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「少年皇族の見た戦争」

久邇邦昭著 PHP研究所 2015

 

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曽祖父は孝明天皇の右腕、祖父母は米国大統領と記念撮影、ご本人は香淳皇后の甥、ローマ法王謁見、エジンバラ公と会議でご一緒、そしてなぜだか、ハプスブルグ家オットー・フォン・ハプスブルグ氏が久邇邦昭氏のご自宅を訪問されているとみられるお写真。この時だけ、なぜ訪問されたのかなどの経緯は一切書かれていない。興味津々!

 

p23 朝彦親王は8歳の時、本能寺に入って日慈上人について5年勉学、13歳で仁孝天皇の勅によって興福寺の一乗院門跡を相続、15歳で得度し29歳まで(1852年)まで奈良に在住した。嘉永5年、孝明天皇の勅によって天台宗の青蓮院門跡となり尊融の名記を賜り、その年末天台座主宣命を受け、皇室の護持僧に補せられた。

嘉永六年、ペリー、プチャーチンの来航があり、外国との交渉・開国攘夷論争の渦中にあって、孝明天皇の厚いご信任を得て、終始思し召しに随順してその達成に努力した。安政3、4年の頃は三日に1度は参内し、夜に入って退出するのが常であったと伝えられる。曽祖父朝彦親王安政五年の橋本左内の他、梅田雲浜等、公武の多くの人物との交際があったことが知られる。安政の大獄の際、親王は朝権回復を図る朝臣の中心と目されていたので、幕府の圧力により座主をやめて祖国寺内の無住の荒寺に幽閉蟄居せしめられた。
二年四か月蟄居の後、1862年八月青蓮院門跡に戻り、国事御相談御扶助を命ぜられ、翌年正月に還俗、中川宮の称号及び朝彦の名を賜った。

 

p24 曽祖父 久邇宮朝彦親王は夜中参内直奏し、長州の意向による大和行幸(攘夷祈願)のお取り止めを願って御聴許となった。孝明天皇は暴を以って事を決するのを非常にお嫌いになっており、親王の捨身の行為によって局面の転回が行われたのである。(八月十八日の政変
これが孝明天皇の思し召しに沿うものであったことは、京都守護職松平容保にこの時下した宸翰からもわかる。

 

p26 この結果、尊攘派の公家7人が京都から追放、長州藩が京都に攻め上り失敗(蛤御門の変)、御所に向けて大砲を撃った長州藩は朝敵となり、幕府が長州を攻めることとなる(長州征伐)。このような時流の発端となった朝彦親王は、尊皇攘夷派の公家や志士たちから怨みを買うこととなった。

作家中村彰彦氏が、「朝彦親王日記」の慶応三年一月五日の項に崩御されたばかりの天皇鍾馗のような姿の怨霊となって現れたとする記述があることを紹介され、死因が単なる病死ではなかったと書かれている。

 

p143 海兵55期の藤村義朗中佐だが、駐独大使館の駐在武官補佐官だったが、ドイツ降伏のあとはスイスに逃れ(ユダヤ人の館員を帯同して助けたとのこと。大使館では戦中、ナチスの圧力の下でもユダヤ人の館員を解雇しなかったとのこと)、スイスで終戦工作をして米国大使館を通じてであろうか、ダレスから協力を取り付けたので、大本営に説得を続けたが梨の礫だったとのこと。その時スイスに逃れた大阪商船の元ベルリン駐在員津山さんも大いに協力されたとのことだった。

 

p150 公爵醍醐忠重海軍中将が、戦時中ボルネオ・バリックパパンの司令部司令官の頃、陸海軍兵士150人ほどが守備するポンチャナックという町で、日本軍が劣勢とみるや、在住華僑が日本軍守備隊を圧伏しようと動き出したのを処分した責任を問われ、ポンチャナック・オランダ軍事法廷でわずか3時間の審問で死刑宣告、昭和22年12月6日銃殺された。醍醐中将は、戦後戦死した部下の遺族を巡訪して、すまなかった、と言って廻られたが、その最中にオランダから戦犯として指名され、ポンチャナックに送られた。

