2020.3.24に載せた小林惠子(やすこ)元岡山大学教授説の年表、1年ほど前から50回くらいは書き直し、時には表ごと消えてしまって1からインプットし直したこともありました。ここに再喝します。
先生は、三笠宮崇仁殿下から50年ほど前に日本オリエント学会に誘われ、本を書くように言われてから数十冊を上梓されましたが、80代の方なので、日本語が独特で難解に感じます。また読み慣れない、中国大陸の苗字と名前は、読んでいるうちに、誰が誰だかわからなくなってしまうので、わかりやすい一覧表が欲しかったのです。遊牧騎馬民族の草原の帝国の方が、実は中国よりも広くて強かったことは、小林先生の一連の本や栗本慎一郎氏の本などで徐々に知りました。2019年「大化改新の黒幕」のあとがきで、三笠宮殿下が講談社と学生社に先生の原稿を持ち込まれたが却下され、先生が現代思潮社に持ち込み最初の本「白村江の戦いと壬申の乱」を出版することができたと書かれています。三笠宮殿下公認の歴史書の印象です。
私は30年近く前に「聖徳太子の正体」を初めて読んで以来、珍しい説だと思い、追って読んできました。大王が大王を殺し、次期天皇が前天皇を殺害して簒奪した歴史を書かれていますが、小林先生のあとがきによれば、三笠宮殿下からは、一切のクレームはなかったそうです。
先生の比定で目を引くのは、和風諡に姫がついていないので、持統天皇は男性で高市皇子である、聖徳太子は大王であったが、倭国で崩御されたのではなく、スイアーブへ戻ってそこで人生を終えたこと、倭国のみならず、百済の法王、突厥の大可汗、ササン朝ペルシアの将軍、宰相も兼任したというスケールの大きな仮説です。空海が、平城天皇の従軍外交官僧侶(ネゴシエーションしたり、戦いの終わりに誓約書を漢文で書いたり)として5年、中国大陸に行っていたことも成る程と思います。
根来寺、高野山が鉄砲を作っていたこと、契丹にも輸出していて僧明範が1093年に逮捕された記録があったり、比叡山は焼き討ちされたのに高野山は現代に生き延びていることを鑑みても、外交能力に優れ、戦いをできるだけ避けつつも防備は怠らない空海の訓戒が生きた証左なのではないでしょうか。
皇極朝は、以前はなかった、と書かれていましたが、2016年の本では、あったと改められているものの、いつかは明確に書かれていません。そこで考えてみましたが、皇極朝は舒明天皇と孝徳天皇の間、643~645年あたりではないでしょうか。
先生の本には、索引はないので、個別に知らない名前は調べないと理解できません。
日本でも秦一族を始め、藤原氏、井氏、紀氏、海部氏、諸々、現代に続いています。中国大陸でも一定の支配者の末裔は、存命されているようです。
私は小林先生のように、スラスラ漢文が読めませんので、壁画、工芸品、出土品、仏像、建築などから、先生の説が裏付けできたら、と思っています。
代 |
漢風諡 |
和風諡 |
諡 |
民族・地位 |
家族 |
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在位・備考 |
1 |
202年頃出生
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武 仁 |
大武神王と東川王を投影 |
父 高句麗山上王 母 挹婁地方出身 皇后 台与(卑弥呼の姪) 妃 塩土老翁の娘 子 綏靖天皇 |
亀慈出身 パルティア(安息国)領域の大夏犬戎の休氏 瓢箪と切っても切れない縁がある 卑弥呼墓 平原古墳 神武陵 備前車塚古墳 |
222年高句麗東川王即位 238年12月卑弥呼 魏に朝貢。247年北九州上陸、伊都国の卑弥呼殺害。卑弥呼没後の男王。奴国王と辰韓王として後漢から認知。 金印つまみは蛇。 255年頃安芸(広島)で没 |
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2 |
神渟名川耳 |
安杵 |
休氏はのちに葛城氏と呼ばれる |
父 神武天皇 皇后 五十鈴依媛=台与 兄 五瀬命 |
台与は纒向遺跡あたりに住んでいた |
阿岐国吉備滞在、伊都国を滅ぼす 264年大月氏出身休氏大物主と大國主の出雲勢力、長髄彦から大和を 簒奪 266年即位、晋に送使 |
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3 |
磯 城 仁 |
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皇太后 台与
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皇后 淳名底仲媛 |
