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「溥傑自伝 満州国皇弟を生きて」 

 
 

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溥儀が、日本に金はもう送ってある、と言ったのは、本人名義の口座があったのでしょうか?凍結されちゃったのでしょうね。関東軍の溥傑一家に対する待遇は、恐ろしく悪く、外出時に自家用車を使うのを許さないとか、冬になっても石炭を十分出さない、家も非常に粗末であったことは知られていませんね。

 

代々、皇帝は毎朝仏壇にお参りしていたのですね。溥儀もお経を読んでいたとか。神社を祀る代わりに、先祖を祀ることを関東軍に禁止されたことを最も侮辱に感じていたそうです。西太后や他の妃のやり方もお好きではなかったのですね。

父、愛新覚羅 載灃 第2代醇親王は19歳で早くも内大臣になり、義和団事件でドイツ公使が殺されたことで、清朝政府は謝罪の特使としてドイツに派遣。香港、シンガポールスリランカ、スイス経由でドイツに到着したそうです。
ところで、西太后は、臨終にあたって、なぜ溥儀溥傑の父を皇帝にしなかったのでしょうか??? 溥儀を皇位に立て、父を摂政王とした。父はおとなしい人で祖父と同様、権力にはこだわらない方だったとか。

 

10歳頃から溥儀の勉強相手に四書五経など勉強相手をしたあと、溥儀と宮中を探検したという。ある日養心殿西側の仏殿内の仏壇の中に、赤い紙包みを発見。仏壇の前に跪いて三回叩頭してから恐る恐る開けてみると乾隆帝親筆の遺詔で、乾隆帝の父が皇帝の座を争って、二人の弟を殺したことに関してのもので、一切の過去を隠し、父親に代わって神仏に懺悔文を書いて仏壇に入れたのであったという。

あっさり、溥儀は勉強に身が入る人ではない。公平に言って私の方が真面目だった、と書かれていてクスッとしました。

 

p18 光緒帝が臨終の際、摂政王に遺言を残して、袁世凱を殺すように求めたという。父が袁世凱に不満だったことは事実である。一度免職したのは事実だが、武昌蜂起(辛亥革命)の時やむなく再任命した。
日頃読んだのは歴史書、特に「資治通鑑」であった。晩年自ら「書癖」と号した。彼は天文学までが好きで、夏の夜、空の星座を指して私たちに教えてくれた。日食があるたびに子供達と一緒に黒くくすぶったガラスで太陽を観察し、また日食、月食の経過を日記に書き、細密な図解まで添えた。
父は生前満州国のことに参与することを堅く拒み、2、3回溥儀に会いに行ったぐらいであった。溥儀が満州国皇帝になることに父は反対を表明したが、溥儀が聞き入れなかったのが口惜しく、涙を流した。

 

p51 東陵盗掘事件(蒋介石の軍隊が乾隆帝西太后の陵を盗掘した事件)が起こって間もなく、溥儀も侮辱を受けないためには自分の武力を持たねばならないことを痛感して身内の中で最も信頼できる者を日本に派遣して、陸軍の技術を学ばせる決心をした。

 

p52 溥儀は私のために日本語の教師を呼んでくれた。遠山猛雄といい、天津総領事吉田茂が溥儀に紹介した男だった。私と一緒に日本語を学んだのは溥儀の義弟郭布羅・潤麒であった。

要所で要所で名前が出て来る伊藤博文吉田茂

 

p71 1935年6月末、陸軍士官学校を卒業した。私と一緒に市ヶ谷にきた11名の満州国士官候補生は8名が残っていただけで、3人が退学又は死亡していた。
卒業式は日本の天皇の前で行われた。成績優秀につき陸軍大臣からは銀時計を、満州国大使から軍刀を贈られた。

 

p76 見合いの日、私はパリッとした軍服を着て邸に着くと、玄関脇に置かれた大きな七宝焼の一対の唐獅子に驚かされた。頤和園にあった物であることがわかった。日清戦争の折、ある将校が戦利品として持ち帰って骨董屋に売り払い、めぐりめぐって有名な蒐集家である浩の外祖父の邸にきたのだという。

 

p79 私は当時日本画にも興味を持ち、横山大観先生に日本画を習っていた。

 

p80 貞明皇后は親しげに浩に言われた。「満州国の皇帝に仕えることは、わが国の陛下に仕えるのと同じことです。溥傑に仕え、日本の婦徳を大いに示すように……」

 

