突厥帝国の範囲が広いですね。
愛新覚羅烏拉煕春教授「最後の公爵 愛新覚羅恒煦 激動の中国百年を生きる」p242に、
「祖父は女真族の末裔であることを知り、満州語を用いて北方民族の習俗を考証したが、とりわけ歴史上の人名に関する考証は極めて精緻であった。満州族の最も傑出した人物は、ヌルハチ、シュルハチ、ヤルハチ三兄弟だが、祖父はそれぞれ「猪(ぶた)の皮」「子猪(こぶた)の皮」「豹の皮」を意味するといい、あわせてシベリアのツングース諸族の習俗に関する書の中にも、子供が生まれたとき、何かの獣の皮を着せ、その獣の皮で命名する習慣があると言った。これより満州がツングース諸族と言語の上で近いのみならず、伝統習俗も同じであることがわかる。」
という文章があり、面白いと思っていました。愛新覚羅 弩爾哈斉。愛新覚羅家は代々、四文字の名前をつけていたようですね。
昨日、随時代のドラマ「独狐加羅」の人物相関図などを見ていたところ、三姉妹の名前が珍しいと思いました。長女 独狐 般若(北周皇后)、次女 独狐 曼陀(唐の初代皇帝高祖の父、李 昞に嫁いだ)、三女 独狐 加羅(隋皇后)。父親は、北周将軍、独狐 信。三姉妹とも、嫁いだ相手が皇帝とはすごい家庭ですね。
隋の期間は短く、581年に北周から禅譲され、618年唐に禅譲、長女の北周は三女の隋に滅ぼされる。三女の隋は次女の唐に滅ぼされるのですが、たった二代しか続かなかったのですね。
独狐姓
五胡十六国時代の匈奴屠各種の支族の一つ独孤部に起源を持つ。北魏の時代に皇室の鮮卑拓跋部と婚姻関係を持ち、孝文帝の漢化政策によって劉氏と改姓した。後に武川鎮軍閥に連なり、鮮卑宇文部の北周の時代になると、再び独孤姓に復姓した。隋の初代皇帝文帝楊堅の皇后(独孤伽羅)などを輩出するなど、北朝から隋唐の時代にかけて名門貴族として繁栄した。
その他に、賜姓された京兆独孤氏(鮮卑系李氏)と河南独孤氏などもあり、これは上記の独孤信から独孤姓を賜ったことから由来する。
隋
北魏において、皇室の拓跋氏を元氏に変えるといった風に、鮮卑風の名前を漢民族風に改めるという漢化政策が行われたことがあったが、北周ではこれに反発して、姓名を再び鮮卑風に改め、漢人に対しても鮮卑化政策を行った。この時、漢人である楊氏にも普六茹(ふりくじょ)という姓を与えられたとされる。普六茹とは鮮卑語でヤナギのことである。
文帝の皇后の独孤伽羅は非常に強い女性で、文帝に対して「自分以外の女性と子供を作らない」と誓約させていた。これは当時の皇帝としては極めて異例なことであり、しかも独孤皇后は文帝の周囲を厳しく監視し、文帝がほかの女性に近付くことを警戒していた。文帝と独孤皇后の間には6人の子がおり、その長男楊勇が初め皇太子に立てられていたが、楊勇は派手好みで女好きであり、質素を好む文帝・貞操を重視する皇后の両者から嫌われ、それに代わって両親の気に入るように振舞っていた次男楊広が皇太子に立てられる。
604年、文帝は病に倒れた。この病床の間に楊広の本性を知った文帝は激怒して廃太子にした長男楊勇を再び太子にしようとした。しかしそれが叶う直前に文帝は崩御した。病死ともいわれているが、楊広に先手を打たれて右庶子の張衡に殺害されたともいわれる。
江南に腰を据えた煬帝は次第に酒と宴会に溺れて国政を省みなくなり、遂には諫言や提言する臣下に対して殺戮で臨むようになってまったく民心を失った。煬帝に従って江都に赴いていた隋軍は多くが北方の出身者であり、重臣の宇文化及はこうした情勢の中でついに煬帝を見限り、反煬帝勢力を糾合して618年に謀反を起こし、煬帝を縊り殺した。政権を奪取した宇文化及は、煬帝の甥(煬帝の弟の秦孝王楊俊の子)の秦王楊浩を皇帝に擁立し、江都の隋軍を率いて北へと帰還しようとしたが、王世充・李淵・李密らの勢力に阻まれて大興城を恢復することはできなかった。
そこで宇文化及は皇帝楊浩を毒殺し、国号を許として自ら皇帝に即位する。しかし宇文化及は天寿2年(619年)に竇建徳との決戦に大敗して殺害され、ここに許の政権は崩壊した。
また、東都洛陽の留守を任されていた煬帝の孫の越王楊侗は大業14年(618年)の煬帝の死を受け、王世充、元文都、皇甫無逸などに擁立されて皇帝に即位した。これが恭帝侗(皇泰主)である。しかし619年には王世充は恭帝侗に禅譲を迫り、自ら皇帝に即位して鄭を立国した。
その一方で、煬帝の死を聞いた李淵は、恭帝侑から禅譲を受けて唐を建てた。
こうして煬帝は殺害され、煬帝の後継者として隋の正統を名乗った恭帝侑、恭帝侗、秦王楊浩も、それぞれ李淵の唐、王世充の鄭、宇文化及の許に簒奪されたため、隋は完全に滅亡した。なお、煬帝の「煬」の文字は、「天に逆らい、民を虐げる」という意味を持ち、李淵が贈った諡である。
なお、煬帝の孫の一人である楊政道(斉王楊暕の遺腹の子)のみ、唯一生き延びた。彼は突厥の処羅可汗の庇護を受けたが、630年、突厥が滅亡すると、楊政道は唐に帰順して、官職を賜った。
小林惠子説では、隋は高句麗へ3度攻め込んで滅亡したようなものだと書かれていました。唐も同様に。高句麗ってかなり強かったんですね。高句麗というか、当時の王が。王朝は時々簒奪されて、違う民族になったり家系が変わるようなので。
許という国も1年という大変短い期間でしたが、今でも姓として、許家は生き延びていますね。オリンピックにも許という選手が出ていましたし、日本にも許さんは住んでいらっしゃいますね。