小林惠子元岡山大学助教授の著書から、歴代天皇年表を作ってみました。人名、役職名が多すぎて、読んでいるうちに訳がわからなくなります。著書によっても多少の違いがありますし、完全ではありませんが、年表を見ながら、著書を読むとわかりやすいです。
三峯神社は狼を祀っていますが、突厥族の始祖が狼という伝説と繋がります。小林惠子さんは、三笠宮殿下の日本オリエント学会に出られていて、宮内庁書陵部の貴重な古文書を見たりされ、現代思潮社での出版は、三笠宮殿下の働きかけがあったということです。藤ノ木古墳被葬者は崇峻天皇、高松塚古墳被葬者は天武天皇など、以前から多くの著書がありますが、きわめつけは聖徳太子考でしょう。最新の「聖徳太子の真相」では、聖徳太子は倭王多利思比孤、ササン朝ペルシャのシャフリバザール将軍でもあり、ホスロー二世の娘を妻としていたなど、日本と突厥帝国とペルシャの3国に跨って、倭王、可汗、将軍という地位にいた人物だったというのです。非常に刺激的な仮説です。最後の仁明天皇に眞子内親王がいらっしゃることに気がつきました。
以下の著書から、wikiの年表の枠を利用して作りました。一般に掲載されている歴代天皇年表とは違います。正史から抹消された天皇が何人もあります。小林説では、新羅王、百済王と倭王を兼任しているケースがよく出てきます。高麗神社があるように、高麗、渤海、契丹あたりの地域と日本は、貿易、戦争でかなり接触があったようです。半島の古墳から出土する遺物と日本出土の遺物が似ていて、同じ勢力が両地域に存在していたようです。
小林先生は、当初から、三笠宮殿下の後押しがあったと書かれていたので、私は天皇家公認の歴史観として読んでいます。
「聖徳太子の正体」 文春文庫 1993
「興亡古代史 東アジアの覇権争奪1000年」 文芸春秋社 1998
「本当は恐ろしい万葉集 西域から来た皇女」祥伝社黄金文庫 2008
代 |
漢風諡 |
和風諡 |
諡 |
民族・地位 |
家族 |
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在位・備考 |
1 |
202年頃生まれ
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武 仁 |
大武神王と 東川王を投影 奴国王 辰韓王 |
父 高句麗山上王 母 邑婁地方出身 皇后 台与
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亀慈出身安息国領域の大夏犬戎の休氏 瓢箪と切れない縁がある 卑弥呼没後の男王 金印つまみは蛇 卑弥呼の墓 平原古墳 |
227年高句麗東川王即位 247年北九州上陸、伊都国の卑弥呼殺害 248年広島安芸に住む 奴国王と辰韓王として 後漢から認知 王墓 備前車塚古墳 |
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2 |
安杵 |
休氏はのちに葛城氏と呼ばれる |
皇后 五十鈴依媛=台与 兄 五瀬命 |
纒向遺跡あたりに台与は住んでいた 葛城の高岡宮で即位 |
阿岐国、吉備滞在、伊都国を 滅ぼす 264年大月氏出身大物主大国主の出雲勢力長髄彦から大和を簒奪。 286年慕容廆が大彦と神武朝を簒奪。 |
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3 |
磯城津彦玉手看尊 |
磯 城 仁 |
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皇太后 台与 皇后 渟名底仲媛 |
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志木市に都を置く |
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4 |
大日本彦 耜友尊 |
義 仁 |
西川王 |
神武東川王の孫 高氏 |
子 丹波道主 (高奴子) |
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5 |
観松彦香殖稲尊 |
梅 松 仁 |
匈奴末裔 劉氏 |
高句麗は常に劉氏側
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296年葛城上宮で即位
318年没
