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「戊辰戦争の史料学」

箱石大著 勉誠出版 2013

 

海外に散らばった幕末史料が発見されたり、日本人の目に触れるようになったのですね。

 

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p38 戊辰戦争に参加したシュネル兄弟に関する新史料。
戊辰戦争期に会津・米沢・庄内などの諸藩に潜入し、奥羽越列藩同盟側に荷担した彼らについて、出自、国籍、後半生について不明な点が多かった。

ところが田中正弘教授から、会津若松城攻防戦で戦死した会津藩士河原善左衛門政良のひ孫にあたるユリコ・ヴィルト・カワラ氏の史料を紹介された。現在ご夫君のハンス・ヴィルト氏とバーゼル近郊のムッテンツにお住まいである。

カワラ氏はご自身のルーツを調べ、河原善左衛門政良とも接点のあったシュネル兄弟に関する史料も収集。史料はオランダ、ドイツ、スイス、アメリカ各国の文書館、図書館、個人の文書などが中心で、2007年田中教授の勧めにより、東京大学史料編纂所に一括寄贈していただくことが実現した。

 

p45 今回カワラ氏収集史料によって、兄の名前がヨハン・ハインリヒ・シュネル、弟の名前がフリードリック・ヘンドリック・エドゥアルド・シュネルと確認された。兄弟の両親は後年ドイツ帝国の版図となるヘッセン選帝候国の出身、弟の名はオランダ風であるが、父親がオランダ軍に在籍していた影響かもしれない。

江戸幕府の外交文書を編纂した「続通信全覧」の中に、兄ハインリヒの名前を「イ、ハ、スネル」と記す文書がいくつか収録されている。

 

p47 父の名前はヨハン・ユストゥス・シュネル。1808年カッセル誕生。ドイツ人でオランダ領東インド軍に就職している点は、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの経歴にも似ている。母の名前はアンナ・アポロニア・ヴィルヘミナ・シュネル。5人の子供の末の2人がシュネル兄弟である。

 

p48 兄弟の出身地は、両親の出身地であるヘッセンともできるし、兄弟が生まれ育ったオランダともいえる。幕府がプロイセンと通商条約を締結する以前に来日していた弟エドゥアルドは、横浜を拠点に日本で商業活動をするに際し、便宜上オランダ国籍を称する必要があり、結果日本側の史料にオランダ商人としてその名を残すことになったと思われていたが、今回判明した事実から、オランダ人と称して不思議はなかった。

兄ハインリヒは、プロイセン領事館に書記官として勤務し、代理公使ブラントの下で通訳の職務に従事していた。彼はオランダ語とドイツ語で、幕府とプロイセンの間を通訳として活躍したと思われる。

 

p49 戊辰戦争期に、駐日プロイセン代理公使マックス・フォン・ブラントが、蝦夷地の植民地化を本国政府に進言したという文書が、ドイツのフライブルグにある連邦軍事文書館に所蔵されていることを知ったのである。

 

p50 1999年 ボン大学教授ヨーゼフ・クライナー氏が、北海道新聞を通じて一般にも紹介していた。幸い筆者は2009年からボン大学名誉教授のペーター・パンツァー氏の協力を得て、フライブルグ連邦軍事文書館に所蔵されている幕末維新期日本関係文書の共同研究を開始した。

 

シュネル兄弟に関する新史料 箱石大著

p51 1868年7月31日付ビスマルク宛ブラント書簡

横浜に駐在していたブラントから、ベルリンのドイツ連邦宰相ビスマルクへ宛てて送られた書簡である。
会津・庄内両藩が、ブラントに対して、蝦夷地もしくは日本の西海岸にある領地をプロイセンに売却したいと内密に申し入れてきたというものである。
安政6年(1859)、幕府は蝦夷地の警備を命じた諸藩に、その担当区域を領地として分与した。会津藩には東蝦夷地の根室領のうち西別より北海岸の網走の境までと、同所より紋別領までの地域が、庄内藩には、西蝦夷地の浜益領・留萌ルモイ領より天塩領までの地域と、天売島・焼尻島が領地として与えられていた。

