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もうひとりの写楽 海を渡ってきた李朝絵師

李 寧煕 河出書房新社 1998

 

もう22年も前の本になります。この著者の「枕詞の秘密」などは出版された当時に読みましたが、この本のことは全く気がつかず、今回初めて読みました。単に画風で写楽と金弘道が似ているというだけでなく、暗号文を解いてこの結論になっているところが素晴らしいです。

写楽と言われている人物は、実は正祖王(在位1776-1800年)に寵愛された宮廷画家の金 弘道(ギム ホンド)である。彼は王命で、火薬や火兵器の製造法、設備状況などを極秘裏に偵察、スケッチしていた李朝の非公式特使であったというのが主旨。家斉は恒例の朝鮮通信使の来日を渋っており、前回から30年も空白があいて李朝は焦燥がつのり、腹心の金 弘道を派遣した。幕府側の当事者は、金 弘道が何者かわかっており、丁重に保護案内もしていて、任務後は無事江戸湾の鉄砲州から朝鮮に送り返している。日本での生活費や活動費のために、せっせと金弘道は絵を描いては売ったり、世話になった寺や人に贈呈していた。写楽に浮世絵を描かせたのは市川鰕蔵(えびぞう)。弟子がてら金弘道の世話を十返舎一九がして、「初登山手習万帖」の中に暗号で、実は写楽は金弘道で、何をしに来ていたかを書いている、という謎解きが大変刺激的です。十返舎一九の父も1764年11回目に来日した朝鮮通信使の通訳、李命和(イ・ミョンワ)なのだそうです。母は大阪に住んでいた、下働きのおなべ。十返しはとうがえしとも読めて、父帰し(とうがえし)と重なる。父は帰国してしまった。二人とも、バイリンガルだったのですね。十返舎一九もハーフだったとは。正祖王は聡明な王であったがゆえに若くして暗殺されてしまう。晩年の金弘道は、暗殺や処刑こそされなかったものの、極貧の生活で、1度息子の教育費のために再度来日し、絵を描いていたらしいというエピソードもうら悲しい。

ちなみに、古代からの間諜と同様、金弘道も僧の身なりで行動していたとのこと。非常に面白い本です。しかし、幕府が朝鮮王の間諜であること、しかも兵器の視察スケッチの目的での来日とわかっていながら、日本側が協力した理由は何でしょうか?

対馬藩主と言えば宗武志氏が思い出されます。なぜ朝鮮王朝の公主と結婚されたのでしょうね。江戸時代も、もしかして、朝鮮王家と対馬藩主の間に婚姻関係があったのでしょうか?それが幕府が金弘道を援助した理由ならば、わかる気がします。大陸から攻撃を受けた時のために、朝鮮にも武力は必要ということで、日本の兵器製造場所を案内したのではないでしょうか?

どうやら、対馬藩は徳川家の委託を受けて、朝鮮と貿易をしていたらしいです。その上がりの一部は、徳川家へ納めたのでは?

マヨの本音というブログに、以下の記述がありました。銀の道って初めて耳にしました。ここでも対馬が登場しますね。

「韃靼の馬」(辻原 豊著)

対馬藩で朝鮮との交易をしていた。「銀の道」という極秘の街道が韓半島にあり、釜山から漢城へ普通であるなら十七日かかるところをたった五日間でたどり着けるのだという。

倭館を通して朝鮮から輸入される商品の八割は白糸と絹織物で、ほとんどが京都へ向かう。・・・取引はすべて丁銀で行なわれ、・・・銀は京都・三条河原町対馬藩邸で調達され、箱詰めされた丁銀は伏見に至り、淀川を下って、大坂、瀬戸内海を経て対馬へ。荷改めの後、お銀船で倭館まで運ばれた。朝鮮政府は、日本から支払われた銀を北京まで運んで、また商品を購入する。こうして京都と北京は「銀の道」で結ばれていた。」

 

この書き下し文を吟味して、それが韓国語でも読めるとわかった過程を書かれています。

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p43 対馬藩から朝鮮へ送る貿易船は年間20叟。ほかに対馬藩主が送る特送船もあり、年間40から80叟が往来していた。対馬からは銀、銅、胡椒、蘇木などを輸出し、朝鮮からは米、人参、木綿、布類、白糸、虎皮、虎油などを輸入していた。1789年金弘道は単身対馬に行き秘密裡に対馬の地図を描いている。王命によるものであった。対馬を往来するのは当時の朝鮮人にとって案外簡単だったのではないか。

P51 金弘道は上陸地を四国の丸亀に決め、金比羅参りの人波に紛れ、象頭山松尾寺金光院に入り込む。李朝朝廷の誰かが幕府側の誰かと折衝した結果と思われる。幕府側が高松藩の松平讃岐守に手を貸せと声をかけた。讃岐守は、金光院別当に頼みを入れる。高僧が金弘道をあずかり、旅行用身分証明書の往来切ってや関所手形などを作ってやる。朝鮮国延豊県藍金弘道の名前で手形を発行できないので、適当な日本人名として斎藤藤十郎にしたのではないか。

p52 案内者やお供まで連れて全国を歩くとすれば相当な懐金が必要で、お金儲けのための画号を作ることになる。東洲斎写楽がそれである。

p62 松尾寺の釈迦涅槃図、縦3メートル20センチ、横7メートル56センチの3枚にわたる大作は写楽作では。

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金弘道と写楽のよく似た点は、釘のような太い筆のあとにさっと描き下ろす描き方が特徴だそうです。下の二枚を見ると、着物にそのような筆の跡がわかります。

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