好きなもの、心惹かれるもの

本、音楽、陶器、織物、手芸品をご紹介します。

慶長遺欧使節

こちらも帰国後、キリシタン迫害が真っ盛りで、悲しい顛末になったのでした。少年使節に比べて、支倉常長は武士ですし、かなり本格的な外交任務を遂行したと思います。スペイン国王、ローマ法王との謁見以外にも、メキシコにも行っています。伊達政宗の指示で動いたように見えますが、当然家康の許可も取っていたのでは。商人達も同船していたと、本で読みました。しかし、この旅の費用は誰が支払ったのでしょうか?イエズス会でしょうか?

ローマ・クイリナーレ宮殿の王の間にある慶長遣欧使節を描いたフレスコ画アゴスティーノ・タッシ作。常長は前列左、ソテロは前列右。後列4名の日本人は、常長とともにローマ公民権を与えられた、山城の滝野加兵衛、摂津の商人・伊丹宗味、尾張の野間半兵衛、奥州の小寺外記だと考えられる。

“Philippo Francisco Faxecvra Rocvyemon” のローマ市公民権証書 仙台博物館蔵 国宝

支倉常長の西洋式の紋章は盾の中に右卍をあしらったものだった。左はローマ市民権の認定の中に描かれた紋章、中はドイツの記録に残る紋章、右は常長の船の旗。

f:id:MeinFavorit:20210906133121p:plain

 

支倉常長は、元亀二年(1571年)、桓武天皇を祖先とする桓武平氏の流れを汲む山口常成の子として羽州置賜郡長井荘立石邑(現在の山形県米沢市立石、米沢市立関小学校の周辺)に生まれる。その後、伯父支倉時正の養子となり、7歳から陸奥国柴田郡支倉村(現在の宮城県柴田郡川崎町支倉地区)に在する上楯城で長い青年期を過ごした。その後、時正に実子・久成が生まれたため、伊達政宗の主命で家禄1200を二分し、600石取りとなる。

文禄・慶長の役に従軍して朝鮮に渡海、足軽鉄砲組頭として活躍した。また葛西大崎一揆の鎮圧にあたった武将の一人としてもその名が記録されている。

慶長14年(1609年)、前フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行(サン・フランシスコ号)がヌエバ・エスパーニャ副王領(現在のメキシコ)への帰途台風に遭い、上総国岩和田村(現在の千葉県御宿町)の海岸で座礁・難破した。地元民に救助された一行に、徳川家康ウィリアム・アダムスの建造したガレオン船サン・ブエナ・ベントゥーラを贈りヌエバエスパーニャ副王領へ送還した。この事をきっかけに、日本とエスパーニャ(スペイン)との交流が始まった。

エスパーニャとの交流ができたことにより、常長の主君である伊達政宗はヨーロッパに遣欧使節を送ることを決定した。遣欧使節エスパーニャ人のフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロ (Luis Sotelo) を副使とし、常長は正使となり、180人から組織され、エスパーニャを経由してローマに赴くことになった。遣欧の目的は通商交渉とされているが、エスパーニャとの軍事同盟によって伊達政宗倒幕を行おうとした説も存在している

慶長17年(1612年)、常長は第一回目の使節としてサン・セバスチャン号でソテロとともに浦賀より出航するも、暴風に遭い座礁し遭難。再度仙台へ戻り、現在の石巻市雄勝町で建造したガレオン船サン・ファン・バウティスタ号で慶長18年9月15日1613年10月28日)に月ノ浦(現・石巻市)を出帆した。なお、短期間に洋式船を建造していることから、最初に座礁したサン・セバスチャン号を譲り受けて修理し、サン・ファン・バウティスタ号として出航させたのではないか、とする説もある

出航後、常長らの一行はエスパーニャ(現スペイン)のヌエバエスパーニャ副王領であり、北アメリカ大陸太平洋岸にあるアカプルコ(メキシコ・ゲレーロ州)へ向かった。アカプルコにおいて北アメリカ大陸に上陸を果たすと陸路で大西洋岸のベラクルス(メキシコ・ベラクルス州)に移動、ベラクルスから大西洋を渡り、サンルーカル・デ・バラメーダ(スペイン・アンダルシア州セビリア県)に到着、小型帆船に乗り換えてグアダルキビール川を遡上し、コリア・デル・リオに上陸した

 

慶長20年1月2日1615年1月30日)にはエスパーニャ国王フェリペ3世に謁見。マドリードで国王列席の下、洗礼を受けた。その後、イベリア半島から陸路でローマに至り、元和元年9月12日1615年11月3日)にはローマ教皇パウルス5世に謁見した。ローマでは市議会から市民権と貴族の位を認めた「ローマ市公民権証書」を与えられた。その後もマドリードに戻ってフェリペ3世との交渉を続けている。

しかし、エスパーニャやローマまで訪れた常長であったが、この時既に日本国内ではキリスト教の弾圧が始まっており、それが欧州に伝わりつつあった[2]こともあって通商交渉は成功することはなかった。常長は数年間のヨーロッパ滞在の後、元和6年8月24日1620年9月20日)に帰国した。

こうして遥々ローマまで往復した常長であったが、その交渉は成功せず、そればかりか帰国時には日本では既に禁教令が出されていた。そして、2年後に失意のうちに死去した。棄教したとも言われたが、遣欧使節に加わっていたルイス・ソテロ神父が1624年に九州で書いた手紙では、常長は「敬虔のうちに死去」して宣教師の保護を遺言したと記している

常長の墓といわれるものは宮城県内に3ヵ所 ( 仙台市青葉区北山にある光明寺北山五山の1つ )、川崎町支倉地区の円福寺、そして大郷町の西光寺 ) 存在する。

その後の支倉家は嫡男常頼が後を継いだが、寛永17年(1640年)、家臣がキリシタンであったことの責任を問われて処刑され断絶した。しかし寛文8年(1668年)、常頼の子の常信の代にて許され家名を再興した。その後、第10代当主の代まで宮城県黒川郡大郷町[8]、第11代から現在の第13代支倉常隆、そして第14代支倉正隆に至るまで、宮城県仙台市に居を構え続けている。また、支倉常隆は日本国内ならびに世界各国を周って先祖の常長の功績を伝え、現在はその子正隆が引き継いでいる。大正13年(1924年)、正五位を追贈された

常長らが持ち帰った『慶長遣欧使節関係資料』は仙台市博物館に所蔵されており、平成13年(2001年)に国宝に指定されている。また、2013年にはユネスコの「世界の記憶」(記憶遺産)の一つに選定された。その中には常長の肖像画があり、日本人を描いた油絵としては最古のものとされる。この絵は、上記の支倉家断絶時、聖母マリアの絵などとともに仙台藩が押収したものである[2]。また、常長自身が記録した訪欧中の日記文化9年(1812年)まで残存していたが、現在は散逸しており幻の史料となっている。なお、資料の中に「支倉」を FAXICVRA とつづった部分があり、当時ハ行を唇音で発音(ハ行転呼を参照)していた証拠となっている。