 

p151 醍醐中将は治安維持、防諜等の命令系統の長ではなく、警備任務の長であり、治安維持は第二南遺艦隊司令長官が長であり、弁護士がこれを証拠に提出しようとしたところ、中将は拒否。華僑処分は派遣隊長独断であったが、自分一人で罪に服そうとされた。戦後インドネシアではオランダから独立しようとの風が起こりかけており、オランダが日本人を殊更強く処分することによって住民の歓心を買おうとしたとの説もある。オランダ軍事法廷の裁判官は、日本軍の捕虜だった軍人で構成されていたというのもいささか公平を欠くとの考えがある。

 

p156 アメリカの爆撃機はスキップ・ボンビングという攻撃法をとりました。海の上を低空で飛びながら爆弾を落とすと、その爆弾がチョン、チョン、チョンと跳ねて行って、輸送船や敵の船に当たり、沈んでしまうわけです。

 

p157 大いに効果があるというので、日本もスキップ・ボンビングの練習をしていました。かなり練習していたのですが、昭和19年にアメリカ軍がレイテに上陸したために、海軍の大西さんの神風特攻隊が出てまいりました。
爆撃隊隊長の西尾少佐は、「長い期間かけてせっかくスキップ・ボンビングの練習をしているのに、体当たりでなきゃいけないというのはどういう訳だ」としつこく上に対して抗議をしておられたようです。
佐々木伍長さんは特攻で行ったのですが、エンジンの調子が悪くて不時着して、10日かかって基地の飛行場に帰ってみたら、生きている英霊にされていました。将校たちは撃墜されていなくなり、下士官たちが佐々木さんに同情して、特攻機の仕様を跳飛弾攻撃(スキップ・ボンビング)ができるように作り直しました。佐々木さんはその爆撃機で輸送船を二隻も沈めているんですね。要するに、体当たりよりも跳飛弾攻撃の方が効率がいいということを実際に示した例があったということでございます。

 

p164 同じ戦争中の話だが、豪州ダーウィンに近いカウラにある収容所に千人以上に及ぶ日本兵捕虜が入れられていた。彼らは捕虜であることの恥辱にたえかねて、1944年8月5日集団脱走して、231名が射殺され、豪州監視兵も四名死亡した。
1962年に豪州各地で死亡した日本人を加えて522人の日本人墓地として整備、1973年には捕虜脱走記念博物館と日本庭園の建設が豪州政府に承認された。

 

久邇邦昭氏は、飯野海運から川崎汽船に移籍、ロンドン、チリのサンディアゴコペンハーゲンシドニーに赴任されたんですね。チリの隣はアルゼンチン。んー色々冒険なさっていらっしゃいますね。

 

p81 祖父邦彦王は元帥陸軍大将であった。日露戦争従軍や、米国欧州の長期視察を通じ世界情勢について精察するところあり、大変な読書家で、大きな図書室には洋書を含めて万巻の書物が並び、この方が生きておられたら、陸軍を抑えることができたのではないか、という話を数人の元陸軍軍人の方から聞いたことがある。

 

p82 邦彦王は美術に造詣が深く、若き日の横山大観川合玉堂富岡鉄斎等々の画家とも交わり、これらの人はよく家に来て描いていたという。また明治初期の廃仏毀釈によって危機に陥った法隆寺が、多くの仏像を皇室に献上していただいた御下賜金で息をついているのをみて、聖徳太子奉賛会を作り、政財界、学界等の人たちの助力を得て援助したり、仏教学徒に奨学金を出したり、仏教学その他の講座を開いたりした。

 

p191 祖父邦彦王のお陰と感謝しているのだが、聖徳太子奉賛会の研究給付生は皆、後に有名な仏教学、史学、建築学等の学者になったが、このうちの何人かに親しく指導していただいた。
奉賛会は丸ビルに事務所があり、折々先生方が講師となって勉強会が開かれ、私も拝聴した。
仏教学では花山信勝、高嶋米峰、久保田正文、仏教建築では大岡実の各先生。久保田さんは東大とオックスフォード大で社会学を学び、日蓮宗の住職だったが、とてもわかりやすく法華経を解説された。