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「諜報の神様と呼ばれた男 連合国が恐れた情報士官・小野寺信の流儀」

岡部伸著 PHP研究所 2014

 

和平終戦工作に最も近いところにいた小野寺信。第二の明石元二郎といった感じです。違うのは、参謀本部奥の院に敵がいて、ソ連の参戦を事前にリアルタイムで知らせているのに、生かされないなど邪魔が入ったこと。蒋介石との直接和平交渉にも関わっていたんですね。

 

p76 英国ロンドン郊外ミルトンキーンズにあるブレッチリーパークに英国に盗まれた日本陸軍の暗号書が展示されているのを見て衝撃を受けた。

 

p77 館内の一角でM16が密かに入手した日本陸軍の日本語とアルファベットで書かれた暗号書(乱数表)を展示していた。少なくとも1944年初め頃から太平洋諸島や欧州などで日本陸軍武官の電報を傍受して解読していた。

日本の暗号のうち最も早く解読されたのは外交暗号だった。1940年と真珠湾攻撃の1年以上前から終戦まで外交暗号電報が解読された。ベルリンの大島浩大使の暗号電報を解読して連合国側がナチス・ドイツの独裁者ヒトラーの本音を読み取っていたことはあまりにも有名である。

外務省電信課長などを務めた亀山一二はソ連大使館に参事官として勤務していた1945年12月、戦時中に外務省と在外公館などの間で情報伝達に用いた暗号は理論、技術がすこぶる幼稚だったと指摘。

 

p78 海軍の暗号も日米開戦時から解読されていた。連合国は陸軍の暗号は十文字以内の短文でモールス信号を発信していて手こずった。ブレイクスルーを生んだのは、ニューギニアの村落で玉砕した日本軍が残していた暗号表を、連合軍が入手したことだった。

 

p80 1943年、東大数学科名誉教授 高木貞治という世界的権威の数学者の協力を仰ぎ、天文学者らを集め、小野寺がスウェーデンで入手したクリプト社の暗号機「クリプトテクニク」を改良して44年にアメリカの暗号の一部を解き始めた。
「暗号を盗んだ男たち」檜山良昭によると、45年4月からは解読が進み、5月21日は初めて米軍のZ暗号が完全解読できた記念すべき日となり、7月半ば、米国国務省重慶の在中国大使館に打電した電文が解読された、という。

 

p81 中央特殊情報部の本部は三宅坂参謀本部にあったが、太平洋戦争開始と同時に市ヶ谷台に移り、赤坂に移転後、44年春に英国、米国の暗号を解読する研究部が杉並区高井戸の浴風園という日本最古の養老院に移った。数学、英語を専攻する学徒動員兵や勤労動員学生、女子挺身隊、旧姓中学生を加えると総人数512人が米国軍の各種暗号の解読作業を行なった。
いわばM16がロンドン郊外ミルトンキーンズにあった庭園とマナーハウスで女性や若いオックスフォードやケンブリッジの学生を動員して各国の傍受電報を解読したステーションX(通称ブレッチリーパーク)と同じである。

後二年早く、開戦の1941年から数学者を使い始めていたら、あんなに簡単には負けなかっただろう。暗号少佐だった釜賀一夫は、戦後後悔の念が消えなかった。

 

p96 支那課を中心として国民党No.2だった汪精衛を担いで傀儡親日政権を作り、戦争を終わらせる秘策、主導したのは参謀本部支那課長から謀略課長を務めた影佐禎昭である。ところがこの動きに疑念を抱いたロシア課は汪精衛工作が山場に来ていることを察知し、その前に重慶国民党政府との直接和平工作を図ろうと小野寺を急遽、上海に派遣した。小野寺はこの工作について、ロシア課の他に謀略課からも命令を受けていた。となると謀略課は、汪工作と直接和平工作の二つを同時に模索していたことになる。まさにダブルスタンダードである。

リガからロシア課に復帰した直後の1938年7月、小野寺はロシア課課員として、板垣征四郎陸相の知遇を得た。だから中央にパイプを持った小野寺が行なった蒋介石への和平打診工作は、決してスタンドプレーでなかったことは明記したい。

