清朝のチャイナドレス、独特の民族衣装は見慣れているので一目で分かりますが、それ以外の衣装が、パッと見てどの時代?と見分けがつかないので、中国時代服飾辞典を見たいと思っていました。この動画がわかりやすかったです。昔の絵画などに忠実に再現したドラマを紹介されています。
唐と明の時代の女性の衣装、チマチョゴリに少し似ていますね。チマチョゴリは、上着を上に出していますが、唐のは襟のない上着をブラウスのように下に着て、スカートを胸の上で巻き付けるような感じみたい。露出の多いデザインで、冬はどうするのかと思いましたが、上に重ね着をするみたいですね。唐の時代のファッションと言えば、高松塚古墳の壁画に描かれた女官たちの衣装を思い出しますね。筒袖の幅は、かなり広いものから狭いものまで。
額の花の印の意味は、ヤフー知恵袋で見つけました。
女性が額や頬に赤・黄の点をつけたり、或いは花飾り(これを「花鈿」と云います)を貼り付ける化粧法は「梅花粧」「寿陽粧」と云います。 女性としての魅力を高め、アピールする為です。 およそ三国時代から唐・五代の頃まで流行りました。 この化粧法の由来は諸説ありますが、そのひとつに呉の孫和の寵姫があります。あるとき、孫和が誤って寵姫の頬を傷つけてしまいました。大金をだして傷跡を消そうとしますが、失敗し、傷跡が黄色く残ってしまいます。ところが、その頬の黄色さが却って艶めかしく、ますます寵愛を深めました。それを見習い女性達は頬・額を黄色や赤色で塗るようになったと云います。
南北朝時代になると、単に色を塗るだけでなく、花飾り「花鈿」を額などにつける方法も流行します。この由来としては、南朝宋の寿陽公主の奇譚があります。ある日、寿陽公主が昼寝をしていると、梅の花びらが額に降ってきました。それが五枚もくっついて、まるで花が咲いたようになります。不思議なことに拭っても落ちず、3日後にようやく取れました。女性達はその奇瑞に倣い、花飾り「花鈿」を額につけるようになりました。 この花飾り「花鈿」をつける化粧法は、花木蘭の誌中にもあり、北朝でも流行していたことが窺えます。父の代わりに戦場に出た男装の花木蘭が無事に家に帰り、ふたたび女性に戻る場面で「鏡に対して花黄を帖(は)る」とあります。鏡の前で「花鈿」を帖って化粧をしています。
「長安十二時辰」というドラマは、古代の絵画から忠実に再現して、お化粧も古代の通りに再現したそうです。








まるで絵画から飛び出してきたかのような古風な雰囲気が出ていますね。



「中国の服飾史入門」マール社 より




宋の時代は、唐の時代のファッションと似ていて、さらに露出が少なく清楚、きっちりした感じだとか。ドラマでは宋の時代のものは多いのだとか。現代でも宋さんて苗字の方、いらっしゃいますね。












袖はラッパ型と着物の訪問着より短いくらいの長さの形がありますね。


結婚式の翌日義理の両親に会うための特別の刺繍が手縫いなのだとか。








顔に真珠をつける化粧法だとか。初めて見ました。ごはん粒で、顔につくのでしょうか?


元が帝国になり過ぎて、あとは不老不死にしか興味がなくなり、チベット仏教にお布施をしすぎて経済破綻したと動画では言っていますが、ほんまかいな?


ヤフー知恵袋のお答え:
モンゴルの元王朝は、辞書的には1368年に明に滅ぼされた ということになっています。その後は、北元になったというふうに説明していることも多いでしょう。 しかし、この考え方は明王朝の歴史観によるもので、 元そのものは実は1368年に滅亡してはいません。 この年に起こったことは、明の攻撃を受け夏の都であった 大都(現北京)を捨てて、モンゴル高原に撤退しただけでした。 植民地であった中国を放棄して、 モンゴルに帰ってきただけと言えるかもしれません。 この撤退した元を、明では北元と蔑んで呼んだのでした。 この後、北元ではフビライの王統が途絶え、 チンギス・ハンの子孫たちによってリーダーをめぐる争いが起きましたが、 自分たちの国を元(正確には大元大蒙古国)と考えていました。 元がなぜ滅びたかではなく、 なぜ中国を失うことになったのかという観点で説明してみます。 基本的には、元の皇位をめぐる争いが頻発し、 中央政界が安定しなかったことが一つの問題点でした。 政治が乱れると、自然災害などへの対応がおろそかになります。 元に致命傷を与えることになった紅巾の乱がおきるきっかけの一つも 実は自然災害でした。 紅巾の乱の直前に、大雨などのために黄河が何回も決壊し 大氾濫をおこしました。 当然、農民たちは大きな被害を受け、政府は災害への対応を迫られました。 特に、再び黄河が氾濫を起こさせないために、大規模な治水工事を行って 黄河を改修しようとしました。 多くの人間がこの工事に駆り出されましたが、その労働者たちには ろくに給料が支払われなかったそうです。 要するに、財政的な裏付けもないまま、大工事を行ったのでした。 結局、困窮した人々が闇組織にかかわっていき、 大規模な宗教反乱である紅巾の乱がおきてしまいました。 この紅巾の乱がおきた地域がさらに問題でした。 反乱軍は主に長江下流から淮河にかけて活動していました。 この地域は、長江から黄河へ、さらには首都の大都へと つながる物流の大動脈である大運河が通っていました。 紅巾の乱のおかげで、この動脈はストップしてしまい、 元の中核地域に物資が入ってこないことになってしまったのです。 結局、元は軍事面では優勢でありながら、 補給路を断たれた状態になってしまい、 明という新興勢力に敗れてしまいました。
明の時代はプリーツスカートで、上着はスカートの上に出すのだとか。高松塚古墳は唐の時代だけど、女官の壁画は全面プリーツスカートでしたけれど。よく見ると、ボックスプリーツスカートですね。つまり、正面と真後ろの部分がボックスタイプでプリーツがないタイプです。

ボタンが登場したのが明の時代だとか。このドラマの衣装の色彩が上品で素敵です。




ハイネックの上着にボタンが登場。袖口が割烹着のように、きゅっと狭くしてあるデザイン。

皇后の衣装も髪飾りもシックですね。清朝のスタイルより好みです。ボタンがブローチに見えるほど、宝石を使用しているようでおしゃれです。



スリットはかなり上から入っています。

襟の形が、着物タイプと現代のブラウスのような形とあるのが興味深いです。


ボックスプリーツの拡大写真。




スリットの深いワンピースのような感じ?袖がかなり曲線です。

この宮廷セットはお雛様の飾りのようでもあり、高御座にも似ている感じ。

皇帝の冠には二匹のドラゴン、衣装にもドラゴンの刺繍が。この色は天皇陛下しか着られない色と同じみたいですね。中央に大きな丸い刺繍があるデザインは、清朝の衣装に引き継がれたのかしら。この冠の形、昭和天皇が似た感じのを若い頃何かの儀式でお召しになった写真があったと思います。成年式かしら。

このタイプのベルトは、6世紀頃の天皇の黄金のベルトと似ていますね。男性衣装は、着物タイプなのか袴タイプはわかりません。


深いスリットが脇にあります。

この冠、両脇の飾りが不思議です。

貸衣装あるんですね。


