伯父が若くして徴兵され、どこの国で亡くなったかもわかりません。小学生のとき「ビルマの竪琴」を読んで以来、気にはなっていました。
工藤俊作海軍中佐のように、英海軍「エクスター」「エンカウンター」を撃沈後、422名の英国人を海から拾いあげ、下着等も船員のものをあげて、英語でスピーチ、翌日にはオランダの病院船に引き渡したような武士道の人と言われる人もあれば、名もない日本人ながら、硫黄島をはじめとした凄まじい戦いに散った人もいる。以下の記事は、以前読んだものですが、今読んでも悲しい史実です。
日本人が1945年8月16日に帰国できなかったどころか、国民党と共産党に分けられて内戦を戦わされたり(インドやインドネシアでも似たようなことが)、中国当局の要請や命令、強制で中国に残って留用された日本人は、国民党側でも共産党側でもそれぞれ少なくとも2、3万人。医師や看護婦、技術者、元関東軍飛行隊長、林弥一郎さんが部下を率いて、空軍がなかった共産党軍のパイロット育成や技術訓練に当たったなど、日本人が協力を強要された。
不思議なのは、過酷な環境を生き延びて帰国すると、公安の刑事がやってきて就職もできなかったこと。日本の第1軍司令官、澄田四郎(すみたらい・しろう)中将らには戦犯の容疑がかけられており、戦犯を免れるかわりに、閻錫山のために日本軍の一部を残す。そんな取引があった、という疑惑もあったんですね。シベリア翼竜についても似たような仮説を読んだことがあります。
それから、横田さんと小野寺さん。何らかの密命に基づいて行動されていたらしいですね。
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呂彦●さん。門の屋根は1948年当時の戦闘で壊されたままという=中国山西省の南荘村で、隈元写す |
閻錫山(イエン・シーシャン)(1883~1960) 中華民国の軍閥リーダー。日本に留学し、陸軍士官学校を卒業。在日中に孫文の中国同盟会に入り、辛亥革命で清朝と戦う。1912年に中華民国ができると山西省の長となり、その後長く権力を維持し、「山西王」と呼ばれた。37年に日中戦争が起こると第2戦区司令官になったが、太原を日本軍に奪われて山地に退き、日本軍と局地的な停戦協定を結んだとされる。戦後は残留日本軍まで動員して共産党軍と戦ったが、49年の太原陥落で南方に逃れ、最後は台湾へ。国民政府の行政院長(首相)・国防部長を務めた。晩年は著述にはげみ、台北で死去した。 |
1945年8月15日、日本は戦争に敗れ、平和な「戦後」が始まった。いま、ほとんどの日本人がそう思っている。だが、日本がアジアを侵略したがゆえに敗戦後もそこに残され、「戦後」の戦争を異国の兵士として戦った人たちもいた。
「まさか自分の祖父が、そんな経験をしていたなんて」そう語る一人の学生に会った。東京都町田市にある桜美林大の2年生、阿部拓真(たくみ)さん(22)。45年3月に召集されて中国で戦った祖父の善夫さんは、日本の敗戦から9年もたった54年に帰国し、小学校教師をしていたが、63年に38歳で病死した。拓真さんが生まれたのは22年後、祖父のことは何も知らずに育った。
福島に住む祖母の照子さん(73)も、中国で何があったのかを善夫さんから聞かされることはなかった。夫の沈黙の意味に触れた気がしたのは今年2月に一本の映画を見た時だったという。戦後に中国の国民党軍として共産党軍と戦った日本兵たちを追ったドキュメンタリー映画「蟻の兵隊」(池谷薫監督)である。
上映会に、拓真さんは祖父の写真を持っていった。講演に来ていた映画の主人公、奥村和一さん(83)にそれを見せると、「ゼンプじゃないか!」。名前を音読みで呼ぶ仲で、初年兵訓練から中国の内戦までともにし、一緒に日本に引き揚げてきた。そんな戦友の孫とこんな形で出会えるとは。奥村さんにとっても感激の対面だった。奥村さんたちはなぜ、戦後も戦わなくてはならなかったのか。阿部善夫さんはなぜ、黙って死んでいったのか。私は、かつての戦場を訪ねることにした。