286年鮮卑族慕容廆が大彦と綏靖朝を簒奪。大彦が安寧を擁立。 志木市に都を置く。 |
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4 |
大日本彦 耜友天皇 |
義 仁 |
西川王 |
祖父 神武天皇 高氏 |
神武一族丹波道主(高奴子)に助けられる |
288年倭国来日、反対勢力を討伐。 292年新城(兵庫県養父神社)で 倭王即位 |
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5 |
観松彦香殖稲天皇 |
梅 松 仁 |
匈奴末裔 劉氏 |
後漢では孝恵帝以下孝がつく |
高句麗は常に劉氏側 |
296年葛城上宮(奈良)で即位 318年没 |
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6 |
日本足彦国押人天皇 |
押仁 |
休氏 |
武埴安彦と同一人物 |
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7 |
大日本根子彦太瓊天皇 |
根子 彦 |
休氏 |
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8 |
大日本根子彦国牽天皇 |
元杵 |
休氏 |
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401年没 |
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9 |
稚日本根子彦大日日天皇 |
太日 日 |
三輪山王朝 |
妃 竹野媛 |
子 中蒂姫命 (大草香王妃、 安康天皇妃) |
由緒ある葛城地方を所有。 461年雄略天皇により孫の眉輪王と共に殺される。 |
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10 |
御間城入彦五十瓊殖天皇 |
五十瓊殖 |
匈奴末裔 劉 曜 |
高句麗出身 母方は挹婁 |
身長180cm以上 |
298年劉曜が百済と新羅王を殺し、北九州上陸。中国地方の出雲振根を滅ぼす。 318年長安で即位国名を趙とした。 328年石勒に殺され劉一族と滅亡。 |
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11 |
活目入彦五十狭茅天皇 |
五十狭茅 |
慕容 皝 慕容 仁 を投影 |
日本生まれ 纒向に都 |
父 慕容 廆 皇后 狭穂媛(神武末裔 丹波道主の娘) 子 景行天皇 |
在位313年-336年 318年慕容皝が丹波道主の子、狭穂彦と狭穂媛を殺害し、321年遼東に帰国。慕容仁が倭国を間接統治。336年仁は兄の慕容皝に殺される。348年慕容皝死没 |
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12 |
大足彦忍代別天皇
318年出生 |
足彦 |
慕容 儁 前燕の王 |
誉津別、日本武尊 と同一人物 但馬で成長 身長180cm以上 |
父 垂仁天皇(慕容皝)母 狭穂媛 次男 仲哀天皇 四男 成務天皇 |
347年日本から遼東へ帰国。 349年燕国国王即位。359年病没。 |
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13 |
若帯日子 |
逸道仁 |
百済近仇首王 慕容 暐 |
竹内宿禰と同一人物 |
(百済比流王の娘) |
在位347-359年 360年百済帰国 375年百済王即位 384年百済南西 栄山江流域で没 神功388年没 |
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14 |
帯中日子 |
橿杵 |
慕容 曄 |
成務天皇の兄 行宮は 角鹿(敦賀) |
父 景行天皇 皇后 神功皇后 妃 大中姫命 弟媛 子 押熊皇子(休氏) |
347年即位 362年神功勢から百済を守る為日本から去り百済へ帰国。新羅王奈勿尼師今と連合して神功皇后勢力の新羅侵略を阻止。372年東普へ送使。375年没。 |
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15 |
誉田別天皇 |
誉田別 |
秦国王 苻 洛 幽州刺史 百済 枕流王 |
五胡十六国出身
氐氏
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皇后 仲姫命
子 菟道稚郎子
