している。

12月29日 期末試験で代数1課目だけが合格点に達しなかったため落第。予備門を中退。

心機一転し自由な学問ができる新天地を求め留学を決意。当時外国に留学するには莫大な費用がかかったが、その頃の南方家の財力は頂点に達しており問題はなかった。父親は当初熊楠の留学に反対していたものの徐々に熊楠の熱意に理解を示し、最終的に留学を後押ししたという。10月20日より4日間『和歌山新聞』に送別会の広告が掲載される。26日、和歌山市内の松寿亭で送別会が開かれる。参加者は熊楠を入れて16人。このときの熊楠の演説に関しては草稿が残されている。12月22日に横浜港を出航して渡米。船内で中国人乗客と筆談する。

 

1888年明治21年)、寄宿舎での飲酒を禁ずる校則に違反して自主退学。ミシガン州アナーバー市に移り、動植物の観察と読書にいそしむ。この間、シカゴ地衣類学者ウィリアム・ワート・カルキンズ(: William Wirt Calkins)に師事して標本作製を学ぶ。

1890年3月、プリニウス博物誌』(ラテン語)を購入する。5月、タイラー原始文化』、ハーバート・スペンサー社会学原理』などを購入。5月から11月にかけてヒューロン川の川辺や付近の森林で高等植物、菌類を中心に盛んに採集を行う。12月、シカゴのアマチュア植物学者カルキンスから菌類の標本を送られ、連日、分類目録を作成する。

1891年(明治24年)1月、カルキンスから地衣類60種一箱の標本を送られる。同年5月、フロリダ州ジャクソンヴィル市に移り、生物を調査。中国人の江聖聡が経営する食品店で住み込みで働く。新発見の緑藻科学雑誌ネイチャー』に発表、ワシントンD.C.国立博物館から譲渡してほしい旨の連絡が入る。

7月、ピトフォラ・オエドゴニアを採集する。9月にはキューバに渡り採集旅行。石灰岩生地衣を発見(ウィリアム・カルキンスから標本を送られたウィリアム・ニランデルにより、新種として「Gyalecta cubana(ギアレクタ・クバーナ)」と命名されるが、正式に発表されず)。

1892年(明治25年)1月、フロリダに戻り江聖聡と再び同居。9月に渡英した。日本を飛び出してから6年の歳月が流れ、熊楠は25歳になっていた。9月28日、イギリスで、8月8日に死去した父・弥右衛門の訃報を受ける。

1893年明治26年)、科学雑誌『ネイチャー』10月5日号に初めて論文「極東の星座」を、同10月12日号に論文「動物の保護色に関する中国人の先駆的観察」を寄稿。オーガスタス・ウォラストン・フランクスと知り合い大英博物館に出入りするようになる。考古学、人類学、宗教学などの蔵書を読みふける日々が続く。

10月30日、自らの生涯にかけがいのない存在となる人物、土宜法龍と巡り合う。仏教を中心とした宗教論、哲学論で熱論を交わす。12月、土宜法龍に対して「事の学」の構想に関する長文の手紙を送る。

1894年(明治27年)、 『ネイチャー』5月17日号に論文「コムソウダケに関する最古の記録」を、12月27日号に論文「『指紋』法の古さについて1」を寄稿。これらの論文はいずれも熊楠の中に蓄積された和漢の知識を駆使して書かれたものである。いわば「東洋の知」をもって英国の学会に切り込んだのである。こうした一連の仕事によって熊楠の名は英国の識者たちに知られるようになった。

1895年(明治28年)、フレデリック・ヴィクター・ディキンズと知り合う。大英博物館で東洋図書目録編纂係としての職を得る。『ネイチャー』6月27日号に論文「網の発明」を寄稿。またこの年の4月より「ロンドン抜書」を開始する。

1897年(明治30年)1月、シュレーゲルに落斯馬(ロスマ)のことについて手紙を送る。 3月、ロンドンに亡命中の孫逸仙孫文)と知り合い、親交を始める(孫文32歳、熊楠31歳)。6月、熊楠の日記中に孫文が友情のしるしとして「海外逢知音」を書き付ける。

