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「最後の公爵 愛新覚羅恒煦 激動の中国百年を生きる」

 愛新覚羅烏拉煕春著 朝日選書 1996
 
著者 日本名 吉本智慧

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愛新覚羅ウルヒチュン女史は、京都大学博士で教授、同じく京大教授の吉本道雅氏と結婚されています。契丹語が読めて、遺跡にも行かれた著書があります。姿勢の良い皇女様の雰囲気をまとう美女ですね。
愛新覚羅溥儀、溥傑兄弟は、本家ではなかったようです。愛新覚羅家は、台湾、香港、日本に亡命されたそうです。
 
密教問答」下巻 織田隆弘師 p129には、カリエスで徴兵されなかった織田師が高野山で修行中、蓮華定院満州国から愛新覚羅溥儀皇帝のいとこで宗靖という人物が高野山の賓客として迎えられたことが書かれています。
満州国真言宗を復興するということで蓮華定院におって、蓮華定院が賄っていた。宗さんは書家として秀れた人で、今でも蓮華定院にいくらか書が残っています。宗さんが、私にせっかく書いてくれると言われたのに、書いて貰っても掛けるところがないからとお断りしたが残念でね。その人がまた信仰があったからね、非常に私をかわいがってくれてね。間も無く痔瘻で悩み、高野山は賓客だから病気が重くなって亡くなったりしたら大変だと思って阪大に入院さしたんだけど、私もその前からお加持をしたもんだから、仏子、織田隆弘、不思議、患部が熱くなって来る。そして気分がよくなって来る。観音子だ、観音の子供だ、と日記に書いてましたよ。満州事変がね、終われば満州国にお寺を建てようと約束はしておったんだ。ところが、一時満州へおいでになったけれども、やっぱり宿命ですね、満州へ行って、風邪がもとで亡くなったんです。それが蓮華定院でも随分供養したんだけども、しかたがなかった。日本語は訥々だったけど上手だった。」
 

p24 北京には斉来福という外国人経営の店があって、舶来物は何でもあった。我が家はそこのお得意様で、鉄製ベッド、家具、時計の針を合わせるためのクロノメーター、写真機材、望遠鏡に至るまでそこから買ったものである。祖父は小さいとき、望遠鏡で月のクレーターを見ることができた。百獣図は幅が約3mもあって、世界中のあらゆる動物がことごとく描かれていたが、説明は英文であった。祖父は医学と法学をたいへん好んだ。しかし祖父が最も好んだのは、やはり言語学歴史学であった。

 

p29 祖父は18歳で額勒賀(オルホ)のむすめと再婚した。姓は巴約特(バヤウト)氏である。これがわたくしの祖母である。

 

p36 辛亥革命が成功すると、南方から多くの督軍・議員がやって来たが、これら新貴族には暴発戸(成り上がり)が多く、北京に来ると清朝時代の官服の古着を買いあさり、自分の先祖も清朝時代には仕官したことがあるといいふらした。

 

p39 清朝中華民国に対しては禅譲をおこなった国なのであって、決して征服や討滅を被ったわけではない。だからこそ優待条件があったのである。現代中国の近代史研究は孫文を過分に顕彰しようとして、ことの真相を完全に歪曲している。
北洋派の袁世凱、馮国璋、徐世昌、段祺瑞、張勲などはもともと清朝皇帝の臣下であり、多くが西太后の一存で抜擢された漢族官僚であったから、彼らは清朝満洲族に対して懐旧の情を抱いていた。
ところが南方の孫文、黄興などは革命、反清を持ってのし上がったものである。彼らは西洋の民族主義、民族革命に倣って、タタールの野蛮人を駆除して漢民族の独立を回復する、を標榜し、これを政治資本として宣伝し、復仇をした。
彼らの宣伝は、学校を本拠地にしたものであり、民国の上層階級は彼らのいい分など相手にしなかった。

 

p47 孫文という人物は、清の皇室に対して裏切りをはたらいたのである。
八旗兵は退却の道すがら喇嘛廟に宿を借りたが、真夜中に到り、喇嘛僧が突如武器を取り出して、モンゴル兵に早変わりし、宿を借りていた八旗兵を皆殺しにしてしまった。祖母の弟は天候が劣悪で行軍に不利なため喇嘛廟に泊まらなかったため、幸運にも営の全員を張家口まで撤収することができた。

 

p48 民国の裏切りにより遜帝は宮城より北府に強制的に移住させられた。遜帝は馮玉祥の軍隊に軟禁同然となってしまった。当時の輿論は上から下まで、みな皇室に同情するものであった。

 

p61 復国のため外国に援助を求めることは、中国史上に先例が甚だ多く、春秋時代の普の公子重耳が復国の前に秦に援助を求めたこと、唐朝が建国の前に突厥に援助を求めたこと、明末にやはり日本に援軍を乞うたこと、孫文、黄輿が援助を乞うたのみならず大本営を日本に設けようとさえしたことなどは、いずれも周知のことだが、これらを非難するものはいない。清朝恢復と関係する援助要請とナルトなぜ全て反動的になるのであろうか。これは公平な評価と言えず、偏見である。
事実上、肝心なことは援助要請にあるのではなく、外国の援助を用いて国を得たあと、外国の影響力を離脱できるか否かということにあるのである。だから遺臣が日本に援助を要請したからといって、簡単に売国の帽子をかぶせることはできないのだ。結末がはっきりわからなかったのだから。
最後には多くの人々が日本との間に矛盾を生じたが、これは彼らが自分の信念を棄てることができず、妥協できなかったためである。この点をかれらのために明言したものはいない。

