縄文土器の蛇の感じから、感覚的にマヤ文明と同じ、と思ったら、田中英道教授がちょうど一ヶ月前に、動画にされていました。インカ帝国もチチカカ湖は、父母だろうなと思っていました。田中教授は、証拠をもって、縄文人が世界へ渡ったことを話されています。
匈奴、突厥など遊牧騎馬民族は、武器商人でもあったらしいのです。必ず一方向ではなく、双方、売りに行ったらその先の特産物を買ってまた戻って売りさばく。奴隷貿易もこの頃から、と栗本慎一郎氏も書かれていました。奴隷と言っても兵力だけでなく、土器や金属装飾品を作る職人たちでしょう。
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上の動画からクリップをメモ。
エクアドルから縄文土器が発見されたことが1965年発表されている。バルディヴィアで出土した土器と縄文土器の類似性を、米国人学者クリフォード・エヴァンス、ベティー・メガーズ博士夫妻(スミソニアン研究所)とエクアドルのエストラーダ氏が研究した。
扶桑國:中国の古代史書に出現する東方の果ての国という意味。日本、アメリカ、マヤ、エクアドルなど各説がある。
環太平洋系の民族は、海藻を食べる民族:大航海時代の命名者、増田義郎博士(1928-2016年 文化人類学・歴史学・海洋学)が言及
ラピタ人(Lapita):人類史上初めて遠洋航海を実践し、太平洋の島々に住み着いた民族。バヌアツ、フィジーなどポリネシアやメラネシアのエリアが中心。紀元前1350年のラピタ土器も発掘されている。
日本人のDNA:日本人(男系)が持つY染色体DNAのD2系統(YAP遺伝子)はユダヤ人やチベット人と共通するが中国・朝鮮とは異なる。
鹿児島県霧島市 上野原遺跡 1986年に発見された遺跡 火山灰が積もった鹿児島県南部にも縄文人が居住していたことが判明
バラエティに富み、ダイナミックで優美、時にはグロテスクな縄文土器ですが、このような芸術品が作れる世の中を治めていたのが、天皇家の祖先だった、とヲシテ文献や常陸国風土記に書かれているようです。
田中英道教授の動画にヨシダユキヒロ氏が長文のコメントでヲシテ文献を要約されています。すごい歴史ですね。非常に興味深いです。どの動画のコメントであったかはわからなくなってしまいました。
ヨシダユキヒロ様投稿文:
一度ヲシテ文献をご検証いただきたいと思います。 タカマノハラ(朝廷)がヒタカミ・東国にあったことが書かれています。 カシマカミ(=タケミカツチ・鹿島神宮祭神)、カトリカミ(=フツヌシ・香取神宮祭神)が アマテルカミと同時代の歴史上の人物として記述されています。 ホツマツタエ・ヲシテ文献は 池田満氏の『定本〔ホツマツタエ〕―日本書紀・古事記との対比』などの研究によって 日本書紀・古事記の原書であることが立証されています。 12代ヲシロワケ景行天皇58年まではホツマツタエが日本書紀に先行する我が国の正史だと思います。 帰化渡来人の影響で漢字国字化する時代以前の縄文・弥生時代の歴史が具体的に記されています。
日本書紀・古事記はカラゴコロで神話化され、削除・改竄改悪されています。 特に古事記は悪質で伊邪那岐神・伊邪那岐命と邪=よこしまという字を使います。 ヲシテ文献には、後世の神道以前の縄文弥生時代の高度な哲学や建国理念・歴史が書かれています。 ヲシテ文献には、ヒタカミの用例が41箇所記述されています。 ヒタカミは日本の東北地方・奥羽諸国の総称とされ、 初代アマカミ(縄文・弥生時代の天皇号)クニトコタチの御子タノミコトがこの地に派遣されて栄えた。 (ちなみに北海道南端はカツシマ・カソシマと呼ばれていた。)
ヒタカミはタノミコトから代々タカミムスビを名乗って7代まで続き、 この後はヒタカミノカミとして14代を重ねて漢字国字化時代まで続いた。 ヒタカミの開祖・タノミコトはクニトコタチの教えを受けて、 栽培に適した木や草の品種=キクサ(木草)を土産(ツト)に移植して生活向上をもたらした。 (縄文遺跡でクリ・クルミ・大豆などの栽培品種が発掘されてきました。) 長い年数を計るマサカキは今の多賀城市付近のヒタカミのミヤに植えられたが これは朝廷タカマノハラと、ヒタカミだけだったという。 タノミコトはキノトコタチと讃えられ、その子アメカゝミカミが遥か遠方の九州の地を治め、 3世孫にあたるイサナギが7代目のアマカミ(古代の天皇号)を継承したことも書かれています。
