宋銭が日本に輸入され、代わりに金が輸出された話。
p17 宋と金とは紹興12年(1142年)に平和友好条約を結び、二十年近くに及んだ交戦状態に終止符を打った。ところが二十年後、金が一方的に条約を破棄した侵攻をする。宋にとって幸いなことに、金は国内情勢が不穏であり、前線に来ていた皇帝に対抗する勢力が国元で別の皇子を皇帝に担ぎ上げ、すわ内戦かという状況になっていた。金が一枚岩の状態で宋にに進軍していたら、百年後の蒙古襲来前に宋の命運は尽きていたことだろう。
虞将軍総師の臨機応変な指揮により、層群は揚子江南岸の采石磯という場所で金を打ち破り、窮地を脱することができた。
この時点で南宋が滅亡していたら、平清盛の日宋貿易はそこで中絶していただろう。うまく存続したとしても、日金貿易だったはずである。
p18 平安時代末期の日本における最大の国際貿易港は博多だった。この街は遣唐使廃絶後も大陸との交易によって成長を続けていた。10世紀以降に大陸に渡った僧侶たちは、だいたいここから出航している。
嵐などに見舞われない限り、博多から明州という中国の港町に着くようになっていた。14世紀後半、明政府は倭寇平定による海路平安への願いを込めて寧波(やすらかなる海)という美名をこの町に与える。
p19 北宋時代に置かれた貿易監督の役所(市舶司)もひき続き存在し、この町が日本との交易ルートの大陸側の窓口となっていた。両国には交易を続ける必要性があった。それは両国の貿易で何が交換されたかを見ればわかることなのである。
p20 平氏は忠盛以来、日宋貿易にも力を入れた。11世紀後半以降、日本と高麗・宋との間で商船の往来が活発となり、12世紀には南宋の商人が活発に通商を求めてきた。清盛はこれに応じて、摂津の大和田泊(現在神戸市)を修築するなど、瀬戸内海航路の安全を図って宋商人の機内への招来につとめ、貿易を推進した。宋船のもたらした多くの珍宝や宋銭、書籍は、我が国の文化経済に大きな影響を与えた。
宋銭を輸入するとはどういうことかお分かりだろうか?
日本が多くのドル紙幣を輸入したりするだろうか?
p23 相手国の通貨が一方的に流入して来る現象を貿易黒字と呼んでいる。日宋貿易とは、日本の大幅な黒字だったことになる。日本は何を当時の最先進国に売っていたのか?金ゴールドである。
中国南部は金を産出しない。中国の諸王朝は、金をどこから調達していたのか?一半は北方から、中国東北部からである。なぜ女真族は国号を金としたのか。
p35 白河帝の外祖父は藤原能信(道長の息子)である。白河帝は父、後三条帝の意思を継いで、皇室が政治権力を握る路線を歩んでいく。長い間の伝統に束縛されて、天皇親政には困難があった。そこで白河帝は離れ業を演じる。譲位したのだ。白河帝は、譲位後も権力を手放さず、自分の宮殿で政務を取り仕切ったのである。これが院政の始まりであった。
白河院の院政は40年に及んだ。そのあとは孫の鳥羽院が継承する。鳥羽院崩御後、崇徳院と後白河帝との兄弟が保元の乱の原因になった。
p49 義経の幼年時代は謎に包まれている。平家は取引によって、平泉に義経を引き取らせたのである。
平泉にいれば、畿内の源氏残党に担ぎ上げられる懼れがなくなる。それを奥州藤原氏に請け負わせることで、平家にとっての脅威であった藤原氏と源氏を逆に奥州に封じ込めるという思惑が清盛たちにはあったのではないか。
p50 保立道久氏は、後白河落胤と思しき平泉姫宮の存在を足がかりに、義経は幼少時代、いや出生以前から京都宮廷の公家社会と深く繋がっており、その平泉滞在もこのネットワークから説明する必要があると説いて、斬新な義経像を提出した。(「義経の登場」NHKブックス)
p51 本人は自分を武士と認識していたかさえ怪しい。ちなみに平家についてもこれは言える。平家物語以来、野蛮な坂東武者との差異化を図るべく平家の公達という表現が好んで使われ、公家化した武士として描く。
殿上人となった清盛一門は、元来から公家であった姻戚の平時忠の一族と融合して区別がつかなくなっている。彼らは公家になりたかった武家なのだ。
したがって、清盛が官位昇進ののちも武士の魂を持っていたとは到底思えない。そもそも武士道がこの時代にはまだ存在していなかった。
p53 平泉は京・博多ルートで金を輸出していたほかに、独自に日本海交易ルートを持っていた可能性がある。その場合の大陸側の相手は、宋ではなく遼や金である。
遼や金は、毎年膨大な額の宋銭が宋からもたらされていた。彼らはそれを使って、茶や塩など宋の産物を買い、その結果宋の国内経済を潤すという構図ができていた。
平泉には、そのような遼と金が持っていた宋銭の一部が、奥州の特産物の対価として流入していたことだろう。つまり、奥州藤原氏は、京の朝廷なしでも、奥州王としてやって行けたのである。