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「アジアの世紀の鍵を握る客家の原像―その源流・文化・人物 」

 林 浩著  中公新書 1996

 

風水思想が染み込んでいる土楼。住まいには、風水もとても重視されているようです。

 

p213 モンゴルは天下を征服したあと、モンゴル兵を漢人各家庭に住まわせ、漢人の挙動を監視させた。モンゴル兵たちは、ただ食べているだけで、漢人が嫁をとる時は、新郎よりも先に花嫁と寝たという。人々の我慢も限界になり、8月15日、月餅の中にビラを入れ、今晩、各家庭のモンゴル兵を殺すよう促した。客家達は一斉に行動を起こし、モンゴル兵を皆殺しにした。

 

p223 客家は犬、蛇は敬わないが、亀、鶴、蚕や神話の中の龍、鳳凰麒麟、兎などの動物を敬っている。

 

p228 天地の神々が活動する時の房事はいけない。例えば日食、月食、稲妻、雷鳴、地震、水害、旱魃、疫病など自然災害が発生した時である。このような時の房事は天意に背くもので、天地の神々に対する大きな不敬となるのである。

男性は陽、女性は陰であるから、房事の日時は陰陽が調和していなければならない。そうしてこそ、子孫が繁栄するのである。毎月の1日と15日は皆いけない。ことに1日は月がすっかり欠けているのでよくない。冬至夏至の前後半月以内の房事もいけない。冬至の時季は陽気が少なく、夏至には陰気がまだわずかであるから、陰陽の調和が極めて難しいのである。

立春立夏立秋立冬、父母の誕生日、夫婦の誕生日、天地の神々の誕生日、孔子の誕生日もいけない。禁忌に反すると、神様から寿命を縮められる。特に、4月8日の釈迦牟尼の誕生日には、絶対に房事を行ってはならない。

 

p230 南宋末期、モンゴル軍隊が攻めて来たとき、幼い端宗が取り残されたが、客家の女性達が大声で駆け下りて来たので、伏兵だと思ってモンゴル軍が逃げたので、皇帝は九死に一生を得た。

皇帝は恩に報いるため、船中の金銀財宝と御用品を彼女らに与えようとしたが、客家の女性達は固辞した。そこで、客家の女性達が死んだら、当時の県知事の配偶者に与えられる「儒人」(人偏ではなく子偏)という称号を与える詔を出した。

 

客家語が1番大事と。民族の誇り、無形財産なのですね。それと、中国で、アジアで客家語が通じれば、初対面でも互いに融通し合うこと。

モンゴル兵に生き埋めにされるくらいなら、逃げた方がいいわけで、戦乱の中、必死に逃げたけれど、夫婦と実子と死んだ兄夫婦の息子と逃げていて、自分の子を置き去りにしてまで、兄の子を連れて逃げた話。置き去りにした実の息子が追いついたので、木に縛り付けて追いつけないようにして逃げたってあまりにも可哀想。自分達にはまた子供ができるかもしれないが、亡くなった兄の子孫が絶えるから、という理由ですが、結局この夫婦には以後子どもはできなかったので、その兄の子を養子にしたとか。

 

別の例では、ある奥さんが兄の子をおんぶして、それより小さい実の息子の手を引いて逃げた話。不思議に思った追っ手が理由を尋ね、感心して家の扉に葛のツルをかけておけば襲われないと教え、実際にその村を避けて助けてくれたという故事。

各家庭にモンゴル兵がもれなくついて来た話、各家庭でブチ殺した故事はかなりすごい話です。日本の敗戦後、横浜の臨月の婦人がいる産婦人科病練にまで米兵がレイプに来たと読んだことがありますが、各家庭にまでは来なかった。

アジアに散らばった中国人と、南米やハワイに移住した日本人はちょっと理由が違う。

 

p97 1985年呉慶瑞は、鄧小平により中国沿岸経済開発顧問に任命された。これと前後して、外国人で中国の国家顧問に任命された人物がいる。大連生まれの日本人エコノミストであった大来佐武郎(オオキタ)元外相である。

 

p99 中国経済全体の底上げには、戦後の日本が吉田内閣時代に採用した「傾斜生産方式」こそが向くのである。

 

p185 埋葬した死者を4,5年後に掘り出して、遺骨の1本1本を椿油で清め、陶製の瓶に収め、墓相の良いところに埋葬し直す。この埋葬法は沖縄にも残っている。

 

p214 客家の人々は琉球王国にも渡ってきている。今から600年ほど前である。那覇市の中心地に久米と呼ばれるまとまった市街地があるが、ここに「久米三十六姓」と呼ばれる人々が今でも暮らしている。