後燕王慕容熙と共闘 |
在位390年-404年 376年北魏を攻め昭成帝は敗死 385年神功と共に押熊王(休氏)を殺す 390年宇治で即位 404年広開土王との戦闘で敗死 |
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16 |
大鷦鷯天皇 |
大鷦鷯 |
広開土王 北魏 安同 北魏広武将軍 後燕王 慕容 佐 |
安息国王 安氏と 慕容氏の混血エフタル
倭王 讃 |
父 応神天皇 皇后1 葛城氏娘磐之媛 皇后2 応仁天皇娘八田皇女 子 大草香皇子 (百済王 余比) 草香幡梭皇女 |
413年普に送使、倭王の承認 416年淡路島に住む 417年葛城氏と吉備勢力が応仁太子菟道稚郎子を自殺させ、仁徳に降伏 419年難波に大隅宮 鷹狩をする 421年宋建国祝賀使を送る 427年高句麗高連王に淡路島で殺される |
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17 |
大兄去来穂別天皇 |
去来穂別 |
腆支王 余 映 |
劉氏系 |
父 応神天皇系 母 葛城氏 子 市辺押磐皇子 |
在位 429年-432年 北九州に基盤 430年東普から百済王に任命される |
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18 |
多遅比瑞歯別天皇 |
瑞歯別 |
淡路島で出生 |
倭王 珍 都 河内 丹比 |
父 仁徳天皇 長身 |
在位 432年-438年 438年宋は安東将軍と倭国王を承認 |
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19 |
稚子 |
新羅王 訥祇麻立干 |
倭王 済 大伴一族が登場する |
在位 443年-453年 |
443年宋から倭王として承認 453年以降新羅に亡命慶州に住む 458年安興王に殺される。 |
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20 |
穴穂天皇 |
穴穂 |
安興王
姓が安 名が興 |
倭王 興
慕容氏=黒龍で 表す 王城 石上穴穂宮 |
父 仁徳天皇 皇后 履中天皇娘 妃 開化天皇娘 (大草香王妃中蒂姫命 連れ子眉輪王) 妃 北燕馮氏末裔 |
在位 456年-461年 455年百済余比王(仁徳皇子)を 殺害。 456年北九州から瀬戸内海を支配した市辺押磐王を殺害。458年新羅王(允恭天皇)を殺害。462年宋から倭王を認知。 461年眉輪王に仇討される。 |
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21 |
大泊瀬幼武 |
若建 |
北燕馮氏末裔 百済王 昆 支 倭王 武 |
北燕王城は長谷。 雄略居城 桜井市長谷 蘇我満智一族を 伴う |
父 仁徳天皇 兄 安康天皇 皇后 仁徳の娘 草香幡梭皇女 子 清寧天皇 百済東城王 牟大 |
在位 461年-478年 461年安康天皇没後、即座に百済から倭国制御に来日、開化天皇と眉輪王を殺害463年吉備地方を征服 478年新羅戦で戦死 |
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22 |
白髪大倭根子天皇 |
白髪 |
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大伴室屋大連が即位させる |
父 雄略天皇 母 葛城韓媛 |
在位480年-484年 |
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23 |
袁祁之石巣別 |
来目 稚子 |
匈奴末裔 |
市辺弘計 |
祖父 履中天皇 父 倭王 市辺押磐 |
在位485年-487年 |
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24 |
億計天皇 |
大脚 大為 |
匈奴末裔 |
市辺億計 別名紀生磐宿禰 |
祖父 履中天皇 父 市辺押磐王 子 手白香皇女 |
在位488年-501年 |
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25 |
小泊瀬稚鷦鷯天皇 |
稚鷦鷯 |
百済 東城王 倭王 武 |
北燕の馮氏末裔、 北魏馮氏の文明皇后の軍事援護 |
父 雄略天皇
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在位502年-506年 506年没 |