ヒタカミの宗家5代目タカミムスビ・トヨケは気候変動で食糧難に困窮した国政を立て直し、 娘イサナミをイサナギにめあわせ、7代目のアマカミとし、 その皇子8代目アマカミとなるアマテルの教育を行った。
8代目アマカミ・アマテルヲヲンカミは 富士山のヤスミヤ、丹後のアマノマナヰ・マナヰノハラ・アサヒミヤ、イセの元宮(伊雑宮)・ウヂミヤ(伊勢神宮)に宮遷しした。(今の元伊勢) ハルミヤ(皇太子)オシホミミは、9代アマカミに即位するにあたり(恐らく東北の震災で疲弊した)ヒタカミにミヤコを遷した。 ミヤコの名をタカノコフという。 7代アマカミ・イサナギ・イサナミのミヤコ、近江のタガ(多賀)を引き遷したのが由来。
初代オオモノヌシ・オホナムチ・クシキネ(記紀に言う大国主)はイヅモ(出雲)のクニカミとしての豊かさに慢心して朝廷を軽んじた。右の臣(ツルギのトミ)でもあったたため、7代目タカミムスビからの度重なる詰問使派遣の末、右の臣解任のイクサ(軍隊)を派遣される。これをカシマタチという。 右=カ、シマは締りの意でトミ(臣)を指し、タチは解任を意味する。
そして9代アマカミ・オシホミミから フツヌシはカシマタチ(右の臣解任使)の長官としてカトリカミの褒め名を タケミカツチはカシマタチ(右の臣解任使)の副長官としてカシマカミの褒め名をそれぞれ与えられた。 タケミカツチは9代アマカミ・オシホミミの右の臣として仕える。 9代アマカミ・オシホミミは寿命が尽きるとき、今の箱根山山頂に籠り崩御され、ハコネカミとして祀られる。 (太古のヒタカミの古名ハコクニに因んだか。)
10代アマカミは 兄=アスカヲキミ・アスカホノアカリ・テルヒコ と 弟=ニニキネ・ワケイカツチ・ハラヲキミ・キヨヒトの 2朝廷が並立する状況となる。
10代弟方ニニキネは筑波山を手始めにアマテルカミの膝下イセで灌漑新田開発事業を進めて許可を得て、 アマノコヤネ、クシヒコ、タチカラヲを従え、全国を巡幸してタミの生活向上を指導する。 関東一円、山陰道・北陸道・山陽道・九州を巡って開発した。 京都盆地の開発は雷の害を防ぎ、水を役立てるために雷を火と水に分けてコントロールするため 火をアタコ(愛宕山)に、水をキフネ(貴船)に祭った。 このことをアマテルカミが褒めてワケイカツチの名を与えた。(上賀茂神社の祭神は賀茂別雷神でニニキネのこと) ニニキネは九州のタカチホの山(霧島山)にて亡くなる。 霧島神宮・霧島峯神社が瓊瓊杵尊を主祭するのはヲシテ文献通り。
その後ヒタカミと朝廷の間が次第に疎遠となってゆく。 12代アマカミ・ウカヤフキアワセス・カモヒト崩御、 初代スヘラギ・神武天皇のヤマトウチ(東征)を機に ホツマクニ(東国・ヒタカミ)からミツホ(税)が納められなくなる。
ホツマツタヱには第2代綏靖天皇から第9代開化天皇まで、実在の天皇としての事績が書かれています。 11代スヘラギ・イクメノキミ垂仁天皇は、 日本国の創始者クニトコタチのトコヨクニ(日本の最初の国号)の遺風が濃く残るヒタカミにタジマモリを遣わした。 ヲシテ文献時代末期、12代スヘラギ・ヲシロワケ景行天皇の御代に、 韓半島情勢の緊迫から挙国一致の必要性に迫られて、ヤマトタケ(日本建尊)のヒタカミ遠征がなされた。 (ちなみにヤマトタケは兄オオウスを殺していない。帰化人・古事記の捏造・侮日と思われる) この時代にヒタカミには誤解からくる蔑称ヱミシの名が起った。(つまり、ヱミシはヤマト民族ということになります。)
以上の説は池田満先生の『ホツマ辞典―漢字以前の世界へ』を主に参照しました。 『定本〔ホツマツタエ〕―日本書紀・古事記との対比』によって ホツマツタエ・ヲシテ文献が日本書紀・古事記の原書であることはほぼ間違いないと思います。