11月8日、大英博物館で日本人への人種差別を受け暴力事件を起こす。12月、大英博物館より入館証を返してもらい読書を再開する。1898年12月夕方、大英博物館の閲覧室で女性の高声を制し、監督官との口論の末、追い出される。14日、大英博物館から追放の通知を受ける。

1899年1月31日、常楠よりの手紙を読み「此夜不眠」。仕送りを当年限りで打ち切るという内容の前年12月21日付の常楠書簡が残されており、このことかと思われる。3月、南ケンジントン博物館での日本書の題号翻訳の仕事を始める。6月3日付の『N&Q』に同誌初めての投稿「神童」が掲載される。

紀南、植物採集・研究

1900年(明治33年)10月15日、14年ぶりに日本に帰国。大阪の理智院(大阪府泉南郡岬町)、次いで和歌山市の円珠院に居住する。翌1901年(明治34年)、孫文が和歌山に来訪し、熊楠と再会して旧交を温める。

1902年(明治35年)、熊野にて植物採集。採集中に小畔四郎と知り合う。田辺を永住の地と定める。多屋勝四郎らと知り合う。『ネイチャー』7月17日号に論文「ピトフォラ・オエドゴニア」を寄稿。12月、プルタルコス対比列伝』英訳の読書を再開する。ルソー告白』をフランス原書で読み始める。

1903年明治36年)、論文『燕石考』完成。『ネイチャー』4月30日号に論文「日本の発見」を、7月30日号に論文「ホオベニタケの分布」を寄稿。7月18日付の土宜法龍宛の手紙の中にいわゆる「南方マンダラ」の図を描き、「いずれの方よりも事理が透徹して、この宇宙をなす」ことを説明する。8月8日、この日付の土宜法龍宛の手紙の中で、引き続き独自の曼荼羅の思想について説明する。

1904年(明治37年)、田辺に家を借りる。2月、マイアーズの『人格とその死後存続』を読み始める。5月、ヒルシュの『天才と退行』を読み始める。カービーの『エストニアの英雄』を読み始める。

1905年(明治38年)4月より夜寝る前にシェイクスピア全集を読むことを日課とし、興が乗ると翌日朝にも続けて読んだ。日記に掲載されているだけでも23作品をこの時期に読破している。6月、ディキンズとの共訳『方丈記』の掲載された『王立アジア協会雑誌』1冊と抜刷11冊が送られる。

1906年明治39年)2月、アーサー・リスターからジェップを通じて熊楠の送った47種の日本産変形菌の同定に関する手紙が送られる。7月、 田辺の闘鶏神社宮司田村宗造の四女松枝と結婚(熊楠40歳、松枝28歳)。6月、タブノキクスノキ科)の朽ち木から採集した粘菌の一種が新種として記載された。熊楠が発見した10種の新種粘菌のうち最初のもの。

1907年(明治40年)、前年末発布の神社合祀令に対し、神社合祀反対運動を起こす。6月24日に長男熊弥誕生。2月8日より「田辺抜書」を開始する。田辺図書館、田辺中学、法輪寺闘鶏神社などで借りた本の妙写。9月、バートン版の『アラビアン・ナイト』12冊を購入し、就寝前に読み耽る。

1909年(明治42年)9月 、新聞『牟婁新報』に神社合祀反対の論陣を張る。

1911年(明治44年)、柳田國男との文通が始まり、1913年まで続いた。8月7日、この日付の柳田國男宛書簡で「植物棲態学 ecology」という言葉を用いる。11月12日柳田宛書簡では「エコロジー」、11月19日川村竹治宛書簡でも「エコロギー」という言葉を用いている。9月、柳田が『南方二書』を出版。10月13日、長女文枝誕生。

1912年(明治45年/大正元年)、田辺湾神島(かしま)が保安林に指定される。

1913年(大正2年)、柳田國男が田辺に来て熊楠と面会する(熊楠47歳、柳田39歳)。この時、熊楠は緊張のあまり酒を痛飲し、泥酔状態で面会したという。この時の模様は柳田の著書「故郷70年」に詳しい。柳田は親友:松本烝治を伴って熊楠宅を訪れた。