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26 |
継體 |
男大迹天皇 |
男大迹 |
盤陀国出身 葛城氏 新羅王 智澄麻立干 |
エフタル (大月氏と同種) 山背に王城 伴う |
皇后
子 宣化天皇 |
在位515年-531年 495年中国東北部から上陸。大伴金村が即位協力。500年新羅を攻めて新羅王即位。508年北魏に多婆那国(丹波)として朝貢。527年物部麁鹿火に九州の磐井を殺させ、統治させる。 531年安閑天皇に殺害される。 |
27 |
広国押武金日天皇 |
勾 |
安蔵王 |
皇后 仁賢天皇娘の 春日山田皇女 妃 巨勢男人の娘 |
仁徳天皇の子孫 534年継體天皇一族を滅ぼして即位したが2年で消えた |
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28 |
武小広国押盾天皇 |
檜隈高田 |
真興王 |
王城 檜隈(明日香村) 蘇我稲目の後援 |
父 継体天皇 兄 欽明天皇 皇后 橘仲皇女 |
536年即位 540年新羅へ亡命、大伴金村、狭手彦親子の軍事力で真興王になる。軍組織を花郎に変えた。576年西突厥達頭に敗死 |
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29 |
天国排開広庭天皇 |
斯 帰 |
百済聖王
百済在住 エフタル系 |
父 継体天皇 母 手白香皇女
皇后 宣化天皇娘 石姫 妃宣化天皇娘 稚綾姫皇女 |
妃 稲目娘堅塩媛 蘇我小姉君 子 額田部皇女(推古) 大伴皇女 田眼皇女 |
540年即位 南朝 梁の承認 551年突厥と狭手彦の活躍で元の領地、高句麗平壌を奪還する。 秦大津父(河勝祖先)の援助 |
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30 |
渟中倉太珠敷天皇 |
他田 |
威徳王 |
養父 欽明天皇 皇后 欽明天皇娘推古 妃 菟名子 子 竹田皇子 糠手皇女 |
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31 |
用明 |
橘豊日天皇 |
池辺 |
恵王 |
父 欽明天皇 母 堅塩媛 稲目娘 |
皇后 欽明天皇娘推古 妃 穴穂部皇女 |
587年4月即位後すぐ病没 内政は馬子が握る |
32 |
穴穂部 皇子 |
穴穂部 |
東突厥可汗 阿波 |
忠臣 物部守屋 |
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33 |
泊瀬部天皇
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泊瀬部 |
百済威徳王 (敏達天皇) が黒幕 |
父 欽明天皇 母 蘇我小姉君 皇后 推古 |
妃 小手子(大伴金村の孫) 河上娘 布都姫 子 蜂子皇子 |
在位588-592年 藤ノ木古墳被葬者 達頭の意向で東漢直駒が暗殺 |
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34 |
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達頭大可汗 (歩迦可汗) 姓 阿史那氏 名 玷厥
ササン朝ペルシア シャフリバザール将軍、 宰相
百済 法王
姓 阿毎 名 多利思比孤
等与刀弥弥 大王
豊総耳法 大王
追悼寺
550年山城で出生
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厩戸 皇子 |
祖父継体天皇 父 欽明天皇 (エフタル)
母 鮮卑鉄勒 (慕容氏)
赤髪に緑目
忠臣秦河勝の元、山城で15歳まで成長する。
「書紀」推古21年条と鎌倉時代「帝王編年記」に尸解伝説。
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皇后1 西突厥 室点蜜(シルジブロス)可汗の娘
妃 サマルカンド王族 妃 高句麗嬰陽王側室
子 莫賀咄可汗 康王に嫁した娘
孫 射匱可汗 統葉護可汗 泥利可汗
曽孫 賀魯可汗
皇后3 推古
妃 刀自古郎女 橘大郎女 膳氏娘
子 山背大兄王
孫
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皇后2
子 ヤズドガルド3世
孫 ペーローズ3世 (卑路斯)636年出生 皇后 舎衛国王女
曽孫 山辺姫王 (大津天皇の皇后)
曽孫 元明天皇