 

p99 小野寺に協力した人物に、蒋介石を対手とせず、と発言した近衛文麿首相の長男、近衛文隆の名を挙げていることに注目していただきたい。プリンス近衛は、東亜同文書院理事の肩書きで近衛文麿が秘密裏に上海に送り込んだ密偵の早見親重と友人の武田信近と、小野寺と共に日中和平に傾注していたのだ。

木戸幸一日記」に、近衛文隆の行動記録として、小野寺さんの手先となり、重慶工作に深入りしつつ、との記載もある。ここに記載されていないが、早見と中支那派遣軍の同僚である三木亮孝がいた。そして早見、三木、近衛文隆を介して、鄭蘋如(テンピンルー)も出入りしていた。日中混血の美貌のスパイ鄭蘋如は、重慶政府の特務機関、国民党中央執行委員会調査統計局に属しながら、直接和平を進める構想に賛同して、小野寺機関に協力していたのだった。翻訳係として働いていたとも言われる。

 

p101 影佐が傀儡政権を作って和平の道を見出そうとしたのに対し、小野寺はあくまで多くの中国国民の支持を集める蒋介石を相手に戦争を早く切り上げようと考えた。

「中国のナショナリズムを考えると、傀儡の汪政権では、中国の民衆の信頼を得られない。根本的に解決するには、蒋介石政権に直接和平交渉を開くしかない。そして天皇の決断を得ずして、泥沼化した日中戦争終結は無理だろう。」

バルト三國のラトビアの首都リガに駐在してヨーロッパで民族の興亡を見た小野寺は、傀儡政権では立ち行かないことを知っていた。最初のフィンランドソ連との冬戦争のとき、ソ連が作った傀儡政権では国民が動かなかった。ドイツがノルウェーに作った傀儡政権も国民が動かなかった。

 

p102 小野寺がラトビアで学んだことは、ソ連が世界を共産化する野心を持っていることだった。国民党の背後に、敵対関係にありながら抗日で合体を模索する中国共産党がいて、背後でコミンテルンが繰っていることを見抜いていたのだ。国民党政府との戦争が長期化すれば、利するのは中国共産党であり、ソ連である。小野寺は、早急に蒋介石国民党と和平し、ソ連コミンテルン対策を優先すべきと考えたのだった。

 

p106 帰国した小野寺は、東海道線で京都から帰京する近衛文麿に、浜松ー小田原間の車中で面会する。だが文麿は、軍が同意さえすれば、と言うだけで、諸手を挙げて賛成ではなかった。失意にくれた小野寺を、同期の親友参謀本部謀略課の臼井茂樹が救う。蒋介石と直接交渉する委任状を発行してくれたからだ。

 

p107 臼井の取り計らいで板垣征四郎陸相と中島鉄蔵参謀次長と面会。小野寺と同郷の板垣陸相は、こう語っている。「香港はもちろん、重慶まで行って蒋介石に会う」作戦課の中で、重慶直接交渉派だった秩父宮や堀場一雄からも激励された。

 

ドイツは潜水艦で、V1ロケットの情報ほか、日本に協力した一方、独ソ戦に踏み切ることを日本に内緒にしたのは、日本の暗号を信用していなかったから?小野寺信は、蒋介石秩父宮、グスタフ五世、グスタフ五世の甥であるプリンス・カール・ベルナドッテという王族レベルと実際に会っているところがほかのネゴシエーターとレベルが違いますね。

 

p108 影佐には、陸軍上層部を説き伏せる政治力があった。ちなみに自民党谷垣禎一の母方の祖父が影佐である。

 

p109 大本営内にも、現地軍の中にも、汪工作に疑問を持つ軍人は多かったのだが、欧米勤務出身者が多く、インテリで政治力がない。汪派の人々は長年の中国勤務で、世界的見地に立つ視野を欠いていたが、政治力は強かった。結局中央は、汪派に振り回された。

小野寺が陸軍内の権力闘争に敗れた背景には盧溝橋事件の前年1936年2月に発生した二・二六事件があったとの見方もある。当時の陸軍内では、蒋介石と若いし、ソ連に対抗するため国力の充実を図ろうというグループと、対ソ連は棚上げにして、まず支那大陸を支配しようという派に大別された。前者は荒木貞夫、真崎甚三郎、小畑敏四郎らが率いて皇道派と呼ばれ、永田鉄山東條英機が主導する後者の統制派と激しく対立した。