1914年(大正3年)、1月から1923年11月まで『太陽』に「十二支考」を連載。『ネイチャー』1月15日号に論文「古代の開頭手術」を寄稿。なお同年には第一次世界大戦が始まった。

1915年(大正4年)、アメリカ農務省の植物学者スウィングルが田辺を来訪し、神島を共同調査。『N&Q』に「戦争に使われた動物」を掲載。

1916年(大正5年) 、田辺に常楠(弟)の名義で家を買う。7月9日、自宅の柿の木で粘菌新属を発見。

1917年9月頃よりロシア語を独習し始める。雑誌に「ミイラについて」を掲載。11月頃から「馬に関する民俗と伝説」について調べ始める。

1918年5月頃、盛んに松葉蘭の研究と文通を行う。12月、「蛇に関する民俗と伝説」の執筆を始める。

1919年9月24日、『大阪毎日新聞』に7回にわたって「百科学者」と題した熊楠の伝記が掲載される。

1920年大正9年)2月、『集古』庚申一号に「なぞなぞ」を掲載。8月、土宜法龍の招きで小畔四郎らと高野山の菌類などを調査する。

1921年(大正10年)、粘菌新属を“ミナカテルラ・ロンギフィラ”(Minakatella longifila、「長い糸の南方の粘菌」の意。現在の標準和名はミナカタホコリ)と命名される。命名者はロンドン自然史博物館の粘菌学者グリエルマ・リスターであった。2月、『現代』に「桑名徳蔵と橋抗岩の話」を掲載。また同誌7号から「鳥を食うて王となった話」を連載。

4月26日、南方植物研究所の発起人について、その後の追加を含めて原敬総理大臣以下28名の名前が『牟婁新報』に掲載される。9月、「の生きたのが来着」連載。10月、第2回の高野山訪問。12月、「犬に関する民俗と伝説」の執筆を始める。

1922年(大正11年)、南方植物研究所設立資金募集のため上京。多くの名士、知人と面会する。7月、日光に採集旅行。11月、植物研究所の基金が集まったことを理由に常楠が仕送りを停止する。

1923年4月、『N&Q』への投稿論文「鷲石考」を書く。9月、リスター宛てに日本産粘菌141種の目録を送る。

1924年3月頃、バートン版『アラビアン・ナイト』を連日読み、索引を追補。5月、「十二支考」等の論文の版権料として中村古峡から500円を半金として受け取る。

1925年(大正14年)、長男熊弥が精神異常を発症し、入院のち自宅療養。6月、「人柱の話」を連載。

1926年(大正15年/昭和元年)2月、『南方閑話』が刊行。5月、『南方随筆』刊行。イタリアの菌類学者ブレサドラ大僧正(ジアコーモ・ブレッサドーラ)の『菌譜』("Iconographia Mycologica")の出版に際し、名誉委員に推される。

11月、熊楠が品種選定した粘菌標品37属90点を東宮(のちの昭和天皇)に進献する。

1927年、「現今本邦に産すと知れた粘菌種の目録」と「「田辺名物考」について」掲載。10月、『彗星』に「続『一代男輪講』の掲載を開始。以後、三田村鳶魚らの『西鶴輪講』に対する多数の注釈を同誌に発表。

1928年10月、妹尾官林で植物の採集と図記を行なう。

1929年(昭和4年)6月1日、 紀南行幸の昭和天皇田辺湾神島沖の戦艦「長門」艦上で進講。粘菌標本を天皇に献上した。進講の予定は25分間であったが、天皇の希望で5分延長された。献上物は桐の箱など最高級のものに納められるのが常識だったが、開けやすくするため熊楠はキャラメルの大きな空箱に入れて献上した。

