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西突厥シルジブロス可汗の女婿、達頭タルドゥ可汗

 聖徳太子欽明天皇秦氏が匿っていた鮮卑の女性との間に生まれた皇子。ご落胤欽明天皇は子沢山だし、蘇我氏に邪魔にされたので、太子はササン朝波斯で皇帝に仕えてシャフリバザール将軍になり、ホスロー二世の娘を妻にする。そして西突厥可汗、シルジブロスの娘をもらったと小林惠子先生の仮説。ホスロー二世の娘が先か、シルジブロスの娘との婚姻が先かは、よくわかりません。西突厥と東突厥の大可汗になった。更には、倭国に戻って推古天皇を皇后に、他に4人の妃がいたとか。遊牧騎馬民族は、儒教ではなく、兄の正妻を、弟が正妻にする、そのまた弟や従兄弟がその正妻を正妻にする、という慣習が長く続いたようです。

天智天武両天皇は、どちらも太子の子孫だそうです。聖徳太子は、皇后の長男や次男ではなかったので、天皇男児でありながらも、ペルシャ皇帝の女婿、突厥可汗の女婿、と面白い立ち位置ですが、ペルシャ突厥帝国、倭国と3つの国で最高位につき、子孫も高句麗倭国、波斯、西突厥に残って、最後はどうなったのでしょう。イシク・クル湖のあたりに晩年住んでいたかもしれません。小林先生の著書では、西突厥と東突厥が両方出てきて分かりにくいのですが、先に西突厥、そして瞬く間に、東突厥のトップに立ったようです。

聖徳太子は、千里眼だったとか、霊能力があったと思われていたようです。等身大と言われる法隆寺救世観音蔵が身長178.8cm。語学堪能、武芸に秀で、人望が厚く、タルドウ可汗が亡くなったと聞いて部下たちが泣いた、と史実に残っているそうで、可汗が亡くなって泣いたことがわざわざ記録に残っていることはタルドウ可汗のみだそうです。天武天皇も式盤で占ったり、天文、陰陽道が得意だった高句麗の泉蓋蘇文であったと小林先生。古代ペルシャ語(パフラヴィー語)、アラム語、ソグド語、古代トルコ語、中国語、高麗語、日本語を理解したということでしょうか。

 

そこでwikiでどう書かれているかというと、以下のようです。アンダーラインが見づらいですが。

 

「西突厥史の研究」内藤みどり 早稲田大学出版

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室点蜜呉音:しちてんみつ、漢音:しつてんびつ、拼音:Shìdiǎnmì 576年頃)は、突厥の西面可汗もしくは葉護(ヤブグ:官名)。吐務の子で、伊利可汗の弟、達頭可汗の父。また室點蜜、室點密可汗とも表記される。姓は阿史那氏、別名は瑟帝米(しつていべい)という。東ローマ史料のディザブロス(Dizaboulos)、ディルジブロス(Dilziboulos)、シルジブロス(Silziboulos)、アラブ史料のシンジブー(Sinjibū)、突厥碑文のイステミ・カガン(pastedGraphic.pngpastedGraphic_1.pngpastedGraphic_2.png pastedGraphic_3.pngpastedGraphic_4.pngpastedGraphic_5.pngpastedGraphic_6.pngpastedGraphic_3.png - Istemi Qaγan)に当たる人物とされている。

 

生涯

突厥部の大葉護である吐務の次子として生まれる(長子は伊利可汗)。

558年、室点蜜は彼の同盟者であり娘婿でもあるサーサーン朝の君主(シャーハン シャー)ホスロー1世と協同で、エフタルを攻撃し徹底的な打撃を与えた。これによって室点蜜はエフタル領であるシャシュ(石国)、フェルガナ(破洛那国)、サマルカンド(Tamir-qapigh,康国)、キシュ(史国)を占領した。さらにこの頃、室点蜜はアヴァールを駆逐し、アランの地に追いやった。

 

567年頃までに室点蜜はエフタルを滅ぼし、残りのブハラ(安国)、ウラチューブ曹国)、マイマルグ(米国)、クーシャーニイク何国)、カリズム火尋国)、ベティク戊地国)を占領した。この頃、室点蜜はサーサーン朝にソグド人使節団を派遣し、絹を売る許可を要求した。しかし、ホスロー1世はこれを拒否し、使者を毒殺したため、室点蜜はこれに怒り、突厥とサーサーン朝の関係は悪化した。

 