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6 |
日本足彦国押人尊 |
押仁 |
休氏 |
武埴安彦と同一人物 |
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7 |
大日本根子彦太瓊尊 |
根 子 彦 |
休氏 |
オオタタネコと同一人物 |
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8 |
大日本根子彦国牽尊 |
元杵 |
休氏 |
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401年没 |
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9 |
稚日本根子彦大日日尊 |
太日 日 |
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三輪山王朝 |
子 中蔕姫命 孫 眉輪王 |
葛城地方を所有 雄略天皇に孫と放火で殺される |
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10 |
御間城入彦五十瓊殖天皇 |
五十瓊殖 |
匈奴末裔 劉 曜 |
高句麗出身 |
身長180cm以上 |
298年劉曜が北九州に征討に上陸。 中国地方の出雲振根を滅ぼす。 318年長安で即位し、国名を趙とした。 328年 劉一族と共に滅亡。 |
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11 |
活目入彦五十狭茅尊 |
五十狭茅 |
慕容 仁 |
日本生まれ 在位 313年ー336年 |
父 崇神天皇 皇后 狭穂媛(神武末裔丹波道主の娘) |
316年 丹波道主の子 狭穂彦と狭穂媛が慕容皝に殺される 336年 兄の慕容皝に殺される 纒向に都 殉死を禁止。 |
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12 |
大足彦忍代別 318年生まれ |
足彦 |
慕容 儁 前燕の王 |
ヤマトタケル=誉津別と同一人物 身長182cm 但馬で成長 |
父 垂仁天皇(慕容皝 )母 狭穂媛 次男 仲哀天皇 四男 成務天皇 |
347年日本から遼東へ帰国。352年中国全土の皇帝を自称。 349年 燕国国王即位 359年病没 |
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13 |
若帯日子 |
逸道仁 |
近仇首王 慕容氏 |
と同一人物 |
父 景行天皇 |
神功388年没 360年百済帰国。 375年百済王即位。 384年百済の南西栄山江流域で没 |
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14 |
帯中日子 |
橿杵 |
慕容暐 |
成務天皇の兄
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父 景行天皇 皇后 神功皇后 妃 大中姫命 弟媛 子 忍熊皇子 |
347年即位 372年東普へ送使 375年没 |
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15 |
誉 田 別 |
秦国 苻洛王 幽州刺史 |
五湖十六国出身 百済枕流王と同一 |
皇后 仲姫命 子 菟道稚郎子 |
385年神功と近畿の忍熊皇子を打倒390年宇治で即位 404年広開土王との戦闘で敗死。 |
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16 |
大鷦鷯尊 |
大鷦鷯 |
広開土王 北魏 安同 北魏広武将軍
慕容 佐
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パルチア国(安息国)国王安氏と慕容氏の混血 エフタル 倭王 讃 |
父 応仁天皇 皇后1葛城氏の娘
皇后2応仁天皇の娘 八田皇女 子 大草香皇子 墨江仲皇子 |
413年宋に送使、倭王の認知。 416年から淡路島 419年難波に大隅宮。鷹狩り。 421年宋建国祝賀使を送る 427年高句麗高連王に淡路島で敗死する |
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17 |
