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「李香蘭を生きて」

山口淑子著 日本経済新聞社 2004

 

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死と隣り合わせの映画製作。慰問では若い兵隊さん達の様子が描写されていて、「触ってはいかん」「触ってはいかんのでありますか」。目に浮かぶようです。

p140 満映自主制作映画「黄河」は「私の鶯」と並ぶ幻の作品だ。中国人の周焼波監督がシナリオを書いたセミドキュメンタリー。戦場となった農村の悲劇と氾濫を繰り返す黄河と戦う農民の姿を描こうとしていた。スタッフ、俳優はカメラマン1人を除いて全員中国人だった。

撮影は開封から車で12時間もかかる黄河のほとりで行われた。昭和17年の夏、国民政府軍や共産軍の襲撃に備えて労働者の格好をし、自衛用の手榴弾を持たされてトラックの荷台に揺られた。熱風と黄色い砂が私たちを襲う。渇きと砂で喉がひりひりと痛んだ。夕方になってようやく撮影地に近い日本軍の駐屯地に着いた。私は撮影の他に部隊慰問をすることになっていた。若い小隊長が集合をかけると、全員20歳前後らしい兵隊さん達が広場に集合した。みんな半裸だった。「李香蘭さんが歌ってくださるそうだ」という小隊長の声に「ウォーッ」というどよめきが返ってきた。
河の向こう側は中国の陣地。私は声を抑えてささやくように歌った。それから毎朝、出撃する兵隊さん達を見送ることになるが、全員が帰ってくることはまれだった。若い命が毎日のように失われていった。

 

p142 撮影中、反射板の光に向かって銃弾が飛んでくる。河を挟んで銃撃戦が始まると、私たちは泥の中にはいつくばった。ほどなくして撮影中の銃撃がやんだ。そこは中国人同士。裏でうまく話をつけたようだった。黄河に首までつかり、熱砂の上を這いずり回り、麦畑の中を切り傷だらけになりながら走り回る。そんな過酷な撮影が二ヶ月も続いた。

ようやく撮影を終え、北京に帰る列車が開封から新郷という駅に差し掛かったとき、私たちが乗っていた車両の後ろに畳敷きの病院列車が二両連結された。近づくにつれ、手や足を切断された人が身をよじって呻いている兵隊さん達だとわかった。うめきや叫びに混じって水を求める声、母を呼ぶ声がした。
衛生兵一人では手が回らない。私と付き人の厚見雅子さんは手伝いを申し出て、鮮血に染まった包帯を何枚も取り替えた。傷口にうじがわいている。夢中になっている間に夜になった。

夜間は襲撃される危険が大きいので列車は止まり、明かりを消して闇の中にうずくまった。私たちがうとうとしていると、李香蘭だと知った兵隊さん達が、何か歌ってほしいという。私は線路に飛び降り、二両の病院列車の両方から見える辺りにまで麦畑を走って行った。水で喉を湿らせて「荒城の月」「海ゆかば」「出船」などを歌った。

 

p144「黄河」は完成した。公開に備えて日本語の字幕も入れられた。だが日本人の関心は中国大陸から南方へ移っていた。日本の映画会社は首を縦に振らない。一部で傑作の評価を得ながらも、ついにこの作品は日の目をみることなく終わってしまった。

 

甘粕満映理事長、川島芳子松岡洋右の長男松岡謙一郎(恋人ではなくお友達同士)、川喜多長政長谷川一夫三船敏郎チャップリン、野口イサム(最初の夫)、魯山人と有名人との関わり多し。新婚時代住んでいたのが、魯山人の離れだったなんて。すごい。

川島芳子は山家亨という山家機関の陸軍軍人と恋仲であり、山家が李明という女優と浮気をしていたのを、李香蘭と勘違いしていたそうな。

 

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