568年、室点蜜は東ローマ帝国にソグド人首領マニアクの使節団を派遣し、エフタル攻滅の報告と、絹貿易の盟約をかわした。その使節団の帰路に東ローマ帝国のぜマルコス使節団が同行し、突厥の領土を見聞した。

 

575年末、室点蜜は使者のアナンカステスを東ローマ帝国へ送ったが、その直後に亡くなり、東ローマ帝国からウァレンティヌスの率いる使節団が来た時には彼の葬儀が行われていた。室点蜜の死後、子の玷厥(てんけつ)が継いで、達頭可汗(タルドゥカガン)となった。突厥碑文におけるイステミ・カガン(Estemi qaγan)

 

上に蒼色なる天、下に褐色なる地の創られしとき、二つの間に人の子生まれたり。人の子の上に、我が祖宗ブミン・カガンとイステミ・カガンと坐したり。(この二人)坐して、突厥の民の国と法とを保ち終えたり、造り終えたり。四方すべて敵なりき。(彼ら)軍旅ひきいて、四方なる敵をすべて奪いたり、すべて服せしめたり。

― 『ホショ・ツァイダム碑文』

 

東ローマ史料におけるディザブロス

 

かつてはエフタル人の支配下にあったが、当時勢力を強化していたトルコ人に従っていた削ぐディアナ人は、ペルシアへ行って絹を売る許可を得るために、ペルシアに使節を派遣することを君主に請願した。ソグディアナ人に使節派遣を説得されて、ディザブロス(Dizaboulos)はこれを承認した。…(省略)…(使節団はペルシアに通商を断られ、絹を燃やされたことを)ディザブロスに報告した。しかし、ディザブロスはその後もなお友好関係を結ぼうと、第二の使節団をペルシアに送った。…(省略)…(またも断られた上、使節団の大部分を毒殺し、気候のせいで死んだと偽ったことに対し)ディザブロスはこの事件を見抜いて、使節たちが謀殺されたのであると信じた。ここにペルシアとトルコの間の、敵対関係が由来するのである。…(省略)…(ソグディアナ人の首領マニアクの建議により)ディザブロスは(東)ローマ皇帝への挨拶と、高価な絹の贈り物と、2,3の書簡を持たせ、彼(マニアク)と他数名の使節を(東)ローマ皇帝へ派遣した。

― メナンドロスの記録 第18節

 

…(省略)…(トルコと攻守同盟を結んだ東ローマ帝国は友好の使節としてキリキアのゼマルコス(Zemarchos)をトルコへ派遣した。)使節たちは可汗が住んでいるエクタグ(Ektag)[15]と呼ばれる山に向かって出発した。この山はギリシア語でちょうど「金の山」という意味である。そして彼らが到着したところは、この金の山に囲まれた谷の中の、ディザブロスの牙帳であった。ゼマルコスとその従者たちがそこに到着すると、直ちにディザブロスの前へ通された。

ディザブロスは天幕の中で、二輪の車つきの金の椅子に腰をかけていた。いざという時には、その椅子が馬の前にひいてこられるのであった。ゼマルコスはこの異国人に、彼らの作法どおりに挨拶をした後、贈物を差し出した。…(省略)…このようにゼマルコスが挨拶を済ませると、ディザブロスも身体を曲げて挨拶をした。次いで彼らは宴を催し、天幕の中で一日中酒盛りをして過ごした。その天幕はさまざまな色を巧妙に織りこんだ絹地で内部を覆ってあった。彼らは酒をよく飲んだ。だがそれはわれわれの酒のように、葡萄から搾ったものではなかった。彼らの国は葡萄を生産しないからで、そのような方法は彼らのもとでは行われていないのである。しかしそこには、葡萄の搾り汁に似た、異国風な酒が満ちていた。

 

彼らは自分たちの宿に行った。その翌日、彼らは他の天幕に集まった。それはすべて絹で覆われ、装飾が施されていた。そこにはまたいろいろな形の立像があった。ディザブロスは純金の椅子に座り、天幕の中央には金の酒杯と壺、さらには金のジョッキも置かれていた。…(省略)…翌日、彼らはもう一つの異なった天幕に集合した。その天幕は金で覆われた木製の円柱に支えられ、同様に金でつくられた寝床は、4匹の孔雀に支えられていた。部屋の間の部分には、車が長い列をなして陳列され、その中に非常に多くの銀器や皿、鉢などが置かれていた。さらにまた、同じように銀で作られた動物の像も多数あった。…(省略)