大兄去来穂別天皇 |
去来穂別 |
腆支王 余映 |
匈奴・劉氏系 蘇我満智登場 |
父 応神系 子 市辺押磐皇子 |
在位 429年-432年 北九州に基盤。 東普から倭王に任命 |
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18 |
多遅比瑞歯別尊 |
瑞歯別 |
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倭王 珍 淡路島生まれ |
父 仁徳天皇 河内の丹比に都 |
在位 432年-438年 437年宋は安東将軍と倭国王を認知 |
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19 |
雄朝津間稚子宿禰尊 |
稚子 |
新羅王 衲祇麻立干 |
倭王 済 |
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443年 宋から倭王済として認知 453年以降新羅に亡命、慶州に住む 458年安康天皇に殺される |
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20 |
穴穂尊 |
穴 穂 |
安興王 姓が安 名が興 |
倭王 興 慕容氏 (黒龍で表す) 在位456年ー463年 |
父 仁徳天皇 皇后 履中天皇の娘 妃 開化天皇の娘(大草香妃連れ子眉輪王) |
455年百済王余比殺害 456年北九州から瀬戸内海支配していた市辺押磐王を殺害 462年宋から認知 王城石上穴穂宮 463年眉輪王に仇殺される |
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21 |
大泊瀬幼武尊 |
若建 |
北燕馮氏末裔 昆支 倭王 武 |
兄 安康天皇 皇后仁徳天皇の娘 草香幡皇女 子 百済王 牟大 |
蘇我満智一族を伴う |
在位 461年-478年 477年宋に送使。 478年新羅戦で戦死。 |
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22 |
白髪大倭根子命 |
白 髪 |
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雄略天皇の三男 母 葛城韓媛 |
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在位480年-484年 |
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23 |
袁祁之石巣別命 |
来目稚子 |
匈奴末裔 |
市邊弘計 |
祖父 履中天皇 父 倭王 市邊押磐 |
在位485年-487年 |
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24 |
億計天皇 |
大脚 大為 |
匈奴末裔 |
市邊億計 別名紀生磐宿禰 |
祖父 履中天皇 父 市邊押磐王 子 手白香皇女 |
在位488年-501年
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25 |
小泊瀬稚鷦鷯尊 |
稚鷦鷯 |
東城王 |
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父 雄略天皇 |
在位502年-506年 |
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26 |
継體天皇 |
男大迹王 |
男 大 迹 |
盤陀国出身 葛城氏 新羅王 智澄麻立干 |
エフタル民族 朱智神社は倭王定着記念の神社 王城 山背 |
在位515年-531年 495年中国東北部から福井に上陸。武寧王と連合。大伴金村が即位協力 508年北魏に多婆那国として送使。 |
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27 |
広国押武金日天皇 |
勾 |
安蔵王 |
仁徳天皇子孫 |
継體天皇一族を滅ぼして即位 531年没 |
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28 |
武小広国押盾天皇 |
檜隈高田 |
真興王 |