1930年(昭和5年)6月、天皇行幸を記念して自詠自筆の記念碑を神島に建立する。植物採集減る。

1933年、「今井君の「大和本草の菌類」に注記す」を掲載。

1934年、『ドルメン』に「地突き唄の文句」を連載。11月、神島の植物を調査し、「田辺湾神島顕著樹木所在図」を作製する。

1935年(昭和10年)8月、神島に渡って久邇宮多嘉王と妃・息子に講話する。12月24日、 神島が国の天然記念物に指定される。

1936年、『牟婁新聞』に「新庄村合併について」を連載。

1939年、「訳本『源氏物語』の普及について」を『日本』に12回連載する。

1940年(昭和15年)11月10日、学術功労者として東京での紀元二千六百年記念式典への招聘を受けるが、歩行不自由の理由で断る。

1941年(昭和16年)12月29日、自宅にて永眠。死因は萎縮腎であった。満74歳没。田辺市稲成町の真言宗高山寺に葬られた。

 

昭和天皇へのご進講

1929年(昭和4年)6月1日に昭和天皇を神島に迎え、「長門」艦上でご進講(天皇の前で学問の講義をすること)を行なった。

昭和天皇は皇太子時代から一貫して生物学に強い関心を持ち、とりわけ興味を示したのが、海産生物ヒドロ虫と粘菌(変形菌)の分類学的研究であった。

熊楠の粘菌学の一番弟子であった小畔四郎は昭和天皇博物学等の担当者・服部広太郎の甥の上司という関係で、服部から生物学講義のための粘菌の標本を見たいとの依頼を受けた。1926年2月、小畔から熊楠に手紙で、この機会に粘菌標本を40-50種類献上してはと相談した。これに対し、熊楠は37属90点を、目録・表啓文・二種の粘菌図譜とともに11月10日に進献した。この90点は日本の粘菌を研究する上で基本となる種を網羅する目的で選ばれた。

1929年3月5日、服部広太郎が熊楠邸を来訪して仮定の形で進講を打診。4月25日、進講の決定を知らせる服部広太郎の手紙が届く。

1929年6月1日午前8時、御召艦長門田辺湾に姿を現す。熊楠は正午過ぎ田辺から漁船に乗り新庄村尊重たちと神島近海で待っていた。天皇は5時30分に長門畠島から帰艦し、熊楠の進講を受ける。

熊楠はウガ、地衣グアレクタ・クバナ、海洞に棲息する蜘蛛、ナキオカヤドカリ隠花植物標本帖、菌類図譜、粘菌標本を持参。この内、蜘蛛、ナキオカヤドカリ、粘菌標本を献上した。粘菌標本は110点にのぼり、先の進献で漏れた普通種と稀産種、変種が中心で増補するのが目的だったと思われる。入れた箱は大きなボール紙製のキャラメル箱に入れて献上した。これは蓋が開けやすいためといわれてるが、自ら持参するのに軽いものを選んだとも考えられる。

熊楠が所持した標本は国立科学博物館に寄贈され、今は筑波実験植物園にある。一周年の1930年6月1日に行幸記念碑が神島に建立された。

1962年、白浜を訪れた昭和天皇田辺湾に浮かぶ神島を見て思いを馳せ、熊楠との一期一会を懐かしみ、「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」と詠んだ。その和歌が刻まれた御製碑は、1965年に設立された南方熊楠記念館の前庭に立っている。

 

熊楠は自然保護運動における先達としても評価されている。

1906年明治39年)末に布告された「神社合祀令」によって土着の信仰・習俗が毀損され、また神社林(いわゆる「鎮守の森」)が伐採されて固有の生態系が破壊されてしまうことを憂い、翌1907年(明治40年)から神社合祀反対運動を起こした。

特に、田辺湾の小島である神島の保護運動に力を注いだ。結果としてこの島は天然記念物に指定され、後に昭和天皇行幸する地となった。熊楠はこの島の珍しい植物を取り上げて保護を訴えたが、地域の自然を代表する生物群集として島を生態学的に論じたこともあり、その点で極めて先進的であった。

この運動は自然保護運動、あるいはエコロジー活動の先がけとして高く評価されており、2004年に世界遺産にも登録された熊野古道が今に残る端緒ともなっている。

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