皇道派の若手将校が起こした二・二六事件後、皇道派の人々は陸軍中枢から外れ、統制派が主導権を握るようになった。

 

p110 小野寺は小畑の一番弟子と見なされる皇統派の一端にあった。皇道派と統制派の対立は、その後の大戦に置いて小野寺が参謀本部に送る情報の取り扱いでも公平さを欠き、日本の国益を大きく損ねることになるのである。

 

p111 東京で国民政府と直接交渉するため重慶に行く了承を得ようと工作を進めていた近衛文隆と早見は、閣議で汪工作が決まると、軟禁となる。鄭蘋如ら中国人工作員も逮捕され、日本の憲兵隊に処刑された。

汪政権が成立したが、日中和平は実現しなかった。日本政府が当初親日中国人に約束した、大陸からの日本軍の撤退を履行しなかったからだ。主流派だった影佐はラバウルの第三十八師団長に更迭された。

 

p113 蒋介石は「蒋介石日記」の中で、自分に対する日本の和平案は1938年から40年の間に12回提議され、和平要求を12回拒否したことを明らかにしている。小野寺は、12人のうち最も初期の段階の一人だった。

小野寺が上海から帰国する寸前、蒋介石は部下の姜豪を通じて金製のカフスボタンを贈った。カフスボタンには蒋介石が自筆で書いた「和平信義」の彫が入っていて、国と国の間は和平、人と人との間は信義、との言葉を小野寺に伝えたという。

 

p126 ヒトラー独ソ戦に踏み切る決断について、ベルリンを訪問した松岡外相に隠していた。

 

p127 ロンドン駐在だった辰巳栄一少将も、40年10月、独軍の英本土攻略は不可能と断言できぬまでも、その実現は困難と判断する、と報告している。しかしこれらは、英米に偏りすぎた情報として処理され、大島大使をはじめとするベルリンからの親独情報が優遇された。視野の狭い統師部が、独ソ戦に関する情報の価値判断を見誤り、国家の指導者に決断を促す材料として提供していなかった事実がある。

 

p128 1943年小野寺はノルウェーを占領したドイツ軍に招待され、ノルウェーを訪問した際、ドイツ参謀本部のウォロギツキー大佐から、独ソ戦前のドイツ大本営は、作戦準備をカモフラージュするため、日本外交団に対して、ドイツ軍が英本土上陸作戦に向かうような印象を持たせるため、あれこれ技巧を凝らす逆宣伝をした、と聞かされた。

ヒトラーは自分たちが伝える情報を鵜呑みにする大島大使を最大限に利用して、偽情報に夜撹乱作戦をした。

ストックホルム武官室には、ペーター・イワノフという人物が出入りしていた。ポーランド参謀本部きっての大物インテリジェンス・オフィサー、ミハール・リビコフスキーである。独ソ開戦を掴む最後の決め手になったのは、彼の情報だった。

 

p130 ドイツ軍が開戦に備え、ソ連国境に近いポーランド領内で次々と配置しており、同時に棺桶を準備したという内容だった。

 

エストニアポーランドの情報武官が小野寺の味方について、非常に精度の高い情報を優先的に回してくれたことで、どこよりも早くて正確な軍事情報を手に入れることができたのに、その重要さを理解できない日本政府中枢部によって握り潰された事実は、もっと知られて良いことだと思います。果たして小野寺の情報は、確実に昭和天皇の耳に入ったのでしょうか。

 

p135 ナチスはリビコフスキーを亡き者にしようとしていた。ゲシュタポで逮捕されたのは、リビコフスキーの直属部下のヤクビャニェツ大尉だった。ポーランド地下組織のリーダーとして、ドイツとソ連に対する諜報活動をしていた彼は、ベルリン満州公使館で匿われていた。彼は以前、リトアニアカウナス日本領事館で、杉原千畝領事代理に協力している。密かな日本とポーランドの諜報協力は強固だった。

