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「黒の機関 ドキュメント闇の昭和史」

森 詠著 祥伝社文庫 2008
 

人脈図4に田中清玄と笹川良一も姿を見せていて、役者は揃った印象。台湾に移ってからの蒋介石が、大掛かりに陸軍将校たちを台湾に呼び寄せて台湾義勇軍にしていた事実には驚かされた。

 

p65 辰巳が軍関係のことでGHQと連絡を取り合う特別補佐官を承知するや、ウィロビー局長に紹介され、ウィロビーの片腕の一人ブラトン大佐もそこで待っていた。辰巳とブラトン大佐は戦前からの知人であった。
ウィロビーのもう一方の片腕にプリアム大佐がおり、彼が服部卓四郎と密接にコンタクトをとっていたのである。

 

p67 河辺機関はそのごく一部、ヴェールを脱ぎ出した。辰巳中将は意外な新事実を話してくれた。「ウィロビー局長は、私に吉田茂にも秘密で機関を作れといってきたのです。」

下村定大将は、高知出身、陸大出、フランス駐在経験、ジュネーブ軍縮会議委員、後年は参議院当選。

河辺虎四郎中将は富山出身、ソ連ポーランド駐在、ソ連大使館駐在武官関東軍参謀、対ソ作戦のエキスパート、その後は航空畑に移り、ドイツ駐在武官になっている。陸軍主流のエリート中のエリート。

有末精三中将は、幼年小学校、陸士陸大卒、仙台出身、イタリア大使館付き武官、参謀本部情報部長。

辰巳栄一中将は、陸士陸大卒、英国に4回派遣。駐英大使館の駐在武官だった時の大使が吉田茂GHQ公職追放令に引っかかってはいたが、吉田茂の引きで追放されなかった。芳仲和太郎中将は愛媛出身。広島幼年学校、陸士、陸大卒。フランス駐在を皮切りに、トルコ、アメリカ、ハンガリーユーゴスラビアなどの海外生活が豊富である。

 

p69 服部機関は陸士34期以降の佐官クラスの若手参謀が中心のグループで太平洋戦争を推進した実質的な中堅指導者であった。河辺機関はもっと上級の将官クラスである。服部大佐たちにも河辺機関の存在は知らされていなかった。河辺機関は昭和23年秋頃に作られた。

 

p73 有末氏はその全貌を明らかにするのをしぶる口調だった。
初めは地方別に5ブロックに分けたが、後では重点を北海道・東北地区と、山口を中心とした中国地方の二地区に絞った。

地方にはそれぞれ担当者の下に信用の置ける軍人や中野学校出身者が集められた。本部ははじめ十条の米軍基地内にあり、その後新橋第一ホテル近くや六本木などの米軍が借りていたビルを転々と移動している。周囲には旧軍人の日本人の武装ガードマンがやはり十数人集められ、秘密保持と警備のためについたという。

 

p75 河辺機関が北海道東北と中国地方に重点を置いていたのは、明らかに朝鮮戦争と連動していたからである。北海道では千島列島や樺太からソ連の圧力が日増しに大きくなっていた。ソ連に抑留されていた日本軍が再編成され、赤軍になって北海道一帯に展開される、という幻兵団のデマも流れたものだった。そのソ連の侵入に呼応し北海道の共産分子がたちあがって、北海道を独立させるといった話であった。52年には白鳥事件が起こっている。

 

p77 仁川逆上陸作戦を訴えたのも河辺機関だったという人もいる。しかし、なんといっても河辺機関が果たした重要な役割は、日本再軍備工作であったろう。

 

p83 反東条で上海に飛ばされていた塚本誠、元憲兵大佐が中心となっていた軍事研究会。服部機関や河辺機関と軍事研究会の接点に辰巳中将がいることに注目すべきだろう。他にも日本軍再建を策する軍人グループの一つ、渡辺研究所。

 

p84 海軍は陸軍と違ってかなりまとまりがあった。前田稔中将は海兵、海軍大学組。ソ連大使館付き武官を2度、海南島特務部長、軍令部諜報の軍歴をもつ対ソ情報の専門家。南京の中国大使館付武官だったこともあり、昭和26年に内閣調査室に入り、対ソ軍備情勢の分析に携わっている。海軍軍人も、その復員業務を通して、いつでも日本海軍復活の際に呼び戻せる体制を作っていた。

 

p87 史料調査会が海軍の旧作戦参謀の集まりだったのに対し、日本海軍再建のため活動していたのが野村吉三郎海軍大将や保科善四郎海軍中将を中心にした海空技術懇談会であった。

朝鮮戦争において、資料戦略地図、作戦を提供した元海陸軍将校達、命を投げ出してスパイ活動等をした人々の見返りに、自衛隊が発足した、とも言えるかな?

そして密輸船、密輸貿易には米国も中国も絡んでいた。

 

p130 いまでは朝鮮戦争に日本人が参加したことは自明の事実とされているが、特務工作にも、かなりの日本人が極秘に参加していた事実はあまり知られていない。ウィロビーの回顧録「知られざる日本占領」にはこういうくだりがある。
「p265-266
仁川逆上陸直前のこと、ウィロビーは地下極秘作戦を開始するよう司令部からの命令を受ける。
ジャック・キャノン中佐と相談の結果、Z機関から諜報員を選び抜くことにし、満州山東半島出身の中国人3名、韓国人十名余を集めた。中国人として十分に通用する連中ばかりであった。」

 

p133 この諜報員たちの中に日本人の元特務工作員がいたのではないか?

