昔買った雑誌です。モンゴル史の一面が美術品を通して顔を覗かせます。南ロシア、モンゴル、トルコのあたりを遊牧騎馬民族が入れ替わり立ち代り覇権を争ったのですね。
イルハンの支配者の前を走っている特使は、手に赤いPIAZIピアジを持っています。
ピアジとは通行手形のようです。
13世紀 モンゴル帝国中を通ることができた純銀製のパスポート(ピアジ)
棺にかけられたウール絹の布に鹿や4枚の羽を持つ獣が刺繍されている。
左下の動物は、野羊のブロンズベル 5~6世紀南シベリア出土
ビルゲ・カガン(可汗)の冠と、ビルゲ可汗の廟から見つかった、天国へ魂を運ぶため羽を彫刻してある銀製鹿。
wikiから 毘伽可汗(683年 - 734年)は、東突厥第二可汗国期の可汗。阿史那骨咄禄の長子。姓は阿史那氏、名は默棘連(ぼくきょくれん)という。可汗号である毘伽可汗はビルゲ・カガン(古テュルク語: - Bilgä Qaγan、トルコ語: Bilge Kağan)
草原で見つかったキュル・テギンの大理石の頭 A.D.750 冠に鳥が彫刻してある
wikiから 毘伽可汗の弟 闕特勤(684年 - 732年)は、東突厥第二可汗国の左賢王。阿史那骨咄禄の子で、毘伽可汗の弟。『突厥碑文』にある「キュル・テギン」(古テュルク語: 、トルコ語: Kül Tigin)の漢字転写とされる
1206年ジンギスカーンは大カーンに選ばれ、モンゴル帝国を建てる。1235年息子オゴダイがカラコルムを首都とする。その後7年の間、モンゴル軍はロシアと東ヨーロッパの支配者を打ち負かした。
wikiから
15世紀 モンゴルの貴人 日本の絵とよく似ています。
wikiより
ガザン・ハン(ペルシア語:غازان خان Ghāzān khān, 1271年11月4日 - 1304年5月17日)は、イルハン朝の第7代君主。第4代君主アルグンの長子で、第8代君主オルジェイトゥの兄に当たる(在位:1295年11月3日 - 1304年5月17日)。『元史』などにおける漢字表記は合贊。
1291年に父アルグンが没した後、父の弟であるガイハトゥが後を継いで君主となったが、失政を続けた結果、1295年に従兄弟に当たるバイドゥに殺害された。ガザンはその半年後、バイドゥに対して反乱を起こして彼を滅ぼし、イルハン朝の第7代君主として即位することになったのである。
ガザンは、本来父アルグンの影響で仏教を信仰していた事が知られている。フレグ家がイスラームに改宗する以前はチベット仏教などに多大な寄進を行っていたことが判明しており、ガザンの封領ホラーサーン地方のハブーシャーンにおいて数座の仏寺が建立され、また首都タブリーズにおいてはフレグ時代に遡る仏寺の遺跡が二ケ所現存している。ガザンのイスラームへの改宗はバイドゥとの王位継承戦において、先のノウルーズが苦境に陥っていたガザンに、ガザン自身がイスラームに改宗する事によって全イスラーム教徒の支持を受けられることが出来ると力説した話が伝えられている。
これに伴い即位初年の勅令(ヤルリク)はイスラーム以外の主要建造物、すなわち仏教寺院(ブトハーネ、マウブード)、ゾロアスター教寺院(アーテシュキャデ)の破壊命令が発せられ、キリスト教会堂(キャリーサー)、ユダヤ教会堂(キャニーセ)もまたそれに続いて破壊を蒙ったという。既にテグデル・ハンの時代にテグデル自身も含めモンゴル軍民のイスラーム化の徴候が出始めていたが、このガザンの治世によって、イルハン朝は既存のモンゴルの国家体制や慣習などを維持しながらも国家規模のイスラーム化を推進していくこととなる。
さらに1298年、改宗したユダヤ教徒の一族に属するラシードゥッディーンを宰相にして財政改革やイルハン朝の支配体制強化に努めた。また、ガザンは1300年、ラシードにガザンの治世に至るチンギス・カン家諸王家と、フレグの遠征以来イルハン朝領内に展開していたのテュルク・モンゴル系諸部族の歴史をまとめた「モンゴル史」の編纂を命じた。これはガザン没後の1310年に次代のオルジェイトゥの命で再編集・完成して14世紀以降、イラン・中央アジアで最大規模の歴史書である『集史』となり、その後のオスマン朝を含むこれらの地域の歴史叙述に決定的な影響を及ぼした。これらの施政によって政治的・文化的にイルハン朝は大いに発展した。
1304年5月17日、34歳で病死した。遺骸はタブリーズへ運ばれ、生前タブリーズ郊外のシャンブの地に建設したガーザーニーヤという名のワクフ複合施設の廟墓に埋葬された。
ガザンの宮廷 wikiより
ガザン・カーン
ガザンのディナール銀貨 花の意匠は日本と同じ。右上、蛇に見えますね。
日本の絵にそっくりです。 トプカピ宮殿蔵