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平伏のお辞儀の起源

今年もあと2日となりました。読んで下さった皆様、ありがとうございました。

 

以前から気になっていたのが、平伏のお辞儀の習慣。中国の歴史は8割が遊牧騎馬民族が支配して、皇帝になってから漢字の名前に変えるから、漢民族に見えますが、実際は戦争に長けた北からの民族が平原を支配したわけだから、平伏のお辞儀はそこからきているのではないのかと思っています。明朝ドラマでも、正座のような形で、両腕を水平にしたまま、地面にまで腕をつける平伏のお辞儀が何度も出てきます。日本だと、両手をハの字にして、正座から深く平伏しますね。ルーツはどちらも、遊牧騎馬民族の可汗に挨拶する形から来ているのでは?と思います。日本なら畳だけど、靴を部屋の中で履いたままの中国で、平伏の習慣が長く残ったのは面白いです。

もう1つ中国時代ドラマを見ていて謎なのが、皇帝は朝まで妃の部屋にいなかったのかしらということです。特に清朝は、朝までいなかったのかも知れません。清朝では、まるでデリバリーサービスのように、夜伽の女性を下着だけで赤い布団に包んで、皇帝の部屋まで届けたのだとか。女性の部屋から皇帝の部屋まで、1時間とかかかる場合、かなり寒かったのではと。かついで荷物のように運ばれたらしいですね。

明朝5代皇帝宣徳帝が、孫皇后との間に1男1女しかないのも少ないと思いましたが、子孫の10代弘治帝も、皇后だけで妃を取らなかった珍しい皇帝なんですね。そして宣徳帝と同じく30代で崩御しています。賢帝と言われた5代と10代皇帝が30代で崩御し、皇太子をしっかり養育する時間もなく、次の皇帝が幼くて賢帝とは言い難くて、国が傾いていったように見えます。

矢作直樹教授が、並木良和さんとの共著で、歴史で習うことの8割は嘘と話されていました。確かに勝者が真の歴史書を燃やしたり、歴史を書き換えてしまった史実は指摘されています。宮内庁書陵部に残された文書も、偽造されていたものがあると顕微鏡で撮った写真を見た時は驚きました。内倉武久氏の本で読んだと思います。和紙って鋭い刀で切って、また別の紙と繋ぎ合わせることができるのですね。その接ぎ合わせは、理科の最新の顕微鏡でなければ見えないほど精巧にできていたとのこと。

呉王姫氏が昔一族と亡命してきて、呉服の起源になったり、漢字の呉音読みが残されたとか。楊貴妃も、処刑を逃れて日本に逃げてきて、日本で亡くなったと何かの動画で見ました。唐の時代の琵琶を入れる絹の錦織の袋を復元された龍村さんの著書で、色が中国皇帝しか使ってはいけない色が使われているから、皇帝から賜ったものだろうと読んだことがあります。楊貴妃を引き取ってもらった御礼だったのかも?鬼塚英昭著の本で、明の最後の王女、朱貞明が香港から日本の武士に守られて来日して、大正天皇の皇后になったと書かれていたのですが、もちろん真偽は不明です。題名は忘れてしまいました。愛親覚羅家も、昭和時代に多くが台湾、香港、日本に移住しているのですね。京大博士で教授になった愛親覚羅ウルヒチュン女史の本では、溥儀は本家出身ではないと書かれていました。密教真言宗大阿闍梨織田隆弘師の自伝では、10代で高野山で修行中、愛親覚羅溥儀の従兄弟も修行に来ていて、満洲にお寺を建てるから住職にならないか、と誘われたと書かれていました。行っていたら、生きて戻っては来れなかっただろう、と。

逆に日本からは、隋の皇帝から唐の皇帝に変わってから、聖徳太子天皇として認めなくなり、聖徳太子が船で朝鮮より北の大陸に上陸して、草原の道を通ってササン朝ペルシャに戻ったと小林惠子女史の著書に書かれています。義経も大陸に亡命して、チンギスハーンになったという話があります。聖徳太子は80代までは生きた長生きの人だったらしいのですね。だから明の皇帝達の短命は、意外でした。

弘治帝

生母の淑妃紀氏広西省少数民族ヤオ族の土司のむすめで、反乱鎮圧で全家族を誅殺され捕虜となり、宮人として献上された。父成化帝の寵妃万貴妃は嫉妬深い女性であり、自身以外の妃が妊娠した胎児をことごとく堕胎していたが、弘治帝は宦官により密かに育てられ成人した。皇太子時代、危うく廃されそうになったことが幾度と無くあって、最後は泰山地震に恐れおののいた父帝が思いとどまった。

即位した弘治帝が初めに行ったことは、成化帝が重用し、朝政に何ら貢献することなく高禄を与えられていた道士、僧の追放である。その首魁であった李孜省僧継暁は投獄、後に死罪とした。

弘治帝は賢臣を登用し、専売法の見直し、宦官・道士・僧の綱紀粛正、北のダヤン・ハーンに対する防衛体制の強化などの政策を実施、弛緩していた明朝の国勢を立て直した。一時期、不老長寿を説く宦官を信任したこともあったが、まもなくその害に気付き粛清し、再び政務に励み、後世の史家より中興の祖と称されている。

弘治18年(1505年)に36歳で崩御した。偶々侵された風寒を太医が処方をあやまり、虎狼の薬を用いてしまい鼻血がとまらずそのまま危篤に陥ったという(太医は処刑されなかった)。大臣に一人っ子の東宮の面倒を託し、泰陵(明の十三陵の一つ)に、ただ一人の后妃張皇后とともに合葬された。

 

一人息子の正徳帝は、即位直後からチベット仏教に傾倒し、「豹房」と呼ばれる建築物を宮中に設置、歌舞音曲を演奏し、チベット仏教経典を読経し耽色した生活を送っていた。