李 寧煕(イ・ヨンヒ)さんの「枕詞の秘密」など何冊か以前読みました。小林惠子先生も李 寧煕さんの本をところどころ引用されていましたが、額田王と李 寧煕さんは、どちらも日本生まれ日本育ち、それから朝鮮半島に行ったことが共通だそうです。小林先生によれば、舒明天皇(百済の武王と同一人物)が初めて百済語で郷歌を、また万葉集に百済語で裏読み暗号文を潜ませた人物だそうです。この裏読みというのは、全て漢字で書かれている歌の、漢字の字面に関わらず、同じ発音で別の漢字の意味を潜ませるということです。それが戦争や人の生死に関わる重大な意味を持っていた場合があり、非常にスリリングな逼迫した状態があぶり出されて来た推理小説のような本でした。
下記の本で、中国語でも似たようなことが行われていたことに気がつきました。このケースは、木偏と手偏の発音は同じだけれど、意味は全く違うことを使った歌です。漢字も一文字だけをもじったもの。この場合は、中国語だけの遊びですが、万葉集の場合は、日本語、百済語、済州島方言、新羅語がジグソーパズルのように組み合わさって使われていた場合があったので、かなり高度ですね。高句麗の句麗語もあったかもしれません。正確にいうと、万葉仮名と百済語の裏読み、万葉仮名と新羅語の裏読みという感じです。
詳細は「万葉集で解く古代史の真相」小林惠子 祥伝社新書 2016
に詳しいですが、額田王は舒明天皇の娘で天智天皇の異母妹であり、若い頃姉の鏡姫王が大海人皇子との子を身ごもったので、妹の額田王がかなり年上の金春秋(後の新羅武烈王)に和平のため嫁ぎ、舒明天皇の崩御をもって斉明天皇、中大兄皇子と日本に帰国。その後天智天皇が大海人皇子に妹を嫁がせ、あとで天武天皇が額田王を家臣の中臣大島に下したと書かれています。
鏡姫王、額田姫王、山辺姫王と実際には書かれているそうで、外国の王家と関係する場合に姫王という言葉を使ったらしいのです。額田姫王は新羅王に嫁ぎ、山辺姫王はササン朝ペルシアのペーローズ3世の娘なので姫王と書かれた、というのが小林惠子説です。
「アジアの世紀の鍵を握る客家の現像 その源流・文化・人物」
林 浩著 藤村久雄訳 中央公論社
p179 客家山歌 漢字が見つからないので、写真を載せます。
内容ですが、万葉集の額田王の大海人皇子への歌に作風が似ている気がします。こういう文化がアジアでは普通だったのでしょうか?例えばインドの寺院の浮き彫りでは、男女の姿がなかなかに刺激的ですし、チベットの愛喜仏もオープンです。これらは、言葉でそういうことを表しているわけで、オープンだったのかも。
「万葉集で解く古代史の真相」小林惠子著 から
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
p45 李 寧煕訳 あかい股が紫色のほとを行きます。標野を行くのです。野守は見ていないでしょうね。貴方が私のハサミを広げるのを。
実際にはこの歌は、愛の歌ではなく、中年になった天智天皇と大海人皇子の仲も、大海人皇子と額田王の仲も冷え切っていた頃、なんとか二人の仲立ちをしようと、額田王が涙ぐましい、また効果のない誘いをしたのが、この歌なのだそうです。
ちなみに二人の皇子は血の繋がる兄弟ではありません。天智天皇の父は舒明天皇、母は斉明天皇。天武天皇の父は聖徳太子、日本での最後の皇子と思われ、母は不明。聖徳太子は欽明天皇のご落胤で、正室の皇子ではなく、秦氏の元で養育され、同時に百済語、パフラヴィー語、アラム語、古代トルコ語、古代モンゴル語などを武器商人でもあった、秦河勝と共にペルシアや西突厥の本貫地へ行く際に身につけたのではないかと想像されます。
天武天皇の境遇は、父の聖徳太子と少し似ていて、正妻の子でも妃の子でもなかったこと。倭国で生まれた可能性もあるが、若いうちからオアシス国家や突厥の地を放浪したと小林先生は書かれています。高句麗の淵 蓋蘇文または泉 蓋蘇文という将軍が、天武天皇になる前の大海人皇子の姿だったそうです。母親の身分が王族でないと、なかなか天皇になれなかったのですね。また母親の身分が高くないと、龍から生まれたと称したそうです。
隋と唐を建てた鮮卑族は何語を話していたのか、wikiで鮮卑を見たところ、
「鮮卑の言語は烏桓と同じである。鮮卑の言語系統について、古くは テュルク系であるとする説があったが、近年になって鮮卑(特に拓跋部)の言語、鮮卑語はモンゴル系であるという説が有力となっている。だが鮮卑の部族にはもとは匈奴に参加していた部族もいるなど、非鮮卑系の部族も参加していたため、鮮卑の部族全ての言語を特定することは難しい。」
と書かれています。日本語はウラル・アルタイ語に属します。