 

ゼマルコスの従者たちがまだそこに留まっている間に、ディザブロスは「ゼマルコスと彼の20名の従者はペルシアに対する自分の戦役に参加するように、その間、残りのローマ人は、コリアト人の国に戻って、ゼマルコスの帰還を待つように」と命じた。進軍中、ディザブロスは彼らを解放し、贈物をして喜ばせた。また彼はゼマルコスを褒めて、いわゆるケルキスから捕えた一人の女奴隷を与えた。…(省略)…

 

彼らがちょうどタラス(Talas)という場所で止まった時、ペルシアの使者がディザブロスを迎えた。そして彼らと一緒に自分たちのところで食事をするように、ローマの使者たちも招待した。さて彼らがペルシア人の所へ行った時、ディザブロスはローマ人たちに敬意を表し、名誉ある位置を彼らにとらせた。つづいて彼はペルシア人に、彼らの不正を聞き知り、彼らと戦うために来たのであると、強く非難をあびせた。そしてディザブロスがだんだん罵言を弄するようになると、ペルシアの使者は、宴においては静粛を守るという大切な習慣を無視して、激しく話しはじめた。その中で彼は大胆にディザブロスの非難を突っぱねたので、いあわせた人々は彼の怒りにひどく驚いた。…(省略)…その宴は中止され、ディザブロスはペルシアに向かう準備をした。また彼はゼマルコスとその従者たちを集め、ローマ人との友好関係を今一度固めた後、彼らを故国へ帰らせた。

― メナンドロスの記録 第20節

 

達頭可汗漢音:たつとうかがん、タルドウ 生没年不詳)は、突厥の西面可汗。室點蜜(イステミ)の子。達頭可汗というのは封号で、姓は阿史那氏、名は玷厥(てんけつ)という。

 

生涯

576年頃、父の室點蜜(イステミ)が亡くなると、突厥の西面可汗に任ぜられる。この頃、東ローマ帝国からウァレンティノス使節団が西面突厥にやってきて、室點蜜可汗との同盟を更新し、サーサーン朝を挟撃することを提案してきた。

北周宣政元年(578年)4月、大可汗の他鉢可汗(タトパル・カガン)は幽州に入寇し、住民を殺略した。柱国劉雄は兵を率いて防戦したが敗北して戦死。武帝の親総六軍は北伐をしようとするが、武帝崩御に遭い断念した。この冬、それに乗じた他鉢可汗はふたたび辺境を寇略し、達頭可汗(タルドゥシュ・カガン)に酒泉を包囲させた。

 

582年阿波可汗(アパ・カガン)の部落が沙鉢略可汗(イシュバル・カガン)に襲撃されたので、阿波可汗は達頭可汗のもとへ逃れてきた。事情を聞いた達頭可汗は怒り、阿波可汗に兵十万を授けて復讐させた。これにより阿波可汗に貪汗可汗や、沙鉢略可汗の従弟の地勤察などが附いて大きな勢力となった。

達頭可汗は都藍可汗と敵対して、何度も交戦していたが、文帝により両者は和解させられた。

 

598年、達頭可汗はエフタルを征服し、都藍可汗と同盟しアヴァールを討ったことを、東ローマ皇帝マウリキウスに報告した。

 

599年、東突厥で都藍可汗と突利可汗が敵対関係になったので、達頭可汗は都藍可汗と手を組んで突利可汗(テリス・カガン)を攻撃し、その兄弟子姪を殺した。都藍可汗が自らの部下に殺されると、達頭可汗は歩迦可汗と号して、啓民可汗となった突利可汗と対立した。啓民可汗と組んでいた隋は、太平公の史万歳や晋王の楊広を派遣してこれを撃たせ、歩迦可汗を敗走させた。歩迦可汗は弟の子の俟利発を遣わして、磧地に沿って侵攻させ、啓民可汗を攻撃したが、隋軍によって敗退した。

 

601年、歩迦可汗はふたたび大挙するが、隋軍により敗退し、吐谷渾に奔走した。

 

  1. タルドゥシュカガン(Tarduš-qaγan)とは、タルドゥシュ(Tarduš)すなわち西部を管轄する小可汗のことで、西面可汗のこと。ビザンツ史料ではタルドゥ(Ταρδου - Tardu)と記された。これに対し東面可汗はテリスカガン(Tölis-qaγan、突利可汗)という。