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突厥帝国とササン朝ペルシアの地図

聖徳太子の時代からその2代目世代が活躍した地図が欲しいと思っていたら、分かりやすい地図がありました。NHK新シルクロード」プロジェクト編著 「NHKスペシャ新シルクロード2草原の道-風の民 タクラマカン-西域のモナリザ」(NHK出版 2005)より (筆者:矢部裕一・内藤みどり) を紹介して下さっていたブログからです。

内藤みどりさんは、突厥の歴史を早稲田大出版から出されている学者です。小林惠子先生は、この達頭可汗こそが、聖徳太子でもある、と書かれています。

「636年ローマ軍の救援より早く来たアラヴ軍による首都クテシフォン陥落後、ヤズドガルド3世はトハリスタン地方のブハラに、ペーローズ3世はクンドゥスに逃れた。」

と小林惠子説年表に書いたものの、ブハラってどこ?クンドゥスは?とパッと地図が頭に浮かばないので、突厥可汗の牙城も記載されたこの地図は便利ですね。

引用したブログ様のサイトから地図を拡大できます。

以下引用:

「泥利可汗(ニリ・カガン)が亡くなった頃、達頭可汗(タルドゥ・カガン)はモンゴリアに現れ、大可汗都藍可汗(とらん・カガン)と提携して突利可汗(とつり・カガン)を南に追い、都藍可汗が部下に殺されると、ついに大可汗の地位に立った。かつて西面可汗であった達頭可汗は、東ローマのマウリキオス帝に手紙を送り、この時叛乱を平定して全土を統一したことを誇っている。しかし、西面可汗達頭が大可汗位を簒奪したこと自体、突厥がまだ東西に分裂していなかったことを示すと考えられる。

その後、達頭(タルドゥ)は国内の大反乱に加え隋の討伐を受けて、603年に吐谷渾に走入した。隋末、中国北辺の群雄はみな突厥の力を借りてしのぎを削り、その中で唐朝が成立したことは有名である。しかし一旦全国統一した唐には勝てず、630年、突厥(第一)可汗国は滅亡した。七世紀の初め、ほぼ唐朝の統一と並行して繁栄した独立可汗国西突厥は、達頭可汗(タルドゥ・カガン)の孫、統葉護可汗(トンヤブグ・カガン)の大発展によって築かれた。かつての西面可汗国を受け継ぎ、ジュンガリアから、天山山脈の草原を西に黒海付近まで最大勢力範囲を回復し、その統治機能を充実させていた統葉護可汗が、牙庭を東部天山の北から西方の「砕葉(スイアブ)」(現キルギスタン共和国トクマク付近)に移したのは、ササン朝ペルシアとの対立も激しく、黒海に至る西方草原で活躍していた多くの部族の統制に力を注いだ結果でもあると思われる。一方、南はソグディアナからヒンドゥクシュ山脈にいたる地域を確保して、アム河の南、エフタルの根拠地であったクンドゥズを副牙とし、パミールを東に越えて西域南道と北道の諸国に通じる状況にあった。長安からインドに行くため、玄奘が西部天山の北麓砕葉に統葉護可汗を訪れた理由は、その保護なしに中央アジアを行くことができなかったからである。

統葉護可汗(トンヤブグ・カガン)に会った玄奘は、その牙庭の状況に驚いた。「可汗は長い髪を緑色の錦帯で巻いて後ろに垂らし、その前にはしとねを敷いた上に宮廷官たちが二列に座り、その後ろには護衛兵が武器を持って立ち並んでいた。彼らは錦織の華美な衣服をつけて輝いており、草原の君とは、このように華美であるものか」と詠嘆している。

一方、達頭可汗(タルドゥ・カガン)も統葉護可汗(トンヤブグ・カガン)も、ソグディアナの中心サマルカンド王に娘を与えたことに注目したい。また、統葉護可汗は、「西域諸国すべての王に、(部族長に与える)イルテベルの称号を与え、トドンを派遣して監視させ税を取り立てた」。オアシス民の城郭都市の規模は小さく、彼らは、東西に繋がる道―シルクロード―を利用する中継貿易で利益をあげ、繁栄してきた。それに対して、オアシス民の生産する穀物や日用品、そこに集合する多くの商品は遊牧民にとっても重要で、貿易や税の対象とされた。それゆえ、彼らはオアシスとその商業活動を保護し、花とミツバチの関係にも似て、共栄を図ったのである。」

 

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ethnos.exblog.jp

玄奘三蔵が如何にもてなされたかの描写が素晴らしいです。

ethnos.exblog.jp

 

 もう1つ別のブログ、「ウイグル族の歴史の深淵」も興味深いです。

http://mikiomiyamoto.bake-neko.net/uigurhistory1.htm?fbclid=IwAR25UjvXA_nReD1QpWr5Os8lf_4G_FFP_GIBDWVD7wxMDPMUOV4IMIrb9VY