昭和帝に評価された考古学者だったのではないでしょうか。受賞歴から見て。
wikiから
- 1930年(昭和5年)東京帝国大学文学部東洋史学科卒業、東亜考古学会として中国の北京に渡る。
- 1931年(昭和 6年)東方文化学院研究員
- 1935年から1941年まで内モンゴル・オロンスム遺跡で調査し、ネストリウス派とカトリックの教会等の跡を確認、また仏教などに関する文書を発見した。
- 1948年(昭和23年)東京大学東洋文化研究所教授
- 1967年(昭和42年)東京大学名誉教授
- 1969年(昭和44年)紫綬褒章受章
- 1977年(昭和52年)勲三等旭日中綬章、古代オリエント博物館長
- 1983年(昭和58年)文化功労者
- 1991年(平成 3年)文化勲章受章
宝物はカラーで見たいので、この本に掲載してあった白黒写真に関連した出土品を探して掲載しました。
スキタイの黄金イヤリング
革製 朝鮮慶州 天馬塚古墳出土
文体がわかりやすく、大陸の騎馬民族国家との比較が面白いので、今読んでも全く違和感がありません。
その中で、姉妹婚制、レビラト婚制について書かれているのが目を引きました。姉妹が同時に嫁入りする史実は知ってはいたものの、改めて書かれているのを見ると、本当に多いと思いました。レビラト婚については、小林惠子先生も毎度書かれていることですが。
姉妹婚ですぐ思い浮かんだのが、ブータン前国王は一人息子だったせいか、四人姉妹を皇后として同時に娶られたことです。
また、天智天皇が四人もの皇女を大海人皇子に与えているのみならず、妹の額田姫王も大海人皇子に与えているのです。更に、額田姫王の同母姉の鏡姫王も大海人皇子の子を産んでいます。天智天皇と鏡、額田姫王姉妹は異母兄弟です。蘇我氏や藤原氏など豪族も、複数の娘を天皇の後宮に出しています。
wikiのレビラト婚には、徳川家、島津家、小笠原家、鍋島家、九鬼家などにおいても、嫁いできた正室が、夫の死後に弟に嫁いだ例が挙げられています。武家って騎馬民族と似ているところがありますね。
p247 姉妹婚制は、天皇家の結婚でとくに顕著に見られる現象である。史実としては、反正、允恭、安閑の諸天皇が姉妹を同時に后妃として娶っており、欽明は蘇我稲目の娘、堅塩媛と小姉君を妃として娶っている。神話では、海神の娘、豊玉姫と妹玉依姫の話が有名であり、継承では、景行天皇に召された弟媛と姉の八坂入媛の話、垂仁天皇の皇后日葉酢媛とその四人姉妹の入内の話などがある。
姉妹婚は、大陸の騎馬民族社会では古くから行われた結婚の1形式で、匈奴の単于が王女二人を后妃にした他、契丹でも行われていた。蒙古チンギス・ハーンも「一人の男子にして、同時あるいは順次に二人の姉妹を妻として持ちうる」というルブルクの報告がある。
「スキタイと匈奴 遊牧の文明」林 俊雄著
腰につけたベルト状の飾り
他には、キルギスに残る突厥族の石人や立石は、可汗が亡くなった時には、倒した敵の数だけバルバルと呼ばれる立石を立てたものだという指摘。敵将も墓に立てたと。日本でも埴輪になる以前は実際に殉死させる人々を古墳の周りに立てたのだと。匈奴、突厥の風習、衣類、冠、馬具の装飾、冠婚葬祭が似ているという比較が興味深いです。キルギスの草原に残る石人たちは、片手にワイングラスを持ち、ユーモラスな顔をしたものが多いのに、殉死の象徴である場合もあった、という悲しい背景があったのですね。
p29 スキタイ王の支配権がいかに偉大で、その一族がいかに巨万の富財を擁していたかは、埋葬に関するヘロドトスの所伝や、彼らの陵墓の実際に徴して最もよくうかがわれる。ヘロドトスに寄れば、スキタイ王が亡くなると、その奥津城の地ゲロス人の土地に方形の大穴を掘り、埋葬の用意を整えて置いて、王の屍体の腹をさいて綺麗にし、香料や生姜の根やパセリの種子などをいっぱいつめたうえ、元通りに縫い合わせ、屍体全体を蠟でおおう。それから遺骸を車に乗せて、支配下の異部族の元へ搬入する。屍体を迎えた者たちは、王族スキタイと同じ葬礼を行う。彼らは自分たちの耳を少しそぎ、頭髪を切り落として坊主頭にし、腕一面に切り傷をこしらえ、額と鼻に裂傷を与え、左手には矢を貫くのである。
p30 スキタイ王の葬送
p31
p33 軍神アレスに対してだけは、各地区ごとに祭場を設けていた。それは薪の束を185.2メートルの3倍である3スタディオン四方の広さに積み重ね、その頂上の方形の平らな場所に、アレスの神体である一振りの鉄の古刀を立てたもので、毎年この短剣に牛馬を捧げる他、敵の捕虜100人につき一人の割合で殺して、生贄に供えたという。
p34 スキタイには、シャマンのような占卜者が多くいたようで、柳枝の大束を持っていて、それを地面へ広げて、各枝条を1本ずつ散乱させて占い、占いのお告げを告げながら、それらの柳枝をまたもや1本ずつ集めて束にしたという。筮卜を思い起こさせるものがある。
p46 匈奴の単于は天によってその資格が与えられた特別な人格、神格の持ち主として意識された。単于の完称は、タングリコト単于といい、天の子の大いなる者の意味で、昌頓単于が漢の文帝に送った書簡には、自分のことを「天の立つるところの匈奴大単于」とか「天地生むところ、日月おくところの匈奴大単于」と称している。単于の位は、男系子孫のみ継承される。
p231
p232
小林惠子先生も、江上波夫先生の説をお手本にしてきたというような記述がありましたが、同じ道を違うアプローチでなさっている感じです。
「スキタイと匈奴 遊牧の文明」林 俊雄著
図説中国文明 創元社 匈奴は星に対する信仰があり、日本もそうですね。
「スキタイと匈奴 遊牧の文明」林 俊雄著
南シベリア アルタイのパジリク古墳出土の馬飾りについての論文と写真も興味深いです。
紀元前7世紀における西アジアの馬面 巽 善信
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jorient1962/38/2/38_2_38/_pdf
パジリク古墳出土 馬頭飾
スキタイの黄金装飾
ロシア ホフラチ古墳 一世紀
茨城県 三味塚古墳 馬がぐるりと冠の上に並び、丸い歩揺も。
奈良 藤ノ木古墳 小鳥がたくさん、丸い歩揺も付いています。これは、アフガニスタンのティリア・テペ古墳出土の冠と大変よく似ています。