『金達寿小説全集』『日本の中の朝鮮文化』など、多数の著書がある。
ネットで読めるサイト。古い本ではありますが、興味深く読みました。私の感想は、西アジア、中央アジア、南アジアから人々が古代日本にやって来て住み着いたと思っていた時期もありましたが、日本からアジアへ出て行ったという逆方向も同時にあったという結論になっています。
奈良の飛鳥寺のあるあたりを、真神原と呼び、真神とは狼のことであることを知りました。狼を祀る三嶺神社みたいですね。狼をトーテムとするのは、突厥族だと小林惠子先生。まかみがはら、と濁音を入れるのは本来の読み方ではないらしいです。古代の日本語は、濁音があまりなかったとか他所で読みました。
飛鳥戸一族とはなんぞや?と思ってwikiで探すと、
「飛鳥部 奈止麻呂(あすかべ の なとまろ)は、奈良時代の官人。氏姓は安宿公・百済安宿公・飛鳥戸造・安宿戸造とも。官位は正五位上・出雲掾。」が出て来ました。
子孫はいらっしゃるのでしょうか。
また、月読神社に11基もの秦氏の古墳があるなんて、初めて知りましたし、東大寺の中に、韓国神社があったとも、初耳でした。ひっそり残された史実を掘り出したような感じで読みました。下記に面白かった箇所をコピペ。
*飛鳥坐神社近くの、真神原(まかみはら)にある川原寺や橘寺などを前方にした飛鳥の中心部であるが、慶州に似たところである、ということは小林秀雄氏の一文にもあったが、「日本文化のふるさと、慶州・扶余・飛鳥」とした山本健吉、井上光貞両氏の「対談」でも語られている。
寺地の真神原は帰化人東漢氏の支配地で、百済系の帰化人飛鳥衣縫造(きぬぬいのみやつこ)の住んでいたところでした。東漢氏の支配地に蘇我氏族の氏寺である飛鳥寺が建立されたということは、両者が一体的な関係にあったということをものがたるものにほかならない。
飛鳥寺が正式に発掘調査されたのは一九五六年で、一塔三金堂の伽藍配置をもった飛鳥寺は、百済ばかりでなく高句麗の清岩里(せいがんり)廃寺の様式にも通じていることがわかった。伽藍配置にみられるだけではない。飛鳥寺が建立された当初の寺司は、蘇我馬子の子の善徳臣(ぜんとくのおみ)というものだったが、住持(=住職)は百済僧の恵聡と、高句麗僧の恵慈であったことからもそれはわかる。当時の飛鳥では、百済と高句麗とが一体的な関係となっていたのである。飛鳥における高句麗といえば、一九七二年二月、桧隈で発見された高松塚壁画古墳で広く知られたものである。
*桧隈(ひのくま)の近くに栗原というところがあるが、もと呉原(くれはら)といったところで、『日本書紀』雄略一四年条に、「即ち呉人を桧隈野に居らしむ。よりて呉原と名づく」とあるそれであった。いま栗原にはその遺跡である呉原廃寺跡があり、呉津彦(くれつひこ)神社がある。
「呉人」「呉原」のクレとはどういうことであったか。漢氏族の漢と同しように、呉などという字があてられたものだから、古代中国にあった呉国(ごこく)のそれと間違えられたりしているが、これも高句麗からきたものであった。高句麗は朝鮮語でコクレというのであるが、高は高句麗の国姓であり、大和の「大」と同じ美称(和の一字だけでもやまととよむ)であるから、その高をとるとクレ(句麗)となる。漢織(からはとり)・穴織(あなはとり)にたいする呉織(くれはとり)というのも、これからきている。
*加夜奈留美命の加夜とは、古代南部朝鮮にあった加耶(加羅=から)諸国の加耶ということにほかならない。飛鳥川の最上流、そこを越えると吉野となる芋(いま)峠の入口に栢森(かやもり)という小さな集落があって、そこに『延喜式』内の古い加夜奈留美命神社がある古代の人々がまず住んだところは、川の上流であったということばかりでなく「飛鳥の在地神」である飛鳥坐(あすかにます)神社の最初の祭神が加夜奈留美命であったことでも、そういえるのである。つまり、飛鳥へやって来た最初の渡来人は、加耶(加羅)系のそれではなかったか。
*五世紀初めの造営という若草山頂の鶯塚古墳は、彼らの首長の一人を葬ったものではなかったかと私は思っている。いまは東大寺の地主神となっている辛国の韓国神社は、元はその古墳の拝所、祖神廟としてできたものだったはずである。