父 継体天皇 皇后 橘仲皇女 兄 欽明天皇 |
王城 檜隈 (明日香村) |
536年即位 540年新羅へ亡命 大臣蘇我稲目の後援 576年没 |
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29 |
天国排開広庭天皇 |
斯帰 |
聖王 |
エフタル系 百済在住 父 継体天皇 |
皇后 宣化天皇娘石姫 |
南朝 梁の承認 540年即位 554年新羅で戦死 和風諡に天がつくのは天孫族。 秦大津父(河勝祖先)の援助。 |
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30 |
渟中倉太珠敷尊 |
他 田 |
威徳王 |
安岡上王 高余昌と同一人物 |
養父 欽明天皇 皇后 推古(欽明天皇の娘) 子 竹田皇子 |
在位571年-577年 西突厥に対新羅戦軍事後援を頼み、近江まで飾船で出迎え供応。蘇我物部勢力に追われて倭国を去り百済へ。554年欽明天皇を裏切り暗殺 |
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31 |
橘豊日命 |
池 辺 |
恵王 |
父 欽明天皇 母 堅塩媛(蘇我稲目の娘) |
皇后 推古 内政は馬子が握る |
587年4月即位4月病没 |
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32 |
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穴 穂 部 |
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587年新潟上陸。物部氏と結ぶ。 |
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33 |
長谷部若雀 |
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威徳王がバック |
父 欽明天皇 母 蘇我小姉君 |
子 蜂子皇子 |
在位588-592年 藤ノ木古墳被葬者 達頭の意向で東漢直駒が暗殺。 |
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34 |
達頭大可汗 (歩迦可汗) 姓 阿史那 名 玷厥
宰相
599年 百済法王 王興寺建立
豊総耳 法王大王
多利思比孤
追悼寺 広隆寺 550年出生 |
厩戸 皇子 |
父方エフタル
母 鮮卑鉄勒 赤髪に緑目
武器商人ユダヤ人景教徒、忠臣秦河勝の元で山城で15歳まで成長。
「書紀」推古21年条と鎌倉時代「帝王編年記」に尸解伝説。 |
皇后2 西突厥・室点蜜(シルジブロス)可汗の娘 子 莫賀咄可汗 孫 射匱可汗 統葉護可汗 泥利可汗 曽孫 賀魯
妃 サマルカンド王族 妃 高句麗嬰曜王 側室
皇后3 推古
妃 刀自古郎女 橘大郎女 膳氏娘
子 山背大兄王
|
皇后1
子 ヤズドガルド3世
孫 ペーローズ3世 (卑路斯)
卑路斯皇后 舎衛国 王女
卑路斯妃 堕羅国王女
曽孫 山辺姫王
曾孫 元正天皇 |
575年新羅の攻撃に西突厥軍を連れて明石に上陸、撃退。ササン朝ペルシャ皇帝ホルムズド4世に仕え勇名を馳せた。 576年新羅攻撃 580年ササン朝ペルシア・シャフリバザール将軍としてホスロー2世を補佐。 590年室点蜜可汗の女婿として突厥可汗達頭になる。娘をサマルカンド王に嫁がせる。高句麗嬰曜王の側室を娶る。 598年ローマ帝国マリウス皇帝に七か国の王として書簡を送る。 599年高句麗嬰陽王にホスロー2世の娘である妻を贈る。 600年淡路島経由明石浦に帰国 601年播磨に斑鳩寺建立 604年即位 605年斑鳩宮が大和に完成 斑鳩寺に石の地球儀。 607年隋が多利思比孤王を承認。 622年大津、琵琶湖経由中国東北部から北方草原の道を通り、ササン朝ペルシア宮廷に戻る。 628年ホスロー二世を殺した嫡男カワード二世を殺す。 632年ヤズドガルド3世即位 636年アラヴ軍により首都陥落、ヤズドガルド3世はブハラにペーローズ3世はクンドゥスに逃れた。 641年ヤズドガルド3世アラヴ軍に殺される。 |
|
35 |
山背 大兄王 |
山背大兄皇子 即位していた |
山 背 |
山羊のような斑の髪 |
郎女 |
皇后 舂米女王 子 難波麻呂古王 |
在位630年-644年10月 王宮は斑鳩宮 唐の認知 |