 

p52 会津庄内両藩は、これらの蝦夷地にある領地のうち、いずれかの土地をプロイセンに提供しようとしたのであろう。ただし、戊辰戦争奥羽地方まで拡大すると、諸藩は蝦夷地における領地を放棄し、本藩に引き上げている。一方、日本の西海岸にある領地としては、例えば、酒田沖にある庄内藩領の飛島などが想定できるであろうか。

以前からブラントは、蝦夷地での土地獲得に強い意欲を抱いていたらしく、1865年と1867年の二度も蝦夷地内を視察していた。
当時プロイセン国内では、オイレンブルク使節団による東アジア遠征を契機に、海軍根拠地として台湾を獲得すべきであるとの意見が広まっており、王族で海軍総司令官のアーダルベルト大公も台湾獲得に積極的であったというが、ブラントはアーダルベルトに対して、台湾獲得については否定的な見解を上申していた。台湾より蝦夷地を有望視していたブラントにとって、会津庄内両藩からの提案は、願ってもない話であったに違いない。

会津庄内両藩が、プロイセンに対して、何らかの軍事的・経済的な提携・支援を求めていたのではないかと想像できよう。

 

p53 1868年10月8日付ローン宛ビスマルク書簡

プロイセン王国国務大臣アルブレヒト・フォン・ローンに宛てた書簡。ブラントからの進言に、結局ビスマルクはこれを拒絶する判断を下した。理由は、交戦中のどちらか一方と土地交渉を開始すれば、他の駐日各国代表との間に不信や嫉妬を引き起こし、他国との協調関係を乱すことになり、中立を維持すべきブラントとの立場を危うくしかねないというものであった。

実際に戊辰戦争中のイギリス公使ハリー・パークスは、ロシアの蝦夷地への南下を警戒し、軍艦を派遣しているほどであったので、ビスマルクの情勢認識は的確であった。

 

p54 1868年8月21日ビスマルク宛ブラント書簡

この書簡による続報により状況が一変する。長崎にあるイギリス商社グラバー商会が、数年前から薩摩藩琉球諸島を担保として資金を貸付ていたのだが、イギリス政府がその事情を把握し、好機を捉えて同紹介の利権を手に入れたというのである。
さらにアメリカも長崎に海軍基地を設置するための土地取得を計画しているのだという。

 

p55 1868年10月29日付ローン宛デルブリュック書簡
英米両国がプロイセンに先んじて日本側から土地を獲得する措置を講じているという情報に接するに及び、それが事実であれば、会津庄内両藩との交渉を開始するようブラントに命じることになった。
当時のプロイセン海軍は、薩南諸島トカラ列島や、五島列島なども海軍基地の建設候補地として強い関心を抱いていたようであるから、イギリスによる琉球諸島の獲得という情報の中身にも、敏感に反応したのではなかろうか。
北ドイツ連邦宰相官房長官ルドルフ・デルブリュックがビスマルクに変わって、ローンに伝えたものである。

 

p56 結果的にはこの回答が横浜のブラントに届くのは、早くても二ヶ月後の12月末から1869年1月初めにかけて。明治元年11月中旬から下旬にかけてであり、その時点では交渉相手の会津庄内藩も新政府軍に降伏しており(1868年11月6日会津藩降伏、11月7日庄内藩降伏)、ブラントの目論見が実現することはなかった。

 

江戸末期の人々がかなり賢いと思う。欧米に一方的に搾取されていたわけではなく、交渉事をしていますね。しかし、軽井沢に金鉱脈があるって本当ですか?

