奈良 當麻寺四天王のみ、髭を生やしている四国天だそうです。顔がとてもリアル。持国天と広目天が武将という感じです。
小林惠子先生は、広目天が天武天皇を模したのではないかと思われているそうです。先生によれば、天武天皇は聖徳太子の息子なので、聖徳太子もこのように目鼻がくっきりした顔だったのでしょうね。崇神天皇、景行天皇、聖徳太子、身長180cmもあったという記録があることから、威風堂々と目立つ容貌の武将であったことが想像されます。
小林先生によれば、崇神天皇は匈奴末裔、劉曜、景行天皇はヤマトタケルと言われている人で、鮮卑の慕容 儁(ぼよう しゅん)五胡十六国時代前燕の第2代君主と同一人物でもある。仲哀天皇も慕容氏、仁徳天皇と安康天皇は、パルチア国(安息国)と慕容氏の混血でエフタルという騎馬民族、雄略天皇は、北燕を建国した馮氏の末裔、清寧天皇はその三男、継体天皇はエフタル民族で葛城氏、宣化天皇と欽明天皇は継体天皇の息子、穴穂部皇子は東突厥可汗、聖徳太子は父方が祖父継体天皇、父欽明天皇でエフタル系突厥、母方は鮮卑族、聖徳太子は西突厥シルジブロス可汗の娘と婚姻、ササン朝ペルシャ ホスロー二世の娘と婚姻していて、斉明天皇はササン朝ペルシャの血が入っているそうです。天武天皇、舒明天皇、孝徳天皇、山背大兄王は父が聖徳太子なので、エフタル、鮮卑、突厥の血が入っています。持国天広目天が天武天皇に生き写しだとしたら、当時の覇権者は、このような容貌だったのか、とイメージできます。
元子と書いてあれば、血の繋がらない子という意味で、牛が馬を産んだ、という表現を使ったりするそうです。兄弟と書いてあっても赤の他人だったりします。遊牧騎馬民族といっても、漢民族の公主(皇女)を娶っているので、漢文化も嗜み、教養があります。道教、仏教も嗜んでいます。
中国大陸の名門家同士が婚姻、倭国に亡命してきても、すぐに倭国の名門と婚姻で結びつきます。軍事力を得るためにも。愛新覚羅溥傑と嵯峨浩の婚姻と李垠と梨本宮方子の婚姻も、これらの歴史を見れば、何の不思議もないことですね。
中国と朝鮮半島の歴史書を原文の漢文で全て読んだ方なので、推理小説のようでもありますが、この方に原文を比較して反論できる方は、見られません。
当時で180cmの身長、目鼻立ちはくっきり、色白、突厥は赤毛緑目を良しとするなど、非常に威風堂々としたイメージが目に浮かびますね。さぞ美男美女だったことでしょう。
古代の王は、武将そのものです。小林先生の著書では、神武天皇から平城天皇までが直接武将として大陸の戦地で戦った天皇だったとか。もちろん、戦地に赴かなかった天皇も。例えば用明天皇、山背大兄王(聖徳太子の太子)、斉明天皇、大津皇子、元明天皇、元正天皇、淳仁天皇、称徳天皇、光仁天皇、嵯峨天皇、淳和天皇、仁明天皇。平城天皇を最後に、大陸や半島で戦った武将的天皇は消えました。
代わりに戦うのは、武士になったんですね。でも源氏、平氏も元は天皇の落胤ですよね?
