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「ナツコ 沖縄密貿易の女王」

奥野修司著 文春文庫 2007

 

時間の狭間に消えていった歴史。

p34 与那国島から沖縄本当まで約500キロ、台湾まで約110キロ。与那国島の真ん中に東経123度線が走り、この東側が日本の防空識別圏で西側が台湾の防空識別圏。123度線より西側にある与那国空港は日本の領土でありながら、台湾の防空識別圏にあるという、ややこしい状態にあるわけです。
戦後、沖縄、韓国、台湾に駐留していた米軍は、琉球列島の西端は石垣島と認識していた。与那国のような辺境の小島などどうでもよかった。

 

p37 与那国の海ではイルカを見るのは珍しくない。夏の波が静かなひには十頭二十頭と列をなして海面を飛ぶ。春先にはクジラもやってくる。

 

p38 与那国に人が集まり始めたのは1946年春、最初は宮古八重山、台湾の闇商人だった。日本本土や沖縄本島からも闇商人がきた。その一人に王東壁という神戸の華僑がいる。

 

p43 台湾では日本同様に近代化が勧められ、沖縄本当に比べて生活レベルには格段の差があった。与那国では尋常小学校を卒業すると男の子は丁稚奉公か店員、女の子は女中さんになって台湾に出稼ぎに行った。理容師や美容師の資格も台湾でとり、中学、女学校、医専などに進学するのも台湾だった。戦前の沖縄では大抵の家が板敷きだったのに、与那国だけ畳の生活だった。

与那国は沖縄よりも台湾経済圏の島だった。台湾と与那国が同一時間で、日本本土とは一時間の時差があったこともその繋がりの深さを表している。

終戦直後の与那国村役場で収入役をしていた仲島幸一は、戦前の与那国では台湾銀行券が日本銀行券と同じように流通していて、日本銀行券が不足すれば、台湾銀行券を台湾に運んで交換していたという。
「当時の役所には日本の紙幣も台湾の紙幣もごじゃごじゃに混ざっていましてね。出入りの業者に台湾紙幣で払っても文句を言う人はいません。日本銀行券が必要になれば、柳行李に台湾紙幣を詰めて台湾の銀行で交換してくるんです。」

 

p48 当時の久部良でその名を知られたのが、華僑の林発だった。戦前の八重山に初めてパインを持ち込み、沖縄のパイン産業の立役者として知られる台湾人である。

与那国島が密貿易の中継基地として栄えるのは、その地理的位置にもあったが、沖縄本島と日本本土間の電報が不通なのに、なぜか与那国だけが通じていたことが大きかったと言われる。

 

p49 中国人、台湾人、糸満人、阪神あたりの日本人、ベトナム人らしき人種、久部良は国際的闇市の様相を見せ始めていた。
米軍の船が島に近づけば警察官が知らせに来るほどで、ここでは密貿易で逮捕されることはなかった。
与那国は島ぐるみで密貿易に関わると言う、米軍政府の統治とは切り離された無法地帯だったのである。

 

p59 与那国は、沖縄本島八重山がB円と日本円の二本立てだったのに対し、ドルや台湾銀行券、米国軍人以外は所有できないと言われたA円(A型軍票)も乱れ飛び、島全体がブラックマーケットと化していた。

 

p63 夏子が取引したオウとは、王龍に違いないと思っていたのだが、王東壁に寄れば船一艘分の砂糖を捌けるのは、三宮の翁さんしかいなかったはずだ、と断言した。当時の神戸には密貿易のネットワークのようなものがあり、そのボス的存在が、当時50歳前後の翁だったと言う。

いわば神戸の親分でしてね。台湾から神戸に入る荷物はみな翁さんのところに集まったんです。ところが闇船やから、量が多いと神戸では荷揚げでけんのですわ。それで翁さんが、あっちこっちの華僑に割り振りして西宮、加古川、淡路、兵庫、御影、明石といった神戸の周辺で荷揚げさせたんです。親父は淡路に住んでいたから淡路がうちのエリアだったわけです。

 

p64 翁沛乾は1897年台北に生まれた。台湾でも指折りのコックで、昭和天皇のために料理を作って感謝状をもらい、それが台湾中の評判になったこともあった。英国領事館の領事から専属コックに乞われ、領事が神戸に転勤すると翁もついてきた。領事はドイツに転勤になったが、翁は神戸に泊まって商売を始めた。天皇からもらったという感謝状を掲げていたから店は大繁盛で、やがて神戸の華僑では一番の金持ちとの評判がたった。戦後翁沛乾を頼って、台湾から砂糖を積んだ船が神戸についた。翁はこの砂糖を買い上げ、当時の金で二百万とも三百万ともいわれる大金を稼いだ。これがきっかけで、翁を中心とする闇商売のグループができたという。

 

p66 翁は神戸のマッカーサーとも言われ、闇商売で知らぬ者がいないほどの実力者だった。山口組の田岡一雄をバックにつけ、神戸界隈の華僑の実力者を束ね、彼らに砂糖や薬の荷揚げを指図していたのが翁沛乾だった。

 

p67 ディーゼルオイルのように、地域によっては公定価格と実勢価格が三十倍も四十倍もかけ離れているものがあって、物によっては台湾や日本本土に行くよりも利益になることがあった。

 

p93 1947年2月28日 台湾を揺るがす大事件で台湾全土が戒厳令下に置かれた。台湾には、終戦時でも日本の正規軍16万余の軍人を二年食べさせるだけの備蓄があったのに、これも接収されて一部は蒋介石軍へ、一部は密貿易に回されたと言われた。豊かな島は国府軍の上陸でたちまち深刻な米不足に陥った。国府軍は煙草や砂糖を専売制にして勝手に値をつりあげるなど、収奪の限りを尽くしたから経済は悪化、わずか1年で物価は百倍を超えた。

台湾統治を任されていた陳儀長官は台湾全土に戒厳令を敷いて関係者の一斉逮捕と殺戮という大弾圧を始め、4万とも5万人とも言われる台湾人が殺害されたと言われる。