ドイツは、ベルリンの大島大使に自分たちに都合の良いニュースを日本に提供しているのに、ストックホルムで正反対の都合の悪い情報を集め、日本に提供されることに我慢がならなかった。ドイツ諜報機関から、リビコフスキーの身柄引き渡し要請が、大島大使に行われた。しかし小野寺は、頑として受け付けなかった。リビコフスキーの更なる身の安全のため、満州国のパスポートをストックホルム公使館の神田代理公使に依頼して、日本パスポートに変更した。リビコフスキーは、これで日本人になれた、と小野寺に深く感謝したという。

バチカンを通じた和平工作は、行われなかったようですね。
むしろポーランド情報武官を通じて、早い時期にロシアの対日参戦という重要な情報がもたらされたことを生かせなかった。

 

p273 在ローマ日本大使館の河原峻一郎一等書記官とイエズス会総長のウラジミール・レドホウスキ神父が、ポーランドの地下組織が日本の外交クーリエを使って、ローマからベルリンなどへの情報が伝達できることに深く関与している、とイタリア国防省から警告を受けていた。

亡命ポーランド政府の情報士官達が、日本の外交特権の行嚢を使って、在欧公使館やバチカンの支援を受け、ワルシャワやヴィリニュスからスウェーデンを経由して、ロンドンのポーランド亡命政府へ情報を送る全欧規模の広範な諜報ネットワークを確立していたのである。

大戦末期、長年にわたる恩義に報いる大きなお礼が、ポーランドから小野寺を通じて日本に送られることになる。

 

戦局の全体像が見えていた少数派と、惑わされていた多数派の違いと混乱が、この本によく描かれています。負けるよう邪魔をするように、と指令されていた人々が混ざっていたの???

 

p324 朝日新聞ストックホルム特派員として王室を取材していた衣奈多喜男は戦後、「証言 私の昭和史」で証言している。「あの時グスタフ五世陛下は、日本が戦争に突入してミリタリストが非常に強くなり、その厚い壁に囲まれて、日本の天皇陛下が大変お困りになっていられるのではないか、と言っておられたということも聞きました。もしそういうことなら、スウェーデン王室は、親戚でもあるイギリス王室を通して、アメリカとの交渉の道をつけて差し上げたい、というのがスウェーデン王室の偽らぬお気持であった、と私は推測しています。」

小野寺が意を決したのは、大本営と政府の連絡会議から特使として欧州に派遣された岡本清福中将とベルリンの日本大使館で会った1943年9月だった。ベルリン空襲で避難した防空壕の中で、和平工作に取り組むことで意気投合したのだ。渡欧した岡本中将の使命は、ドイツの本当の国力を探り、ヨーロッパで日本の終戦の機会を模索することだった。小野寺と、終戦工作は中立国でしかできない。互いにそれぞれの国で努力しよう、と固く約束し、岡本はチューリヒへ赴任した。

その後岡本中将はスイスで、欧州総局長アレン・ダレスを通じて和平工作を、加瀬俊一スイス公使、北村孝治郎国際決済銀行理事、吉村為替部長、ペル・ヤコブソン同行経済顧問と終戦間際まで行った。

 

p323 真珠湾攻撃から半年後、1942年5月、珊瑚海海戦の直後、拝謁したスウェーデン国王グスタフ五世から、忠告を受けた。
「日本は戦勝に酔っているようだが、戦いは勝つときばかりではないのだから、適当な時期に終戦を図るべきだろう」
この国王の言葉が小野寺の心に深く響いた。親日的なスウェーデン国王が同じ君主国の日本に示した行為に感謝して、その機会が来れば、国王に仲介の労をとってもらい、国王が親戚関係にあるイギリス国王との間に和議の道が開けないだろうか。そんな期待を大戦初期から胸に秘めていたのである。

 

p341 一方、重光外相が朝日新聞専務鈴木史朗を使って、駐日スウェーデン大使バッゲに英国を仲介とする和平工作を申し入れるという同時和平工作が発覚。

 

どうして肝心なところで、足を引っ張る日本人が必ず現れ、ストップしてしまうんでしょう。東郷外相に告げ口した岡本スウェーデン公使。和平工作の助っ人扇大佐が駐スウェーデン海軍武官として任命されながら、ビザ発給の斡旋を頑として拒否し、国益を毀損した岡本公使のようなタイプの人物は、戦時中の本に必ず出てきますね。