36 |
古人 大兄王 |
古人大兄皇子 即位していた |
古人 |
|
父舒明天皇 母 蘇我法提郎女 |
子 倭姫王 (天智天皇皇后) |
在位645年1-6月 645年11月天智、天武、鎌足 腹心が古人一族殺害 |
37 |
息長足日広額天皇 576年頃生まれ |
田村 |
百済武王 皇后2 新羅真平王娘善花 子 夫余隆 |
父 聖徳太子 |
皇后1 斉明天皇 妃 蘇我馬子娘 子 古人大兄皇子 |
641年孝徳天皇に暗殺される 百済の大殯をした |
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38 |
天万豊日 600年生まれ |
軽 |
倭王孝徳 |
父 聖徳太子 母 ホスロー2世娘 姉 斉明天皇 |
皇后 間人皇女 義兄 高向玄理 子 有間皇子 |
在位645年-649年大化朝 義慈王 650-654年白雉朝 息子の孝が統治 |
|
39 |
斉明 |
天豊財重日 足姫天皇
|
宝 |
ササン朝ペルシア王家末裔 |
父 聖徳太子
母ホスロー2世娘
甥ペーローズ3世 |
配偶者1 高向玄理
配偶者2 舒明天皇 (百済 武王) 子 天智天皇 子 間人皇女 |
唐の承認 在位654年-661年 643年 百済から済州島に流され天智天皇と倭国に亡命してくる。 654年ペルシャ滅亡後ペーローズが妻と娘を連れ奄美大島に3年滞在。657年大和に迎えられ660年妻子を人質に置いて唐へ亡命。 660年百済滅亡 |
40 |
間人 |
間人皇女 即位していた |
間 人 |
別名 |
父 舒明天皇 母 斉明天皇 兄 天智天皇 |
配偶者 孝徳天皇 子 有間皇子 |
664年 間人天皇即位 |
41 |
天智 |
天命開別天皇
625年生まれ |
葛城 |
翹岐皇子 (百済武王の太子) 百済で出生成長 |
父 舒明天皇 母 斉明天皇 皇后 倭姫王(古人天皇皇女) |
妃 石川麻呂の娘 子 大友皇子 高市皇子 川嶋皇子 鸕野讃良皇女 妹 間人天皇 |
643年15歳頃義慈王に済州島に追放され、百済から倭国に亡命。。662年白村江の戦い 唐の承認 668年1月即位 668年高句麗滅亡 670年6月幽閉 |
42 |
大友 |
|
父 天智天皇 母 伊賀宅子娘 |
671年即位 672年壬申の乱で没 |
|||
43 |
天渟中原瀛真人天皇
622年生まれ |
大海人 |
高句麗将軍 泉蓋蘇文
莫離支 高任武
子 泉男生 |
父 聖徳太子 皇后鸕野讃良皇女 妃 大田皇女 鎌足娘、宗像氏娘 嬪 額田媛王 鏡媛王 |
穂積皇子 長皇子 |
在位 673年-682年 新羅、西突厥、亀茲、吐蕃、回鶻と連合して唐を西から挟み撃ちする。 644年6月蓋蘇文来日 682年琵琶湖を通り大陸へ亡命途上、唐の軍隊に暗殺される。 高松塚古墳被葬者 |
|
44 |
大津 |
即位していた |
大津 |
父 天武天皇 母 大田皇女 |
皇后 山辺姫王 (ペーローズ3世娘) |
唐の承認 在位683年2月-686年10月 |
|
45 |
藤原宮御宇倭根子天皇
|
諡に姫がつかず、女性ではない。 |
父 天智天皇 皇后 明日香皇女 |
子 長屋王 鈴鹿王 |
唐の承認 在位690年-696年7月 |
||
46 |
天之眞宗豊祖父天皇 |
珂瑠 |
文武王 |
祖父聖徳太子 父天武天皇 母 鏡姫王 |
皇后 鸕野皇女 妃 藤原宮子 子 聖武天皇 |
在位697年8月-707年6月
715年文武王 唐に降伏 |
|
47 |
日本根子天津御代豊国成姫天皇 |
阿閇 |
|
父天智天皇 母 蘇我姪娘 |
配偶者草壁皇子 子 聖武天皇 |
在位707年7月-715年9月 |
|
48 |
日本根子高瑞浄足姫天皇 |
氷高 |
|
祖父天武天皇 父 草壁皇子 |
妹 吉備内親王 |
715年9月即位 724年2月譲位 |
|
49 |
首 |
渤海高斉徳 文武王の子 |
父文武天皇 母元明天皇 弟弓削道鏡 |
子 安積親王 安倍内親王 |
|||
50 |
倭根子天皇 |
安倍 |
|
父聖武天皇 母 光明皇后 |
|
在位749年7月-758年8月 |
|
51 |
大炊 |
|
父 舎人親王 母 当麻山背 |
|
在位758年8月-764年10月 |
||
52 |
高野姫尊
|
安倍 |
父 聖武天皇 母 光明皇后 |
側近 弓削道鏡 (新羅考成王であり 文武天皇の子) |
在位764年10月-770年 |
||
53 |
