好きなもの、心惹かれるもの

本、音楽、陶器、織物、手芸品をご紹介します。

元禄時代までの絵画など

写真のピンボケぶりが半端なくて申し訳ないです。

 

小早川秀秋の陣羽織

違鎌のアップリケ?初めて見ました。

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南蛮人が描かれた馬の鞍、南蛮寺扇面と、少年使節が持ち帰った地図を元に、イエズス会の画学舎で描かれた世界図。

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秀吉が聚楽第に、後陽成天皇を招いた時の記念の図と言われる。右の建物の御簾の中が天皇。右下端と、中央赤い敷物の上に、南蛮人らしき人々がいる。この絵の中で、秀吉はどこにいるのでしょうか?

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祇園祭の屏風

織田信長天正二年(1574年)に上杉謙信に贈ったと言われる洛中洛外図屏風の一部で、狩野永徳筆。山鉾には、ベルギー製の織物が使われている。

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東福門院入内図

元和六年(1620年)、秀忠の末女和子が御水尾天皇の女御として入内した時の有様を描いた屏風、二条城から御所に向かう一行。和子は明正天皇を産み、のち東福門院と称された。

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四条河原図

京都加茂川の四条河原は、遊興歓楽の地でした。右中央は遊女歌舞伎小屋で、赤い幕に「うきよさど嶋大かぶき」と書かれている。その左はハリネズミ見世物小屋で、左端は賀茂川で、漁をする人がいる。

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島原の乱

踏絵の写真、初めて見ました。

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ラテン語でなんと書かれているのでしょうか。

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京都の遊郭であった島原に残る角屋(すみや)の戸口。何のお花でしょうか?ちょっと紅型風だと思いました。

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洛中洛外図巻より

住吉具慶の洛中洛外図巻の一部。下は町屋で、本屋、弓師、経師の店があり、手前に織屋、染物屋がある。

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銀吹替御軸物より

金座で極印(ごくいん)を打っている絵

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朝鮮人来朝図

将軍が就任するごとに来朝する朝鮮の慶賀使節が、江戸市中に入った絵。

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捕鯨

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紀州熊野浦諸鯨之図 1723年 東京大学図書館蔵

小さな舟を連ねて、捕鯨をしていたんですね。万治・寛文頃から網取法が考え出された。

何だかコミカルな絵。

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鯨取り 司馬江漢

この鯨さんの絵が可愛い。

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この飾り船は、朝鮮使節来朝の様子。将軍を日本国大君と称するのをやめて、日本国王としたことも、礼文主義の現れ。朝鮮使節対馬から瀬戸内海を通り、大阪から陸路江戸へ下った。

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長崎出島と唐人屋敷

出島には甲比丹(カピタン=商館長)以下二十人足らずの館員がいて、その住居や倉庫など四十棟ほどがあった。

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享元絵巻

徳川宗春は、吉宗の改革に反し、遊郭を設けたり芝居興行を許すなど繁栄策を講じたが、吉宗によって処罰された。絵は大須観音界隈の賑わい。

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www.museum.city.nagoya.jp

 

鍬形蕙斎 近世職人尽絵詞よりf:id:MeinFavorit:20210909202157p:plain

 

蝦夷地絵図

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大黒屋光太夫ともう1人磯吉しか、生きて日本に戻れなかったのですよね。中には片足を失い、ロシアの女性と結婚して現地に残った乗組員もいたそうです。確か光太夫は、事情聴取の後、座敷牢と言うのか、閉じ込められて、郷里に戻ることも許されなかったと思います。故郷に生存は知らせられたかどうかはよくわかりません。

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レザノフ絵巻より

寛政四年(1792年)に根室に来たラクスマン(大黒屋光太夫を送って来た)に次いで、文化元年(1804年)レザノフが長崎に来て通商を求めた。上陸して奉行所に向かうところで、レザノフは駕籠に乗っている。

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寛政四年(1792年)にラックスマン松前に来た時、幕府は長崎入港の許可証を与えた。ラックスマンはそのまま帰国したが、文化元年(1804年)9月にロシアの全権大使レザノフが、クルゼンシュテルン大佐の指揮する軍艦ナデジュダ号で長崎に来航、上陸、通商を求めた。

長崎奉行はレザノフを仮館に軟禁状態にして置いて、幕府の司令を仰いだが、半年後の翌年二年三月に通商を拒絶した。レザノフはこれに憤慨して、のちに樺太のクシュンコタンや択捉を部下に襲撃させた。

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間宮林蔵

レザノフの部下が、樺太択捉島で暴行した事件が伝わると、幕府は東蝦夷地を直轄にしていたのを、さらに西部に及ぼして、蝦夷地全体を上知させ、松前氏を陸奥梁川(やながわ)に移し、箱館奉行松前に移して松前奉行と改めた。

同時に蝦夷警備兵を増員し、若年寄の堀田正敦を防衛総督に下が、さらに同五年に間宮林蔵と松田伝十郎に樺太探検を命じた。両人は、北緯51度50分のラッカまで行き、樺太の離島であることを推測した。翌年、林蔵は大陸に渡り、海峡の存在を明確にした。シーボルトにより、間宮林蔵の名がヨーロッパに知れ渡った。

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シーボルトはドイツの医師で、文政六年(1823年)にオランダ商館付きの医官として長崎へやって来た。一年後長崎郊外の鳴滝に塾兼診療所を開くことが許され、丸山の遊女其扇(そのき)=楠本お滝と同棲して、娘いねが生まれた。

文政十一年にシーボルトが帰国するとき、幕府の天文方の高橋景保からもらった日本地図が発見され、シーボルトは再渡航禁止を言い渡され、多数の関係者が処分された。密告者は、隠密の間宮林蔵といわれる。

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印旛沼干拓

印旛沼干拓は、田沼意次水野忠邦の命取りとなった工事。右は、その完成予想図。左は天保の時に工事を分担した庄内の酒井家の人足が排水工事をしている様子。

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松前檜山屏風

アイヌ村でニシンの漁業が盛んに行われているところ。内地商人が暖簾を連ねて漁獲物を待っている。

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徳丸原銃陣図

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以上「日本の歴史」別巻3より。