小林先生の2019年に出版された「大化改新の黒幕」あとがきによれば、30代で大学教授の紹介で三笠宮に会い、日本オリエント学会に入って以来半世紀おつきあいがあり、宮内庁書陵部に毎月通って貴重な古書を読んだとのこと。通常は、この書陵部の古書に触ることすらできないのです。よほど宮内庁に顔が効く大学教授の紹介があり、初めて手に取ることが可能なのです。それを毎月読めたということは、三笠宮殿下の許可があってこそ。殿下にスカウトされた感じですね。天皇家の歴史を原書から書き起こす使命を与えられたのでしょう。最後の2015年の三笠宮誕生会にも小林先生は出席され、一連の小林先生の著作にありがとう、と言われたと、書かれています。また、三笠宮殿下から、著書の内容についてクレームは一切なかったとまで書かれています。
三笠宮殿下の一存のみならず、当然昭和天皇と平成天皇の許可はあったのではないでしょうか。平成天皇が、桓武天皇の母は、百済武寧王末裔の高野新笠であると、発言されたこと、高麗神社に行かれたことからそう思います。つまり天皇家としては、小林先生の古代天皇家の歴史を否定されていない、ということなのです。三笠宮殿下は講談社と学生社に、小林先生の初めての本を持ち込まれたそうですが、却下され、現代思潮社で出版可能になったのだとか。天皇家公認の歴史観と想像して、私は読んでいます。
正倉院御物に、西アジア渡来の豪華な品が多いことからも、西アジア、中央アジアに住んでいた王族達が、日本に亡命してきた際に持ち込んだということは納得できます。ルビーとトルコ石が象眼された短剣が正倉院展にあったのですが、黒山の人だかりで、見るのを諦めたのですが、どう見てもトルコ周辺の王族の持ち物という感じでした。
中国大陸であれば、重臣や敵が皇帝を暗殺して、次の皇帝になる、という易姓革命がほとんどですが、蘇我氏や藤原氏が天皇を暗殺して、自分が天皇になるということがなかったからこそ、天皇システムが2千年も続いたという視点はとても面白いです。
小林先生は、満州生まれの80代の方ですが、遊牧騎馬民族を沢山輩出した満州で生まれ育ったことが、アジア中の覇者が倭国に亡命してきた構想に繋がったと思われます。戦時中、満州を抑えた理由が、古代に祖先がそこを闊歩していたから、だったのだろうかと思えるほどです。
この持国天のような彫りの深い顔の日本人、たまにいらっしゃるのですよね。当時の末裔はやはり現代まで生きていらっしゃるのだなと思います。秦氏もそうです。物部氏も、一部は大阪四天王寺の公人として、生きていらっしゃるそうです。
五胡十六国時代がさっぱりわからないので、ネットで探しました。
十六国を登場順に表にすると次のようになる。
国号 | 始祖 | 種名 | 年代 | 地域 | |
1 | 漢(前趙) | 劉淵 | 匈奴 | 304~329 | 陝西 |
2 | 成漢 | 李雄 | 氐 | 304~347 | 四川 |
3 | 後趙 | 石勒 | 羯 | 319~350 | 山西・陝西 |
4 | 前燕 | 慕容皝 | 鮮卑 | 337~370 | 河北・山東 |
5 | 前涼 | 張重華 | 漢族 | 345~376 | 甘粛 |
6 | 前秦 | 苻洪 | 氐 | 351~394 | 陝西・山西 |
7 | 後燕 | 慕容垂 | 鮮卑 | 384~409 | 山東・河北 |
8 | 後秦 | 姚萇 | 羌 | 384~417 | 山西 |
9 | 西秦 | 乞伏乾帰 | 鮮卑 | 385~431 | 陝西 |
10 | 後涼 | 呂光 | 氐 | 386~403 | 甘粛 |
11 | 南涼 | 禿髪烏孤 | 鮮卑 | 397~414 | 甘粛 |
12 | 北涼 | 沮渠蒙遜 | 匈奴 | 397~439 | 甘粛 |
13 | 南燕 | 慕容徳 | 鮮卑 | 398~410 | 山東 |
14 | 西涼 | 李暠 | 漢族 | 400~420 | 甘粛 |
15 | 夏 | 赫連勃勃 | 匈奴 | 407~431 | 陝西・山西 |
16 | 北燕 | 馮跋 | 漢族 | 409~436 | 河北 |
※北魏の前身である「代国」は内モンゴルから起こって華北に進出したが、十六国に加えられていない。他に16国に加えられていない小国(西燕など)もある。なお、表の始祖は必ずしも初代皇帝ではない。地域はおよその勢力圏を示す。