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「五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後」

三浦英之著 集 英社文庫 2017
 

日本政府が満州国の将来の運営を任せるために多大な予算をつけて新京に作ったスーパーエリートの建国大学。通常の大学の3〜6倍の巨費が投入された。学生達は日本、中国、朝鮮、台湾、モンゴル、ロシアの各民族から秀才を選抜し、学問と語学のみならず、剣道、騎道、陸空軍的訓練の他、農業指導があった。

定員は1学年150名、就学期間は前期3年、後期3年。全寮制。授業料は全額官費、月5円の手当も支給する。
学問、勤労実習、軍事訓練を3つの教育指針の柱とし、勤労実習は農民の生活に精通すること、軍事訓練は即戦力として前線に出られる士官学校並の技能と知識を義務とした。

日本人学生は定員の半数まで。公用語である日本語と中国語のほか、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、モンゴル語などの言語を自由に選択することが許された。寮では20人を1グループに、寝るときも同国人が隣にならないよう配慮していた。

特筆すべきは、言論の自由があり、日本政府を批判する自由すら認めていたこと。学生達は、毎晩のように座談会があり、教師は批判するだけでなく、解決策を求めた。学科試験はなく、レポート提出だけであった。

日本の陸軍士官学校の卒業式には昭和天皇がご臨席。建国大学の卒業式には、溥儀が出席した写真がある。
たった8年しか存続できなかった国策大学。関東軍は、敗戦を知り、すぐに建国大学資料を燃やしている。

新聞記者の著者が、高齢の生き残りにインタビューし、第13回開高健ノンフィクション賞受賞して、書籍化されたもの。

 

p52 石原莞爾大佐の試案で、民族協和を中心に、日本の既成の大学の真似をせず、各民族語で喧嘩ができるようにすること、中国本土、インド、東南アジアからも学生は募集すること、思想を学び、批判し、各地の先覚者、民族革命家を招聘すること。中国の胡適、周作人、インドのガンジー、ボース、ソ連トロツキー、米国のオーエン・ラティモアパール・バックなどの著名人を広く招くよう要請している。

 

p25 建国大学出身者1400名中、生存が確認されたのはわずか350名。戦後、大学が有していた特殊性を理由に自国で激しく迫害弾圧され、多くの同窓生の安否が掴めていない。
日本人学生の多くは敗戦直後ソ連によりシベリアに送られ、帰国後も傀儡国家の最高学府出身者というレッテルにより、高い学力と語学力を有しながらも多くの学生が相応の職種に就くことができなかった。

 

p53 陸軍大学を卒業後ドイツ留学を経験した石原は、最終的には日本とアメリカが最終戦争を行い、勝った方を中心に世界が一つにまとまるという終末論を抱いていた。

 

p71 柔道と剣道は必修であり、分列行進や格闘などの基礎技術のほか、射撃やグライダー操縦といった特殊訓練も正規の授業として採用されていた。

 

p72 軍事訓練と並んで建国大学の核とされていたのが農事訓練の存在だった。国民の大多数が農民である満州国の指導者になるためには、同じ苦労をしなければならないとして、大学構内外にある50町歩の農場を使って学生達に大豆やコウリャン、カボチャ、トマト、ナス、きゅうり、メロン、スイカ、じゃがいも、人参などを栽培させ、名古屋コーチンやバークシャ種の養豚、乳牛、オーストラリア産の綿羊といった家畜の世話にも従事させていた。指導したのは、京大農学部卒の藤田松二。化学肥料はもちろん、工作機械も一切使わない厳格な無農薬農業であり、自らも農場に泊まりこみながら、学生達を牽引していた。

 

p75 建国大学の図書館には約15万冊の書籍が所蔵されており、知識がなければ批判もできないという理由から、共産主義に関する日本では発禁本も、特別に閲読が許可されていた。