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「知られざるさすらいの愛」

 相馬 勝著 講談社 2012

 

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幼馴染の蒙古王族カンジュルジャップと3年の結婚、男児を授かる

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川島浪速は、父親としての器ではなかった。愛新覚羅溥傑が父親代わりだったなら、全く違う人生になったのでは。それに愛新覚羅家として、家庭教師とか乳母とかなぜ一緒につけて、日本に出してあげなかったのか。

芳子以外にも、粛親王の孫娘を養女として育て、廉子という名で、川島家に入籍させているのに、なぜ芳子は入籍しなかったのか。浪速にはフクという妻がいたものの、再婚でも考えていたのだろうか。だから養女として入籍するわけにはいかない。実際、妻の川島フクは、第二次満蒙独立計画で浪速が留守がちになり、実家に帰ってしまったという。

 

27歳の家庭教師、赤羽まつ江が住みこみ家庭教師として、芳子の世話をした。まつ江は高女で教師をしたのち、芳子を5年教えたあと結婚し、結婚1か後にはコロンビア大学へ留学してしまったという人物。昭和8年には、大日本連合女子青年団満州視察団員として満州国を訪問、芳子と再会した。
「久しぶりにお母様に会えると思うと、飛び上がりたくなるようにうれしゅうございます。お出の時には、東京の栄泉堂の最中と甘納豆をドッサリ買ってきてね。」と芳子は、まつ江に甘えていた。

 

当時芳子は、馬賊出身のモンゴル英雄のパプチャップを褒め称えていた。まさか、そのパプチャップの次男カンジュルジャップと結婚するとは想像もしていなかったらしい。パプチャップ将軍は戦死し、浪速は日本政府や軍からもらった金もあり、三人の王子と粛親王の王子を日本の大学や陸軍士官学校に入学させるなど日本の生活の世話をしたとか。

 

父粛親王とその夫人、両方が病死してしまい、しっかり守ってくれる人がいない事情の中、浪速は芳子を虐待したのですね。ジョウロで殴る、はさみを投げつける、折檻する、しつこく追い回す。同じ寝所にいて、芳子が寝室から叫びながら女中部屋に逃げこんだなどなど。
しつこく言いより虐待してくる養父から逃げるため、短銃自殺未遂、丸坊主事件、男装するようになる等。

 

浪速は芳子の姪である廉子を戸籍に入れ養女としてから、蒙古王族の韓氏カンジュルジャップとの縁談をもちかけた。これは日本軍部と相談をした上でのことだった。この前、張学良の側妃に、という話が軍実力者から出ていたが、芳子の兄、憲立王子が難色を示して断った。妹には正妃の座につかせたい。

結婚式は昭和2年11月、関東軍参謀長斎藤恒仲人、旅順のヤマトホテルで盛大に行われた。
芳子21歳、カンジュルジャップ24歳。芳子の手記には、「旅順から病気療養に大連のヤマトホテルに移ると、明日私が結婚するのだと聞かされました。驚いたり癪にさわったりして、挙式の最中に退席したこともありました。指輪をはめてくれる新郎の手を振り切って、指輪を振り落としたこともありました。」

 

この結婚生活は、カンジュルジャップの母代わりである姉に、初夜の布団を芳子が見せなかったことを原因に、以後ずっと姉と芳子の仲が悪く、3年足らずで芳子の家出で終わったという。
夫カンジュルジャップはしばらく帰りを待ったのち、芳子の紹介で?蒙古族の17歳の女性と再婚し、結婚式に突然芳子は現れて祝辞を述べ、新婚夫婦と共に写真に収まっている。

 

延々と、彼女と様々な男性が織りなす人生模様。金の延べ棒150本で、脱獄成功して以後の30年は、長春に潜伏。そしてお寺で毎年を過ごすようになるけれど、国民党、共産党どちらとも、あれやこれや。
愛新覚羅溥傑夫婦、娘の福永嫮生夫婦のような、一筋に人生にひとりだけの運命の人と過ごす人生ではなくて、なかなか大変だったようです。