当時張園では、漢族大臣が絶対の優勢を占めていた。漢族大臣は満州族王公を馬鹿にし、満州族王公に人材が出現することを望まなかった。これがわたくしの祖父がのちに排斥された原因である。

 

p72 漢族大臣は唐建国の初、唐太宗が劉文静を突厥に派遣した史実になぞらえ、友邦の力を借りて大清を回復し、その後で友邦の助力を謝絶すれば良い。大唐は突厥の力を借りて建国し、のち突厥を臣従させたが、史家にはこの策略を避難した者はいない。しかしこの時祖父は皆に向かって、「日本は突厥ではあり得ない」と言い、皆の不満を引き起こした。

 

p73 漢族大臣たちがいかに満洲族王公を排斥しようと、彼らの外国の勢力を借りて国を復興し、しかるのち外国勢力を追い出すというこの一点は全く変わらなかった。しかしこれは事実上不可能なことである。わたくしの祖父は当時若かったが、彼の「日本は突厥にあらず」という警告は、優れて見識のある論と言わざるを得ない。

 

p97 1928年奉天軍に属していた馬福田は突如東陵に乱入した。南軍に投降していたゴロツキ軍閥孫殿英は馬福田を攻撃して敗走させ、放火略奪をほしいままにした。乾隆皇帝と西太后の陵が爆薬でこじ開けられ、棺が破壊され、玉体が冒涜されたのである。

 

p102 東陵饗殿の前柱に巻き付いていた金龍は全て剥ぎ取られ、遺物、祭器、刺繍物などは全てなくなっていた。
清朝の陵墓では3つの中庭を通って宝頂(墳丘)に到り、その地下が地宮(墓室)になっている。宝頂は宝城という城壁に囲まれる。第3の中庭の突き当たりに方城明楼という方形の城郭の上に建てられた楼閣がある。宝頂と方城明楼の間に三日月の庭があり、これを月牙城という。

西太后の地宮の四方の壁には牡丹の花が彫刻されていた。梓宮(棺)は石床から引きずり降ろされて、太后の上半身は裸だった。婦差(女官)8人を呼んで玉体と棺内部を拭い清めさせ、黄色の絹布で玉体を覆い、黄色い繻子の敷布団を数枚棺の内部に敷き詰め、遺体を納めて、黄絹の掛け布団で覆い、形見の衣類二件を被せた。
棺の蓋をして、漆職人に命じて漆で破れ目を完全に塞がせ、金でこれを貼り付けた。

 

p106 匪徒は爆薬で裕陵を破壊し、高宗の棺蓋にのこぎりで巨大な穴をあけ、人一人が出入りできるようにしていた。衣類や布団は泥水の中に積み重なり、いたるところに遺骨が散乱し、どれが皇帝のものでどれが后妃のものか全く区別がつかない。数日かかって泥水の中から頭骨四個を拾っただけで、まだ一個足らない。ようやく最後に探し当てた頭骨が高宗であることを知った。
高宗の棺上の梵字は陽文、その他のものは陰文であった。高宗の梓宮を石床の正しい位置に戻し、内部を拭い清め黄色の絹布団を5枚敷いた。それから四人の后妃の骨を高宗の梓宮の中に左右二人ずつ納めた。同様に下には黄緞の褥を敷き、上には黄緞の被三枚を被せた。さらに光緒帝が崩御した際に賜った形見の龍の模様の皇帝の大礼服を被の上に被せた。納棺が終わると、職人に命じて蓋に漆と金を塗って割れ目をふさがせた。

 

p108 納棺がまだ終わらぬうちに、奉天側の敗残の土匪が陵に入って略奪を働いたのである。

翌日早朝、東陵の陵戸が代表を送り、呈文を差し出した。陵戸とは陵寝を守護する兵丁と雑役に従事する旗人などである。内容は彼らが自警団を組織したので王公大臣がたには天津にお帰りいただき、代わりに皇上に上奏いただきたいとのものであった。またまだ盗掘を被っていない他の諸陵が心配であるとしたので、一行は裕陵に赴いて地宮の石門を閉ざし、石灰約4.8トンを使って遂(こざと編に遂)道を埋めて平らにした。

 

p111 祖父は遜帝の召見ののち、皇弟溥傑をたずね、東陵の惨状を詳細に告げた上で言った。
「わたくしの考えでは、もし確実な保証があるなら、民国当局にかく言明するのが1番です。すなわち副葬された宝物を取り出して国家に寄付し、清陵博物館を開設してもらう。それから各陵を土で埋めて閉ざしてしまうのだと。陵内にはすでに宝物がないということを世間に知らせれば、祖宗の遺体を保護することもできます。しかし、民国がもとより信義に欠ける事は、歳費、逼宮の件より明らかです。」

 

p112 溥傑は聡明なひとで、その他の宗室のように世間知らずではなかった。彼は祖父の話を聞くとすこぶるもっともだと思い、「この考えは善後問題を解決するのに検討しても差し支えない。しかし誰が皇上の面前でこれを提議するかが、かえって難題だ。」といった。ここで二人は向かい合って久しくすすり泣いた。この考えは結局会議の席で提出されなかった。

 

p113 逼宮と盗陵の二大事件では、当時の民間の輿論はみな清室の逆境に同情し、民国の背信を痛罵したものだが、これら当時の実態は今日の中国近代史の著作や論文ではまったく言及されていない。