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御陵とされていない古墳

田中英道教授によれば、日本全国の前方後円墳は全て、皇族だけに許されたお墓の形態であるとのことですので、今まで書かれた地方豪族の墓であるとかいう報道等は脳内変換して、これは古代天皇、皇后、皇子たちの墓である、という目で、古墳を眺めて見ると、とても面白いと思います。何か新しく前方後円墳が発見される度に、判で押したように、豪族が〜という報道は、ワンパターンですね。そもそも豪族のトップであれば、娘を天皇に嫁がせている可能性が高いです。高度成長期に、関東の古墳が平気で潰されてしまった話などをネットで読んだり、御陵である前方後円墳の上を散歩できてしまう現状は、何と言って良いやら。

 

古墳探訪――空から見た古墳鈴木亨著 中公文庫857 1998年刊)

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航空写真が良いですし、豪族と思われていることを除けば、とても詳しい古墳の説明です。出版されたものがネットで読めてしまうので有難いです。

田中英道教授の「高天原は関東にあった」「日本の起源は日高見国にあった」などから、このサイズの前方後円墳は、天皇の古墳で間違いないのでしょう。アマテラスはホツマツタエでは男性神で、さらにその前の天皇がいます。関東の古墳は、その古代の天皇、皇族、臣下の古墳群なのでしょう。前方後円墳の近くの円墳が、臣下の古墳らしいです。太田天神山古墳は、明治に御陵参考地に指定されたこともあるそうで、根拠があったのでしょうね。

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太田天神山古墳群馬県太田市内ヶ島)
太田市街に入る手前で、線路と国道一二二号線の間に挟まれている天神山古墳をみつけた。全長三二〇メートル、墳長一二○メートルの、関東地方では最大の前方後円墳だ。いかにも雄大で迫力がある。周濠跡は田圃や畑になってしまっているが、外堤がはっきりと盾形の線を描いている。その外側に不完全な濠がもう一重あったことが発掘調査で確かめられているが、空から確認できない。後円部と前方部の鞍部に赤錆びた小さな建物の屋根が見えるが、これは古墳名のもとになった天神社の小祠だ。
江戸時代にはすでに盗掘されていて、元文三年(一七三八)に記された『新田金山石棺御尋聞書』という文書に、長持形石棺の規模などが図示されている。
国道一二二号線が後円部ぎりぎりに横切っている。墳丘の先端がそのために少し崩されているようだ。国の史蹟に指定されていながら、国の道路がこんな無残な破壊をしているということに釈然としないものを感じる。

 

総社二子山古墳(前橋市社町植野二子山)の上空だ。全長八六メートルの前方後円墳で、墳丘は桜が満開だった。かって周濠だったと思われる部分は工場や民家が迫っている。
後円部と前方部にそれぞれ横穴式石室を持つという珍しい古墳だ。南側に回ると、その開口部がよく見えた。前方部の石室は入って見学できるらしい。
この古墳は古くから豊城入彦(とよきいりひこ)命の墓という伝承があり、明治のころには陵墓参考地にも指定された時期があった。『日本書紀』によると崇神天皇の皇子豊城入彦命が東国に派遣され、その子孫が上毛野氏と下毛野氏に分かれたという。上毛野は後の上野国(こうずけ、群馬県)で、下毛野は下野国(しもつけ、栃木県)になっている。豊城人彦命の孫彦狭島(ひこさしま)王は東山道一五国の都督に任じられたが、赴任の途中で没し、上毛野の地に葬られた。その子御諸別(みもろわけ)王が父の跡を受けて東国に派遣され、蝦夷(えみし)を平定したという。御諸別王の子荒田別(あらたわけ)が上毛野氏の祖だ。蛇穴山の伝説に登場する田道(たみち)は荒田別の子にあたる。
古墳の国といわれる上野(こおずけ)国には、昭和一〇年にまとめられた『上毛古墳綜覧』によると八四二三基もの古墳があるという。今回の飛行などは、ほんのその一部を垣間見たというにすぎない。

 

ktymtskz.my.coocan.jp

 

古墳巡りをされた方の写真が載っていて参考になります。

plaza.harmonix.ne.jp