天宗高紹 |
白壁 |
百済王 女天 |
父 志貴皇子 母 紀橡姫 |
子 他戸皇子 |
在位770年10月-777年11月 |
|
54 |
天國押撥御宇柏原天皇 |
山部 |
新羅待中 金良相と 新羅宣徳王 の同一人物 |
父光仁天皇 母 高野新笠(天高知日之子姫尊) 皇后 藤原乙牟漏 夫人 藤原旅子、藤原吉子ほか |
子 安殿親王 嵯峨親王 淳和親王 |
渤海使節に託して黄金を徳宗に献上する為僧永中に託したが、渤海が横領。唐徳宗の承認得られず。 在位785年-805年1月 鷹狩りが得意、住居の南殿で鷹を飼い自ら爪を切り嘴を直す。殺牛の祭りをしたが後に禁止。山部王時代、胆沢城あたりで実戦経験。安殿親王が外征中に阿弖流為を処刑し、安殿の軍事力を断つ。 |
|
55 |
日本根子 天推国高彦尊 |
安殿 |
憲徳王
奥州生まれ 平壌育ち。
空海と同年一生の信頼関係 |
父 桓武天皇 母 阿弖流為一族
年号は大同
平城は北魏の都で現在の大同市
|
皇后 大宅内親王 (桓武天皇皇女)
妃 藤原帯子
子 高岳親王 子 阿保親王 |
皇太子時代、唐徳宗を助ける為新羅彦昇として対吐蕃戦参戦、798-802年空海を従軍外交官僧侶として中国大陸に5年帯同、戦勝する。 805年5月即位809年5月譲位 伊予親王の唐使上京妨害で憲宗に誤解を与え譲位後、真相を知った憲宗の決断で、811年文室綿麻呂他が護衛し、新羅へ亡命し新羅王に即位。 のちに内乱で暗殺された。 |
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56 |
冷泉院
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神野 |
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父桓武天皇 母藤原乙牟漏 皇后橘嘉智子 |
子 仁明天皇 正子内親王 |
809年4月即位 823年4月譲位 唐の憲宗未承認。唐、渤海、新羅を敵に回した結果、唐皇帝の信頼厚い空海が調停。空海に高野山を喜捨。 譲位の年、空海が灌頂。 |
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57 |
日本根子天高譲弥遠尊 |
大伴 |
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父 桓武天皇 母 藤原旅子 皇后 正子内親王 高志内親王 |
子 恒世親王 基貞親王 |
唐 文宗未承認 823年4月即位833年2月譲位 |
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58 |
正良 |
父 嵯峨天皇 母 橘嘉智子 |
女御藤原順子 沢子、貞子 更衣 藤原紀種子 |
子 文徳天皇 眞子内親王ほか |
在位833年-850年 |
突厥可汗が、銙帯(かたい)金・瑪瑙・硬玉製 長さ125㎝ 6世紀 国立慶州博物館蔵
というベルト状のものを身につけていた。魚も付いています。
透かしの沓のつま先に龍がいます。
新羅の古墳出土品は日本のと似ています。
正倉院御物
斑鳩寺にある地球儀 アフリカには食人国と書かれている。西突厥製?
斑鳩寺にある地球儀は、この写真とよく似ています。ガラスとトルコ石製のようです。
法隆寺御物の竜首水瓶の天馬
四天王紋錦の拡大図
法隆寺の救世観音像にある三日月に丸の印が、四天王錦と共通する。
私が似ていると思った東魏の仏像。救世観音像より50年ほど前だろうか。
法隆寺金堂の天蓋をカラーで見たら、飾りの部分は天女でした。
拡大してみると、屋根の下に、黄金色の動物がいます。この動物は一体何でしょうね?法隆寺のサイトによると、鳳凰らしいです。
小林惠子著「聖徳太子の正体」p120
法隆寺夢殿の中に救世観音が秘仏としてしまわれていた。夢殿はパオでは。
法隆寺資材帳にある白檀二本に、ソグド語とササン朝ペルシア文字のパフラヴィー語が刻まれていた。178cmの救世観音は、聖徳太子をモデルにしている。手に持つ宝珠が火炎状で、八角形の神殿の中で聖火を燃やす拝火教の神殿に似ていると井本英一著書「八角表象の表すもの」に書かれている。
生前は、中にダブルベッドサイズの寝具が置かれていた。太子は牛乳を常用していた。
鷹狩が得意で、自ら鷹の爪も切った桓武天皇。秋篠宮殿下は動物、海の生き物、植物にお詳しく、全日本愛瓢会会長もされていますね。