中国山西省の省都、太原。ここに戦争中、日本の「支那派遣軍北支那方面軍第1軍」の司令部が置かれていた。召集を受けた奥村さんは44年末、太原の北にある寧武に着いた。零下20度、新潟出身の奥村さんでも震え上がる寒さだったそうだ。
確かに今も寒い。48年、国民党軍として激闘を繰り返し、100人を超える日本兵が死んだ太原郊外の牛駝寨の砲台跡を見たいと思ったが、雪に覆われて近づくことができなかった。
■将兵2600人 「上官の命令で」残留
日本は45年8月、ポツダム宣言を受諾して降伏した。将兵は武装解除して帰国するはずだった。だが、第1軍の5万9000人のうち2600人もが残留し、共産党軍との戦いで550人が死に、奥村さんら700人以上が捕虜になった。
「そりゃあ、日本に帰りたかったですよ」と奥村さんは言う。「でも、上官に残れと言われれば従うしかありません。軍隊では、上官の命令は天皇の命令。抗命、反抗ができないのです」
組織的な残留はなぜだったのか。戦死した友の怨念に突き動かされるように、奥村さんたちは日本や中国で手がかりを探し続けた。そして、今はこう考えている。
当時の山西省は、国民党系の軍閥リーダー、閻錫山(イエン・シーシャン)(えん・しゃくざん)が支配していた。だが、共産党が力を増し、日本撤退後に内戦になれば、閻錫山軍の劣勢は必至だった。一方、日本の第1軍司令官、澄田四郎(すみたらい・しろう)中将らには戦犯の容疑がかけられていた。戦犯を免れるかわりに、閻錫山のために日本軍の一部を残す。そんな取引があった、というのだ。
ところが、帰国した奥村さんたちは、自分の意思で勝手に残ったとされ、日本政府から旧軍人としての補償を受けることができなかった。裁判でも敗訴した。
48年7月に奥村さんが重傷を負い、捕虜になった南荘村(太原の南)を訪ねると、れんが塀のあちこちに銃弾の跡が残っていた。この小さな村で国民党軍は共産党軍に包囲された。当時14歳だった農民、呂彦●(リュイ・イエンチェン)さんの家には20人ほどの日本兵が立てこもり、2日間いたという。呂さんは裏庭の地下に隠れ、戦闘が収まるのを待った。
「日本兵もたくさん死んで、死体を部屋に積み重ねていた。戦いが終わった後で掃除したけど、死体のあぶらが床にしみこんで大変でしたよ」
奥村さんたちを包囲した共産党軍の機関銃班長で、今は引退して太原に住む胡蘋(フー・ピン)さん(75)にも会うことができた。
「日本兵には武士道精神を感じましたね。閻錫山の軍と違って、なかなか降伏してくれない。武器を捨てるふりをしてまた撃って来たりして。それにしても、なぜ日本人が閻錫山のために命をかけて戦うのか不思議でならなかった」
太原は49年4月に共産党軍の手に落ち、残留日本兵たちの戦争も終わる。その前に捕虜になった奥村さんは、48年12月に北京に移され、まもなく天津の捕虜収容所へ。天津は49年1月に共産党軍が落とし、北京の無血開城へとつながった。その軍隊の中にも、実は日本人の姿があった。
■訳わからぬまま 共産党軍で担架隊
私は、太原から天津に向かった。天津陥落の戦いで亡くなった人々をまつった「烈士記念碑」に、戦友の名が刻まれている。東京に住む兵頭義清さん(79)から、そう聞いていたからだ。
日本は32年、中国東北部に傀儡国家「満州国」を建て、開拓民をたくさん送り込んだ。その中に、満蒙開拓青少年義勇隊と呼ばれた少年たちがいた。兵頭さんは43年、その幹部養成学校に入るために愛媛からハルビンにやってきた。1年遅れて大阪から来たのが坂口光造さんだった。2人はその後の運命をともにする。
戦後の46年9月、担架を運ぶ訓練が始まった。関東軍(旧満州の日本軍)の傷病兵を帰国列車に乗せるためかと思っていたら、着いたのは国共内戦の激戦地で、共産党軍の担架隊員になっていた。なぜなのか、当時はわけがわからなかった。「今は思い当たることもあるが、関係者に迷惑がかかるから」。兵頭さんの口は重い。