朝鮮戦争には、旧海軍の日本人パイロットも駆り出された。その際日本人パイロットたちは、秘密の漏れるのを防ぐため、韓国名を名乗ってもらう」、と命令されている。使う言葉も英語か韓国語以外はダメと言い渡されている。

ここまで読んで閃いたのが、建国大学の卒業生のこと。
消息が分からない人が多すぎる。朝鮮戦争に駆り出されて、戦死した可能性が高いのでは?

日本語、韓国語、中国語、英語ができる上に、武道と兵士としての訓練も積んでいる。それこそキャノン機関が見逃すわけがない。中野学校以上に、建国大学は謎のベールに包まれている。優秀であったればこそ、自国を守る戦争ではない戦争で戦死する運命の渦に巻き込まれた卒業生たちが気の毒でならない。生き残った建国大学卒業生がついた仕事は、新聞記者だったという。

中国大陸では、例えば川島芳子の末の妹は1959年2月という戦後14年後に逮捕されて10年以上拘束されているけれど、大陸で国府軍に投降した日本兵たちは、弾除けとして、戦争に強制的に参加させられた。無事に生きて帰国した者たちも、朝鮮戦争に駆り出されていたわけだ。

タイトルの黒の、というのは語弊がある感じで、影の、とか隠密という方がしっくりくる。登場人物達は、大正生まれが多い。このレベルの、気概と実力を兼ね備えた日本人が、いま、どれだけいるのだろうか。

 

p265 占領下黒幕に安藤明がいる。元は運送業から身を起こした土建業。中島飛行機の工場疎開工事を請負い敗戦間際、ぼろ儲けを重ねていた。その関係で日本帝国海軍にも深いコネを持っていた。敗戦時、厚木の飛行場には徹底抗戦を叫ぶ海軍飛行隊がいたのだが、安藤は海軍司令部の要請で二百人の命知らずの手下を連れて乗り込み、一夜のうちに航空基地を発着できるよう片付けてしまった。マッカーサーの厚木乗り入れ前夜のことであった。これで安藤は海軍資産の5百万円を海軍省から受け取っている。安藤は大石三郎の紹介で、松前重義東海大学総長)と知り合っている。

戦時中松前は、海軍省に呼ばれ、海軍令部首脳を前に科学者の立場から、日米英の戦力比較を論じ、東条内閣を打倒して早期終戦が亡国を救う唯一の道である、と演説したことがある。その聞き手の中に高松宮がいた。激怒した東条が、松前を一兵卒として報復する挙に出て、海軍が松前をかばう騒動も怒っている。反東条だったことで、戦後マッカーサー松前評価は高かった。

 

p266 松前は安藤に高松宮を引き合わせ、「皇室をなんとか助けてやってくれ」と頼んでいる。高松宮は、安藤の手を握って「兄陛下だけはなんとか助けてやってくれ」と頼んでいる。

安藤は義理と人情に厚い男だった。落ちぶれた皇室関係者に生活費を渡して面倒をみ、他方では天皇制護持運動をすすめている。高級社交クラブ「大安クラブ」を作り、GHQ高官を酒と女と金で籠絡する手に出ている。大安クラブにはキーナン検事も出入りし、安藤は陰に陽に天皇を戦犯にさせぬよう裏工作を続けていた。佐藤栄作、片山晢、緒方竹虎芦田均西尾末広らの大物も出入りしていた。吉田茂でさえ、安藤からの政治献金を受けている。

 

p267 この安藤と一緒に動いていたのが、GHQの工事を請け負いぼろ儲けをしていた神中組の田中清玄だった。のちに神中組は三幸建設に改組されている。田中清玄も松前重義の信奉者だった。安藤たちはポスト幣原内閣として、GHQに働きかけ、松前首班を打ち出していた。ところが松前公職追放をかけられ、工作は頓挫した。怒った安藤と田中清玄は、楢橋渡内閣書記官長のところへ、早朝殴りこみをかけた事実もある。

安藤はのちにGHQ/GSに睨まれ投獄された。それを契機に没落してしまったが、占領軍工作と吉田茂内閣懐柔に全財産を使い果たしていたと言われる。松前重義や田中清玄が、のちに政界の裏舞台でうごめいていたのは周知の事実である。

 

p275 ロッキード事件取材の関連で、76年に起こった京都地裁の鬼頭判事補にせ電話事件を追ったことがあった。背後人脈として、マスコミに騒がれていた京都産業大学を取材したことがある。日本国策研究会の主力メンバーが、京都産業大創立に力を貸したと言われている。会の名簿昭和31年版には、顧問に根本博(陸軍中将、台湾義勇軍)、講師に土居明夫(陸軍中将)、藤村謙(陸軍中将)、作田荘一満州建国大学副総長)、遠藤春山(陸軍中将)、運営委員には岩畔豪雄(陸軍少将、岩畔機関長)北部邦雄(陸軍大佐、インド独立軍顧問)などがずらりと顔を揃えていたのだ。