 

笹川良一は、自前の党機をこの時点で持っていたわけですね。彼は日本人ではないらしいです。

3千人の安国軍総司令に就任、上質な阿片が取れる熱河省へ行き、里見甫とも昵懇の仲となる。甘粕大尉にお金を無心したとか。昭和12年7月盧溝橋事件の3か月前に、すでに芳子は日中戦争を予言したとか。

 

李香蘭の名付け親 李際春氏は、瀋陽銀行の総裁だったのですね。漢奸として処刑されたそうです。孫文の長男、孫科にも、日本軍のため、動向を聞き出したりしている。あとでそれが孫文にバレて、芳子は孫科を逃している。

 

p142 暴漢に斧で襲われて怪我を負ったこともあり、福岡を拠点にする。
玄洋社頭山満は、浪速と昵懇の間柄で、しばしば赤羽の川島邸を訪ね、豊島師範付属小学校時代の芳子を可愛がっていた。芳子は頭山によく懐いていて、物心両面で頭山を頼っていた。

 

p144 関東軍にとって軍の内部情報にも詳しく、満州国建国のために軍が暗躍したことを知っている芳子は徐々に邪魔になった。ついに北支方面軍司令官であった多田から、芳子の暗殺命令が出た。

 

軍の魔手から守ったのが笹川良一だった。笹川は右翼団体国粋大衆党を結成、総裁に就任していた。1939年には飛行機で単身イタリアに渡り、ムッソリーニ首相との会見を成功させていた。翌年昭和15年には、国粋大衆党機である「国粋号」に乗って、慰問旅行として満州と北支を訪問した。そこで北京憲兵隊司令官で旧知の由里亀太郎少尉が、北京の宿に笹川を訪ね、暗殺命令が出ているが哀れで殺れない、と話したのを受け、笹川が芳子を訪ね、「軍のことはワシが手を打っておくから、あんたの身柄をワシに預けてくれんか」と話すと芳子は承諾した。笹川が福岡に帰ると、芳子も追いかけてきて押しかけ女房のように笹川を慕った。

 

p147 実現はしなかったが、頭山は蒋介石会談を考えていた。芳子は、笹川と二人で重慶へ行き、蒋介石と会談しようと手紙を出している。

日米開戦直前の1941年、東久邇宮稔彦王が頭山に蒋介石との和平会談の実現を依頼した。頭山は緒方竹虎を通じて蒋介石と連絡をとり、「頭山となら会っても良い」との返事を受け取った。東久邇宮東条英機に飛行機の手配を頼んだところ、「勝手なことをしてもらっては困る」と拒絶され、会談は幻となった。

 

芳子は二年ほど笹川の生活費で生活したあと、1943年北京に戻った。二年は牢の中にいたものの、兄親王や親戚が用意してくれた金の延べ棒150本で身代わり処刑、彼女はこっそり釈放されていた。3人の国民党スリーパーと日本人秘書が最後まで、命をかけて彼女を守ったのですね。そしてその合間に、資産がない共産党のため、請われて阿片密売のことを教えたり、日中国交回復時に来日して、笹川と再会するのです。

 

連絡方法は、日本の天台宗訪中団が国清寺(芳子の避寒地)を訪問した際に、芳子が笹川に伝言を頼むなどの手段で行われた。芳子がお忍びで日本を訪問したこともあったもよう。

朝鮮戦争の戦費調達と、武器購入のため、香港の華僑財閥の豪邸で、芳子も同席して商談が行われた。ここで麻薬王 里見甫とのコネクションが効いた。

芳子の動静は、周恩来も知っていて、遠回しに国交正常化前に訪問した藤山愛一郎に、生存を肯定したのだそうです。

 

パスポートの代わりに帰依証。法名は「成静」

翻弄された人生でしたね。