古墳と神宮・神社とは、元どういう関係にあったか。若草山の真下にあたる東大寺境内の辛国神社は、いまは小さなものとなってしまっている。しかしそれがいまなお東大寺の地主神となっていることからもわかるように、元は近くの春日大社よりはるかに大きな存在だったにちがいなかった。私は、三月堂そばの鐘楼近くにあるその小さな辛国神社の前に立ったとき、いろいろと考えさせられたものだった。
まず思いだされるのは、古代にあっての神社とは小独立国のようなものだったということである。高柳光寿氏は、「中世の神社は独立国であった」と書いているが、古代にはなおのことそうであったにちがいない。
「祭政一致」という言葉があるように、古代は神宮・神社の祭祀権を持つものが、政権をも行使したのであった。もちろん独立国とはいっても、現代にあるそういうものではない。神社を中心としたそれは、中島利一郎氏のいう「朝鮮(渡来)人部落」のようなもので、村国とでもいったほうがいいものだったにちがいない。その村国をつくった彼らはこの地をナラ(国)とし、祖神の墳墓を祭ってはそれを韓国(からくに)神社(神社とは本来、神様という意)としたのであった。
ところが八世紀になると、南大和の高市郡にあった飛鳥・藤原京が平城京へうつることになった。この地には、東大寺というとてつもない大寺院が造営されることになって、彼らの大部分はそこから駆逐され、韓国神社は退転して今日にみられるような辛国(からくに)神社と変えられている。東大寺から下った国鉄奈良駅近くの漢国(かんごく)町に、元は韓国神社の分社ではなかったかと思われる漢国(かんご)神社がある。
*わが国でアスカという地名は約十ヵ所存在するが、その中でも特に有名なのが大和飛鳥(遠(とお)つ飛鳥)と河内飛鳥(近つ飛鳥)であり、これらを「二つの飛鳥」と称している。河内の方がはるかに古く開けたようである。河内の飛鳥地方は大和の飛鳥地方と同じく古代朝鮮より渡来した人々が多数居住していたため、飛鳥とは渡来人の安住の地という意味を持つ古代朝鮮語の「アンスク」から転訛したという説が有力である。
記紀の記録から見ると、履中時代「飛鳥山」とか「大阪の山口」(大阪への入口)の地名で記されているが、渡来氏族に関した記録としては、雄略朝に百済の混伎王(こんきおう)が渡来し、天皇から飛鳥戸造(あすかべのみやつこ)の氏姓をたまわり、この地を本拠としたことは他の各種の文献からも明らかである。
飛鳥戸地方は大和川・石川・飛鳥川の三河川と二上山系の山地に囲まれた地域
(大阪府と奈良県の県境)で、大化の改新後には飛鳥戸評(あすかべのこおり)、大宝律令後は飛鳥戸郡となり、元明天皇の和銅六年(七一三)に公布された和銅令によって、「安宿郡(あすかべごおり)」と表記するようになり、明治二二年まで継続された。
飛鳥の付近には飛鳥戸一族の氏神としての飛鳥戸神社、氏寺として近つ飛鳥寺(西の寺)や飛鳥山常林寺址、一族の共同墓地としての上(うえ)ん田(だ)古墳群・新宮古墳群・新池西古墳群・堂の谷古墳辟・オコウ古墳群など、数多くの横穴石室を持つ円墳群がブドウ畑や松林の中に約五十基残存している。
飛鳥戸一族は五世紀末から九世紀の中期にかけて居住し、数多くの文化財を残している。
*一万円札や五〇〇〇円札になっていた聖徳太子画像は、「阿佐太子筆 聖徳太子御影」でいまは宮内庁にあるが元は法隆寺にあったものだった。描いた阿佐太子とは、百済聖明王の第二子であったが、第三子の琳聖(りんしょう)太子は、中国~九州地方の大豪族であった大内氏族の祖となっている。
だが、こうした観念自体が仏教の渡来普及以後のことであって、それ以前には死者と生者を隔離する聖穢(せいわい)の観念があったわけではない。一族の祖先や土地の豪族の埋葬地を礼拝するのは当然のことで、後代の神道家が忌避するようなものでは全くない。神社の起源が古墳であるというのは、何も私の発見ではない。すでに江戸時代以来、多くの学者が指摘しているところである。」