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「アイヌと縄文」

アイヌと縄文」瀬川拓郎著 ちくま新書 2016

 

 

遣隋使と遣唐使と清国しか習った記憶のない中国の王朝ですが、遼という契丹時代に、根来寺と武器のやりとりがあったことや、遼国に使者を送っていたことが、遼の記録には残っていることを知りました。ですから、この本で、アイヌと元の間で交易があったり、人の行き来があったことは少しも不思議ではありません。日本の中枢は知っていても、正史には他国との貿易があったことは極力書かなかったようです。日宋貿易朱印船、密貿易、海に囲まれた日本ですから、貿易は盛んだったはずですね。黒潮など海に詳しい種族が古代からいて、代々、海運業で食べていたようです。安曇氏、安東氏など。ソグドの安が苗字につきますね。

辺境の地に住むアイヌ、というイメージを覆します。神社によく似た棺、モガリの習慣、ミイラ作り、ホータンあたりから渡ってきたガラス玉。中国王朝の土城をアイヌが訪問していたとは驚きです。

 

p157 「元史」「元文類」によれば、アイヌが中国の王朝と最初に接触したのは13世紀です。当時元(モンゴル)はアムール川下流域に勢力を伸ばし、流刑囚や先住民どの管理のため東征元師府という拠点を河口近くに置きました。元は、海を渡ってサハリンに侵入してくるクイという人々を排除するため派兵し、両者の戦いは40年にも及びました。アイヌと元との戦いのきっかけは、サハリンに住む吉里迷(ギレミ)という人々が、クイのサハリン侵入を元に訴えたことにあります。このギレミは現在サハリン北部を中心に暮らしている先住民ニヴフのことであり、古代オホーツク人の末裔と考えられている人々です。かつてはギリヤークと呼ばれていました。アイヌニヴフの鷲、鷹を捕獲、飼育する者を捕虜にしました。アイヌニヴフから鷹を奪い取ることは、元に反旗を翻すことを意味していました。

 

p158 元の前の金もアムール川下流域にヌルガン城という拠点を設置していました。アイヌ金王朝の間にも、関係があったかもしれません。元のあとの明も、アムール川下流域にヌルガン都司を設けました。そこでアイヌを含む周辺住民と朝貢交易を行いました。

 

p159 1449年の土木の変(明の正統帝がモンゴル族の部隊と戦って敗北、捕虜となった事件)によって北東アジアにおける明の影響力は急速に失われていきます。そのことが、中継交易のアイヌの地位を失わせ、和人の北海道進出をもたらす要因になったという説もあります。

 

p170 白主土城は、元が北海道から渡海してくるアイヌを排除し、あるいは彼らを交易によって慰撫するため、サハリンの南端に設けた砦・交易所と考えられています。金も元と同様、アムール川下流域にヌルガン城という辺境支配の拠点を設けていました。

 

p174 1809年間宮林蔵「北夷分界余話」には、アイヌの首長が死ぬと内臓を抜いて家の外の台に安置し、女が日々これを拭き清め腐らないようにする。このミイラにすることを「ウフイ」という。棺を作るのに1年かかる。1年経って遺体が腐っていなければ、女を賞めて服・酒・タバコを与える。もし腐敗していれば女を殺して先に葬り、その後ミイラを葬る。

 

p175 1869年の英国軍艦による調査報告でも同様に描かれている。(「ジェー・オードリスコルの樺太に関する報告」)

 

p187 1853年にアムール川流域を調査したR・K・マークは、先住民ゴリドの墓地にあった家形の記録を残しています。ゴリドとは、アムール川中流からウスリー川一帯にかけて住んでいるナーナイという民族です。念入りに文様が彫刻された千木のような角があり、サハリンアイヌの棺と大変よく似ています。ニヴフも同じような家形を墓地に安置していました。

これは墓の上に家形をおく日本の習俗とよく似ています。ニヴフはこの家形を3、4年経つと捨ててしまったと言いますが、日本も四十九日や1年、3年から5年経つと処分するので、共通しています。

 

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p212 アイヌと北東アジア先住民の間では、直接相手に接触することなく物々交換を行う、沈黙交易と呼ばれる習俗がみられました。

交換したいと思う品物を海辺や山中などの境界においておく。その場を離れると交易相手がやってくる。相手がこれに見あう品物を置いて立ち去ると、再びやってきて交換品を持ち去る、というものです。沈黙交易の背景に、異民族との直接的な物々交換に対する忌避の意識があったのは間違いありません。彼らの中では、平等原則を突き崩す商品交換というウイルスが強く恐れられていたのです。


p221 北海道大雪山の小泉岳付近、標高2100メートル地点で採集された数十点の縄文時代の石器です。1924年から26年にかけて採集されたその石器は、数千年の間風雨にさらされて表面が白く風化しています。

 

p222 山頂の石器は、大雪山以外にも栃木県男体山八ヶ岳蓼科山ほか、枚挙にいとまがありません。

 

p223 江戸時代の北海道をくまなく調査した松浦武四郎は、「近世蝦夷人物誌」に、山中を住処としながら、広大な北海道を漂泊するアイヌの姿が記録されています。

上川盆地に住むイキツカは、幼少から山岳を駆け回り、大雪山系を住み家としながら、十勝、オホーツク海側の常呂日本海側の天塩まで猟に歩き、15、6歳になれば山刀と発火具だけを手に、3年山から帰らなかったと言います。

上川盆地のヲテコマは、山中にこもって春は熊、鹿、狐、テンを捕え、夏から秋には鮭、マスを食糧とし、6年里に帰らなかったといいます。

彼らが山中にこもった背景には、和人のサケ漁場で労働者として徴用されるのを嫌ったこと、漁場の監督の非人道的な取り扱いに対する抵抗もありました。

 

p224 秋田のマタギは、里を通らず山だけを伝って大和地方まで往来することができました。聞き取った民俗学者の常本常一は、日本列島には「私たちの知らぬところに、私たちとは別の世界が存在」してきたのではないか、と述べています。