銃弾が飛び交う戦闘の最前線で、負傷した兵士を運び出す。担架隊は命がけだ。体力に劣る兵頭さんはやがて、けがの手当てをする衛生兵になったが、体格のいい坂口さんは担架を担ぎ続けた。
そして49年1月15日。兵頭さんが所属する部隊が国民党軍の司令官を捕まえ、天津が解放の喜びに包まれる中で、坂口さんの悲報が届いた。迫撃砲にやられ、内臓が飛び出していたという。
その後、兵頭さんは中国各地を転戦、内戦が終わった後は薬剤師になり、58年に帰国した。大阪で坂口さんの遺族を必死に捜したが、見つからなかった。
今の天津に、その名はあるのか。確かに「記念碑」はあったが、都市開発で敷地は削られ、戦死者名簿も別の霊園に移されていた。そこを訪ねると、職員が奥から名簿を出してきてくれた。2025人の名前を順にみていく。最後に「坂口光熙」。坂口さんの名前を書き間違えたのに違いない。
天津市内には、当時の戦いの記録を展示する「天津戦役記念館」もある。その中の戦死者名を1人ずつ彫り込んだコーナーにも坂口さんの名はなかった。「日本人がいたとは知らなかった。日中友好に力を入れたいので、もし遺品などがあれば、ぜひ展示したい」。劉光欣(リウ・コワンシン)副館長(48)は申し訳なさそうにそう言った。
■医師・技術者… 留用された数万人
国民党側と共産党側の双方に日本人がいて、犠牲者も少なくなかった。その事実が現地でも忘れられそうになる中で、実証的な研究を始めた人もいる。
埼玉県にある大東文化大の鹿錫俊(ろく・そくしゅん)教授(52)は、戦後の中国が再編されていく過程にかかわった日本人の役割を浮き彫りにすることで、日中関係の多面性が示せるのではないかと考えている。
「中国当局の要請や命令、強制で中国に残って働いた、つまり留用された日本人は、国民党側でも共産党側でもそれぞれ少なくとも2、3万人はいました」
目立つのは、医師や看護婦、技術者だ。例えば中国東北部の共産党幹部の48年1月の報告には、軍医院の医師、看護婦の8割が日本人で、共産党はせいぜい院長1人を送ることしかできない、とある。山西省で負傷して共産党軍の捕虜になった奥村和一さんを治療した軍医も日本人だった。
また、元関東軍飛行隊長、林弥一郎さん(故人)が部下を率いて、空軍がなかった共産党軍のパイロット育成や技術訓練に当たった話は中国ではよく知られている。
要するに、死命を決する激しい内戦の中で、国民党軍も共産党軍も足りない部分を日本人に頼ったということになる。
兵頭さんや坂口さんは、軍事訓練で鍛えられていた若さが買われたのだろうか。
「帰国させようとしても、途中の国民党軍の勢力地域で捕まって使われる。ならば共産党軍で使おうと考えたのでしょう」。そう振り返る兵頭さんはしみじみと言う。
「満州国を建国しようと燃えていた少年が、実際にやったのは新中国の建設だったというわけですよ。今はひたすら日本と中国の共生共栄を祈るだけです」
国民党軍と共産党軍にわかれて戦った人たちは帰国すると、同じような立場に立たされた。奥村さんの回想を聞こう。「帰った翌日からもう公安の刑事がやってきました。中共(中華人民共和国)帰りが会社にいたら何が起こるかわからない。そう言われて就職もできませんでした」
阿部善夫さんも似たような目にあったのだろう。妻にも語らなかった沈黙の奥に深い絶望があったのかもしれない。孫の拓真さんは、そんな祖父の思いを引き継ごうと決めた。12月14日には、自ら桜美林大で「蟻の兵隊」の上映会を開いた。映画を流した後には、奥村さん、池谷監督と鼎談(ていだん)した。もう一度裁判をやる。奥村さんがそう決意を見せたのを受けて、池谷さんが「拓真も原告の資格あるよ」と言うと、拓真さんは「そうですね」。若い力を得て、奥村さんたちの戦いはまだまだ続きそうだ。
※●は、おうへんに深の右側