ササン朝君主は神と考えられていた。太子の十七条憲法には現人神思想がある。
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565年ササン朝ペルシャで傭兵から出世、皇帝ホルミズド4世に仕え勇名を馳せる。575年西突厥を連れて明石に上陸、新羅の攻撃を撃退する。576年新羅遠征、真興王を敗死させる。 580年までササン朝ペルシア シャフリバザール将軍としてホスロー二世の後ろ盾。 590年室点蜜可汗の女婿として突厥可汗 達頭となる。娘をサマルカンド王(康国王)に嫁がせる。サマルカンド王族の娘をもらう。 高句麗嬰曜王の側室をもらう。 598年ローマ帝国マリウス皇帝に、7か国の王として書簡を送る。 599年高句麗嬰曜王に、ホスロー二世の娘である妻を贈る。同年百済に王興寺建立。 600年淡路経由明石浦に帰国 605年大和に斑鳩宮が完成。 607年隋が阿毎多利思比孤倭王承認 621年大津に居を移し、622年琵琶湖日本海経由渤海から北方草原の道を通り、内紛のササン朝ペルシア宮廷を助ける為西突厥本拠スイアーブ砕葉城に戻り兵を養成。 628年ホスロー二世を殺した太子カワード二世を殺す。 632年ヤズドガルド三世即位。 636年ローマ軍の救援より早いアラヴ軍による首都クテシフォン陥落後、ヤズドガルド3世はトハリスタン地方のブハラにペーローズ3世はクンドゥスに逃れた。 |
35 |
山 背 |
山羊のような斑の髪 王宮 斑鳩宮 |
父 聖徳太子 母 刀自古郎女 |
皇后 舂米女王 子 難波麻呂古王 佐々女王 |
在位630年から644年10月 唐の承認 |
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36 |
古人大兄王 |
古人大兄王 |
古人 |
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父 舒明天皇 母 蘇我法堤郎女 |
子 倭姫王 (天智天皇皇后) |
在位645年1-6月。645年11月天智、天武、鎌足腹心が古人一族を吉野で殺害。 |
37 |
息長足日広額天皇
576年出生 |
田村 |
雄略子孫 百済武王 皇后1新羅真平王娘善花 子 扶余隆 |
父 聖徳太子 母 欽明天皇の娘大伴皇女
皇后2 田眼皇女 |
皇后3 斉明天皇 子 天智天皇 間人皇女 妃 蘇我馬子娘 子 古人大兄皇子 鏡姫王 額田姫王 |
600年百済王に即位。636年新羅善徳女王と講和、娘の額田姫王を新羅金春秋(武烈王)に嫁がせる。641年孝徳天皇に暗殺される。 |
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38 |
天万豊日 601年 高句麗で出生 |
軽 |
倭王 孝徳 |
父 聖徳太子 母 ホスロー2世娘 実姉 斉明天皇
忠臣 藤原鎌足 |
妃 安倍小足娘
子 有間皇子 扶余豊璋 |
642年斉明天智を済州島に追放する 642年泉蓋蘇文と連合して新羅攻撃、戦勝 645年-649年大化朝義慈王 649年百済帰国 650-654年白雉朝息子孝王 654年百済帰国 660年孝徳天皇父子、唐に敗戦、殺される |
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39 |
天豊財重日 足姫天皇
594年父が東突厥征伐中に出生 |
宝 |
ササン朝ペルシア王家末裔 |
祖父 ホスロー2世 父 聖徳太子 母 ホスロー2世娘
甥 ペーローズ3世 |
配偶者1 高向玄理 (高句麗嬰曜王の王子) 高向国押
配偶者2 舒明天皇 |
在位654年-661年 唐の承認 642年百済から済州島に643年天智額田姫王と倭国に亡命してくる。 657年ペーローズ3世が妻子を連れ大和に来るが660年妻子を人質に置き唐へ亡命、662年唐の高宗は波斯王に任命。 661年7月額田姫王が斉明天皇を 毒殺。 |
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40 |
間人 |
中皇命 624年出生 |
間人 |
別名中宮天皇 ナカツスメラミコト |
父 舒明天皇 母 斉明天皇 兄 天智天皇 |
配偶者孝徳天皇太子孝 子 有間皇子 大海人皇子がバック |
664年間人天皇即位 |
41 |
天命開別 625年百済で 出生 |
葛城 |
百済皇子翹岐
父 舒明天皇 母 斉明天皇 |
皇后 倭姫王
妃 蘇我石川麻呂娘の遠智、造媛、姪娘
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子 高市皇子 大友皇子 川嶋皇子 鸕野讃良皇女 大田皇女 大江皇女 阿倍皇女 御名部皇女 |