貞明皇后は、中国明王朝の王女である朱貞明だという噂もあります。

 

p86 私たちは新居を新京に構えた。ここは元蒙古王の牧場で、周囲は雑草が生い茂り、兎やノロが飛び跳ねていた。以前は匪賊も出没するし、誰もきたがらない物騒なところだった。私に割り当てられたのは、ポツンと一軒だけ建っている五間の平屋で、近くに住民はいなかった。浩がきた時には壁さえ乾いていず、塀もなく、電話もなかった。浩が連れてきた女中が関東軍に連絡し、東条英機の命令でようやく塀を作り、電話をつけてもらった。新聞に載った写真は蒋介石の公館の写真で、まったくのお笑いだった。

 

p89 溥儀は仏教を信じていて、始終座禅を組み読経をしていた。溥儀を悲しませたのは、「建国神社」ができると、自分の先祖の東陵へ行くことを禁止されたことだった。
中国人に日本の祖先を強制的に信仰させたことは、中国東北人の強烈な反感を買った。

 

p101 蒙古徳王が蒙古の衣服、長い辮髪を後ろに、来訪した。
「われわれ蒙古族は表向きは自治ですが、実際には何の権利もありません。あなた方清室の子孫はどうしてこんなに弱いのでしょうか。あなた方は天照大神を自分の先祖として迎えました。これはどう理解すべきでしょう。満州は日本の植民地になってしまったのに、皇帝は手をこまねいて見ているだけです。今後いったいどうするおつもりでしょうか。」溥儀は徳王の言葉を聞いて、声も出なかった。

 

p108 8月9日夜、けたたましい空襲警報で目を覚ました。ただちに軍服に身を固め、急いでラジオのスイッチを入れると「午前2時、ハルビン方面より敵機は吉林方面に向け進攻中なり。帝京付近に爆弾を投下した模様なり。」
私はソ連の飛行機の爆撃だとすぐわかった。アメリカの飛行機だったら大連の方からくるはずだからだ。情勢は重大になった。

 

p111 戦後元特務機関にいた人から、当時関東軍が、「万一皇帝が軍の意向を無視して宮廷脱出を企てることがあったら、構わず射殺せよ」という命令を発していたことを聞いて、背筋の凍る思いをした。通化に立て籠もっても二ヶ月しか持たないだろう。戦い破れた時には自決する用意を整えて欲しいという。

 

p112 溥儀はよく短波ラジオで国外のニュースを聞いていたので、私は日本軍が惨敗したことも、広島の原爆のことも知っていた。

 

p119 8月22日溥儀は通化から飛行機で日本へ行くことになった。第一陣は、溥儀の他に私と三人の甥、医者の黄と召使いの李だった。溥儀は婉容たちに別れを告げて言った。
「私たちは先に行っているから、次の飛行機で来るか、あるいは陸路朝鮮を経て日本にきなさい。日本にきさえすれば生活など今後の心配はない。金はもう送ってあるから。日本で待ってるよ」

 

p123 私たちはソ連軍に護送されてソ連行きの飛行機に乗せられた。溥儀は関東軍から束縛される心配はなくなったと感じ、橋本に皮肉った。

「ご神体(天照大神)は安泰ですか」

 

p124 私と二人の義弟は通訳をしていただけだった。その時のソ連軍では日本語のできる者が大半を占めていた。

 

p177 当初東北の日本関東軍は90万人いたが、敗戦後は全員ソ連赤軍の捕虜になって大部分がソ連各地で労働に従事し、1946年以降徐々に送還されていた。1950年ソ連は969名の戦犯を中国に引き渡したが、彼らの大部分もハバロフスク収容所で監禁されていた。

 

p178 撫順にて大告白・大摘発と同時に訊問も始まった。私は事実を供述し自分の罪を告白した。前後6回告白し、他人、特に溥儀の問題も摘発した。訊問者が供述を記録し、それを見せられた後で私が署名、捺印した。時には拘留番号1000まで書くこともあった。

 

p195 辛亥革命後、清朝が崩壊し、満州族は職業に就くことも困難な状況にあったため、ほとんどの者が漢民族と偽り、愛新覚羅の子孫も金、肇、羅などを名乗ったので満州族は衰え、生活は苦しくなる一方であった。解放後、中華人民共和国の各民族平等友愛の大過程になって初めて満州族は自分の身分を公にできたのである。