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中国ドラマ「尚食」

中国時代ドラマにお金がかかっていても元が取れるのは、世界中に輸出できるからなのでしょうね。字幕もアラビア語インドネシア語の動画が上がっています。

清朝のドラマは、悲劇が多い気がします。拷問シーンもよくあるし、実際史実もそうだったらしくもあり、この時代のドラマは避けて、違うタイプのはないのかなと思っていました。

あれこれ動画を見ていたら出てきたのが、女性でありながら科挙に合格して役人になったドラマ「灼灼风流 The Legend of Zhuohua」と「国子監来了個女弟子 国子監は花ざかり」。皇帝2人に愛された女性でありながら、鍼灸医になったドラマ「女医明妃伝」。それから漢方の知識が豊富な女性が皇后になった明朝のドラマ「尚食」は映像が美しく、衣装の色彩が上品で素敵。料理の場面も魅入ります。朱瞻基(のちの宣徳帝)と孫皇后になった姚子衿のお話。主役の二人の役が、冷静な人格なので、落ち着いて見られます。

wikiで宣徳帝を見たら、聡明で戦いも得意、絵も得意だったそうですが、早逝しているのですね。在位1年で崩御した父と違って、病弱だったわけでもないのに30代で崩御とは、毒でも盛られたのでしょうか。26歳で皇帝に即位、10年で崩御。演じている許カイという俳優さんも20代で、イメージが合っていますね。35歳で崩御したから、相思相愛の孫皇后が産んだ一人息子が即位したのは7歳だったんですねえ。このドラマの頃、日本だと足利将軍の時代というのが不思議な感覚です。ドラマでは厨房から上り詰めたように見えますが、wikiで孫皇后を読むと、そうではなさそうです。二人とも1399年3月生まれの同じ年でした。

驚いたのが、宣徳帝の祖父永楽帝崩御後、殉死させられた妃の多さです。妃で4人、官女合わせて30人だとか。刑死も3人。自殺も2人。永楽帝wikiで読むと、過激な人生だったことがわかりました。父の洪熙帝の崩御では殉死の妃は5人。清朝でも妃の殉死があったようなので、日本では埴輪時代に殉死は終わったと思っていたので、かなり驚きでした。

日本でも徳川家の薬草園があったとか。見に行ったことはないのですが。中国の場合、薬草、漢方は古代から広く使われていたのでしょうか。皇帝が若くして毒殺されたり、皇后、妃も例外でなく、食べ物、飲み物、香、煙に仕込むなど、多用されたっぽいですね。

 

宣徳帝 出生1399年3月16日

朱高熾(後の洪熙帝)の長男として生まれる。父の朱高熾は病弱であったため、祖父の永楽帝廃太子を検討したこともあったが、朱瞻基が英明であったため廃太子を行わなかったと史書に記載されている。また永楽帝の親征にも随行して、祖父に対して助言を行っていた。

洪熙元年(1425年)、洪熙帝が在位わずか1年で崩御、朱瞻基が皇帝に即位することとなった(宣徳帝)。しかし即位に反対する叔父の漢王朱高煦による反乱が発生した。朱高煦は戦場では永楽帝譲りの才覚を発揮した人物で、一時は立太子を検討されたこともあったが、暴虐無礼であることを理由に見送られていた。

即位直後の青年皇帝に対する叔父の反乱は、建文帝を燕王朱棣(永楽帝)が簒奪した靖難の変を思い起こさせるものであった。燕王軍として靖難の変に参加し、漢王に封じられた朱高煦は、今度は自らが武力で皇帝の位を奪おうとしたのである。しかし、迅速で有効な対応ができなかった建文帝と異なり、宣徳帝は反乱に果断に対処し、臣下の親征上奏にも即座に応え、この反乱を鎮圧した。捕らえられた朱高煦は監禁されたが、後に宣徳帝と謁見した際、宣徳帝を蹴倒すという事件を起こしている。激怒した宣徳帝は朱高煦を巨大な銅壷の中に閉じ込め、周囲に炭火を積み上げて焼き殺した。宣徳帝の果断な行動は、祖父や曾祖父譲りの残虐性に裏打ちされていたと考えられている。