643年孝徳天皇に済州島へ追放され、母斉明天皇、妹間人皇女、額田姫王と倭国に亡命。662年白村江の戦。藤原鎌足を殺す。668年即位 唐の承認 670年6月天武に土佐に幽閉され、676年暗殺される。 |
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42 |
弘文 |
648年出生 |
大友 |
|
父 天智天皇 母 伊賀宅子娘 |
皇后 十市皇女 妃 鎌足娘 子 葛野王 |
671年即位 672年壬申の乱で物部(石上)麻呂に騙され殺害された |
43 |
天渟中原瀛真人天皇
別名 仁武天皇
622年出生 |
大海人 |
将軍 泉 蓋蘇文
莫離支 別名 高 任武
子 泉 男生
被葬者 |
父 聖徳太子 皇后 鵜野讃良皇女 妃 大田皇女 大江皇女 新田部皇女 藤原鎌足娘氷上娘 蘇我赤兄娘 宗像氏娘 鏡姫王 額田姫王(前 新羅武烈王の妃) 山辺姫王(ペーローズ3世の娘) |
子 草壁皇子 穂積皇子 長皇子 弓削皇子 舎人親王 新田部皇子 忍壁(刑部)皇子 磯城(志貴)皇子 大来皇女 紀皇女 多紀皇女 大伯皇女 |
在位673年-682年 伊勢神宮創建 新羅、西突厥(賀魯)、亀慈、吐蕃、回鶻と連合して唐を西から挟み撃ちにする。 642年高句麗栄留王を殺す。 同父の兄である孝徳天皇に生涯協力する。 661年平壌で唐将軍蘇定方と戦う。 673年明日香村で即位。 682年皇子の文部王が倭国に亡命して新羅軍隊が使えず天武は孤立。琵琶湖を通り大陸に亡命途上、唐の軍隊に暗殺される。 685年1月招魂の儀 11月鎮魂祭 |
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44 |
663年出生 |
大津 |
父 天武天皇 母 天智天皇娘大田皇女
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皇后 山辺姫王 657年出生 多治比 嶋の交渉で唐の承認を受け即位 |
元号 朱雀 王宮 難波宮 邸宅 大和の磐余 亀虎古墳被葬者 |
在位683年2月-686年7月 唐の承認 |
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45 |
藤原宮御宇倭根子天皇 643年出生 |
高 市 |
済州島生まれ |
父 天智天皇 母 済州島の高氏 皇后 明日香皇女 妃 藤原不比等娘 |
子 長屋王 鈴鹿王 |
在位690年-696年7月 唐の承認 |
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46 |
天之眞宗豊祖父天皇
637年出生 |
珂瑠 |
文武王 法 敏 |
祖父 聖徳太子 父 天武天皇 母 鏡姫王
金庾信と藤原不比等の支援 |
皇后 鸕野讃良皇女 (新羅皇子金庭興の 子孫) 妃 紀皇女 藤原宮子 子 聖武天皇 高 斉徳 |
在位697年8月-707年6月 672年-675年唐将と戦う 681年唐の攻撃に文武王倭国へ亡命 706年突厥と唐に反乱する為日本を去る 715年3月文武王 唐に敗戦、降伏 |
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47 |
日本根子天津御代豊国成姫天皇 661年出生 |
阿閇 |
父 天智天皇 母 蘇我姪娘 |
妹 御名部皇女 (長屋王の王妃) |
配偶者 草壁皇子 子 聖武天皇 |
707年7月即位 715年9月譲位 |
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48 |
日本根子高瑞浄足姫天皇 681年出生 |
氷高 |
忠臣 大伴旅人 |
祖父 天武天皇 父 草壁皇子668年没 |
715年9月即位 724年2月譲位 させる |
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49 |
701年出生 |
首 |
高 斉徳 新羅文武王の子
臣 橘諸兄 坂上大国 |
父 文武天皇 母 元明天皇 異母弟 弓削道鏡 異母弟 新羅聖徳王
|
皇后 光明皇后 妃 県犬養広刀自
子 安積親王 安倍内親王 |
在位729年2月-749年7月 文武天皇の大陸での子、高斉徳が渤海武王の武力と光明皇后の陰謀で聖武天皇を暗殺し、聖武にすり替わる。737年弟道鏡を新羅に送り考成王とする。742年道鏡 倭国に亡命。749年譲位、756年聖武没 |
|
50 |
高野姫天皇 |
安倍 |
忠臣 吉備真備 |