 

戊辰戦争期の会津藩による鉱山リース契約  保谷 徹著

 

p89 ケンブリッジ大学図書館で閲覧した史料に、戊辰戦争の最中、会津領内の鉱山を外国資本にリースするために用意された契約条項とその代理人に英国商人を指名したという内容があった。リース料は現金で50万ドル、四半期ごとにロイヤリティーが支払われるという契約条件になっている。

 

p90 史料はサー・ハリー・パークス文書に含まれている。パークスは駐日特命全権公使(1865-1883)を務めた英国外交官である。この史料はパークスの孫娘からケンブリッジ大学図書館に寄贈された。パークスの娘はジャーディン・マセソン商会のケジックKeswick家に嫁ぎ、史料が伝わったものであろう。現在でも史料閲覧にはマセソン商会の許可が必要になる。

 

p91 戊辰戦争期の会津藩が、外国の力を借りて鉱山開発を行っているという風聞は、プロイセン商人スネル兄弟の活動ともあいまって、当時から新聞上を賑わしていた。

中外新聞外篇巻之二十 慶応4年5月
普魯士人二名会津へ来り三兵伝習・機械製造、且金銀山を開き候に付、若松城下盛に相成候由、小佐越辺通用金銀多分会津出来を相用ひ申候

 

p92 プロイセン人の手によって軍事調練、造兵、金銀山の開発に取り組んでいるという風聞である。5月という時期は白河口と越後口で本格的戦闘が開始されていた。

史料の内容は、横浜の居留商人ジャクモに、会津領内の鉱山リース契約についての全権を与えるというもの。相手は外国の投機会社Company of Adventurers。署名欄には、梶原平馬、海老名群治、山内大学らの日本語署名があり、会津藩主の御前で署名されたとある。

 

p94 署名の筆頭は梶原平馬景武(1842-89)である。梶原は慶応二年に家老となり、会津藩の主戦派として知られている。横浜でスネルにも接触し、列藩同盟支配下の開港地・新潟で武器の陸揚げに当たっていた。会津での籠城戦を経て、戦後は斗南に移住するが、一切身を隠したため、伝記は未詳である。

海老名郡治季昌(1843-1914)は徳川昭武に従ってパリに渡り、帰国直後に鳥羽伏見戦争に参加した。
慶応4年8月、24歳で家老となったが、戦後は捕らえられて明治4年まで獄にあった。こちらも主戦派である。その後山形県三島通庸の元で働き、若松町長を務めることになる。

三人目は山内大学知道(1828-1912)、慶応4年閏四月に日光口に出陣し、旧家臣を集めて小出島へ出陣した。7月には奉行職となり、戦後は斗南藩少参事を勤めている。

Jaquemot ジャクモは遅くとも1861年には横浜にいた。生糸商人とThe China Directoryに記載されている。
横浜居留地82番に事務所を構え、84番を私宅とするなど、羽振りの良さを見せている。1875/76年版はシュヴァイツ海洋保険会社(チューリヒ本社)の代理人を務めた。

 

p95 会津藩が外国資本を入れて軍資金調達に動いた動機はどこにあったのだろうか。慶応4年7月、奥羽鎮撫総督九条道孝を失った列藩同盟は、入道公現親王輪王寺宮)を軍事総裁に迎え、小笠原長行板倉勝静の旧幕閣を参謀として、同盟の求心力を補強しようとした。7月、徳山を名乗った板倉を中心に、旧幕府が米国から購入したストーンウォール艦(のちの甲鉄艦)を引き取ろうと企てる。
新潟港を実質支配した会津、庄内、仙台、米沢の四藩は、資金を出し合いこの蒸気船を入手し、海上輸送力を強化しようとしたのである。

 

p96 安部井政次は函館戦争まで参加して松前で戦士した人物である。この安部井が、板倉の前で、ストーン・ウォール艦の調達資金について、米沢藩庄内藩の差出金は、新潟陥落の混乱の中で紛失したとも限らない。
その際は産物売り払いとか、金山引き当てなどによって差し出してくれ、と言ったというのである。会津藩士が資金調達の一手段として、金山引き当てを持ち出していることは、非常に興味深い。

 

p97 英国商人ジャクモが、元来スイス国籍だったことである。スネル弟ことエドワルド・スネルはスイス総領事書記官をも勤め、新潟で同盟側に武器を販売した当人である。ジャクモと会津藩をつなぐ位置にスネル兄弟の影を見ることも無理なことではないのである。