この漢王の反乱以降、宣徳帝は皇族たちへの監視体制を強化し、丞相も廃止して、皇帝の独裁体制を確立した。そのために宣徳帝は内閣大学士、中でも楊栄楊士奇楊溥の(三楊と称される)3人を重用している。また宦官の政治介入を未然に防止するために洪武帝が禁じた宦官の学問を許し、宦官を対象とした学問所である内書堂を設立した。さらに、皇帝の秘書である太監の権限を強化している。

独裁体制を確立した宣徳帝は内政に努め、また経営が困難となっていた不毛の満洲地区を放棄、また大越からの撤兵を決定した。その一方で鄭和による南方航海を再開している。これは版図の単純な縮小を意味するものではなく、永楽年間に膨張した領土を取捨選択して、国内の行政制度を整備することを目的とした政策と考えられている。

宣徳10年(1435年)に崩御。病弱であった父帝より10歳以上も早く世を去った。宣徳帝の治世は洪熙帝と並んで永楽帝以後の休養期にあたっており、仁宣の治と呼ばれている。これが明の全盛期であったという評価が、後世の史家たちの一般的な意見である。それを裏付けるように、磁器の品質に於いても、万暦年間より宣徳年間の物の評価が高い。

 

孫皇后 出生 1399年3月13日 済南府鄒平県

永城従九品主簿の孫愚と董氏の娘。知的で容姿も美しかった。永楽8年(1410年)9歳の時、太子妃張氏(後の誠孝皇后)の母の薦めで、太子(後の洪熙帝)の邸に入り、朱瞻基(後の宣徳帝)を見初め、互いに慕い合った。しかし永楽15年(1417年)、胡善祥永楽帝に召されて朱瞻基の正室となり、孫氏は16歳で嬪(側室)となった。朱瞻基は孫氏を寵愛して、胡善祥をあまり寵愛しなかった。

洪熙帝が即位すると皇太子嬪に立てられ、宣徳帝が即位すると貴妃に立てられた。宣徳3年(1428年)、男子の朱祁鎮(英宗)を産んだ。胡善祥は病の上に男子がないという理由で廃され清寧宮に移されて、代わって孫氏が皇后に立てられた。孫愚は孫忠と改名して、会昌伯に封じられた。

宣徳10年(1435年)英宗が即位すると、皇太后となった。正統14年(1449年)英宗が土木の変で捕虜になると、景泰帝を擁立し、上聖皇太后と改称された。景泰8年(1457年)大議を裁決して、幽閉されていた英宗を立てて復辟させた。 天順6年(1462年)崩じた。孝恭懿憲慈仁荘烈斉天配聖章皇后とされた。

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黄金にトルコ石を嵌め込んだお皿、すごいですね。

寒い時は毛皮の襟巻きと上着を着たのですね。

上着やスカートの刺繍が美しい。

このドラマは昔の絵画を忠実に再現した衣装を製作したことで有名なのだそうです。髪飾り、衣装の染め方、刺繍など。製作費の7割が衣装代だとか。

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中国語の字幕と音声なら、1から40まで全部動画が見られるので、今見ています。

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エピソード12は、ヒロインの琴と未来の皇帝の笛のデュエットが素敵です。

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皇帝と皇后に料理も聡明さも気に入られ、太子嬪となったヒロイン。お風呂が朱塗り。ドラマでは厨房で宮中入りしていたことになっていますが、史実では家柄も良くて、10代から宮中入りしていたんですね。当時から相思相愛だったとか。

この明朝の女性の、帯のような飾り、日本にはないですね。女性は着物の下に、ハイネックのブラウスのようなものを着ていたのも面白い。

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皇帝が崩御したら、遺族の衣装は白だったのですね。

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貴妃となったヒロイン。

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