父 聖武天皇 母 光明皇后 |
|
749年7月即位 758年8月譲位 |
|
51 |
大炊 |
|
祖父 天武天皇 祖母 新田部皇女 |
父 舎人親王 母 当麻山背 |
在位758年8月-764年10月 藤原仲麻呂が擁立 765年淡路島で暗殺 |
||
52 |
称徳 |
高野姫天皇
|
安倍 |
父 聖武天皇 母 光明皇后 |
在位764年10月-770年3月 |
||
53 |
天宗高紹
|
白壁 |
百済王 女天
忠臣 藤原百川 軍事を大伴家持に頼る |
祖父 天武天皇 父 磯城皇子 母 天武娘多紀皇女 皇后 聖武天皇娘 妃 高野新笠 |
子 山部王(桓武天皇) 他戸皇子 |
在位770年10月-777年11月 777年没 715年母方百済に亡命 764年安禄山側の藤原仲麻呂を皇子山部王が新羅兵団で征伐。僧 永中、恵果を通して唐の代宗に黄金を献上し、遣唐使派遣承認された。陸奥の黄金が最大の財源。大伴家持が万葉集巻2を完成させた。 |
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54 |
天國押撥御宇柏原天皇
737年出生 |
山部 |
764年新羅待中 金良相
780年新羅宣徳王即位 本拠 平壌
渤海 大欽茂と連合 |
父 光仁天皇 母 高野新笠 (天高知日之子姫尊
都 長岡京
臣 藤原種継 |
皇后 藤原乙牟漏
子 伊予親王 安殿親王 嵯峨親王 淳和親王
鷹狩が得意で、自ら鷹の爪を切り嘴を直す |
在位785年-805年1月 唐未承認 山部王時代、肝沢城で実戦経験。792年新羅での娘金井蘭を徳宗に献上。785年弟の早良皇太子を廃位、処刑。796年黄金を徳宗に献上する為渤海使節に託したが、渤海王が黄金を横領し渤海の黄金として徳宗に献上。800年安殿に命じて新羅昭聖王を殺し哀荘王を擁立し、安殿を摂政にする。 802年安殿親王の外征中に、降伏した阿弖流為を処刑し、安殿の軍事力を断つ。殺牛の祭り(ミトラ教?)をしたが後に禁止する。 805年皇太子安殿に殺害された。 |
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55 |
日本根子天推国高彦天皇
774年出生 |
安殿 |
憲徳王
奥州生まれ 平壌育ち
空海と一生の信頼関係 |
父 桓武天皇 母 阿弖流為一族
年号は大同
平城は北魏の都で 現在の大同市
忠臣 坂上田村麻呂 |
妃 桓武天皇娘の 大宅内親王 藤原帯子
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即位805年 譲位809年 唐徳宗の承認 798-802年太子時代、徳宗を助ける為、新羅彦昇として蝦夷軍と空海を従軍外交官僧侶として中国大陸に5年帯同し、対吐蕃戦に戦勝したことを唐皇帝たちに評価される 805年桓武天皇を殺して即位。809年遣唐船を攻撃する哀荘王を殺す。伊予親王の唐使状況妨害で、憲宗に誤解され譲位したが、真相を知った憲宗の承認で、811年文室綿麻呂が護衛し、新羅へ亡命し新羅王に即位 |
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56 |
冷泉院
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神野 |
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父 桓武天皇 母 藤原乙牟漏 |
皇后 橘嘉智子
子 仁明天皇 正子内親王 |
809年4月即位 823年4月譲位 唐 憲宗未承認 |
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57 |
日本根子天高譲弥遠天皇 |
大伴 |
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父 桓武天皇 母 藤原旅子 皇后 正子内親王 高志内親王 |
子 恒世親王 基貞親王 |
唐 文宗未承認 823年4月即位 833年2月譲位 平城天皇の軍要請を無視、見殺しにする |
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58 |
日本根子天璽豊聡慧天皇 |
正良 |
父 嵯峨天皇 母 橘橘嘉智子 |
女御 藤原順子 沢子 貞子 紀種子 |
眞子内親王ほか |
在位833年-850年 |
以下の小林惠子著書を表に纏めました。 2020.6.5
「興亡古代史 東アジアの派遣争奪1000年」 文芸春秋社 1998
祥伝社黄金文庫 2000