蔑称と言って、和気清麻呂を称徳天皇が別部穢麻呂(わけべ の きたなまろ)に変えてしまったり、歌人であり政治家であった柿本朝臣人麿を、天武天皇が柿本佐留に変えて流罪、処刑したようです。信長は、秀吉を猿ではなく、はげねずみと呼んでねねへの手紙に書いていたそうです。人麿は高市皇子に忠誠して新羅から来た人だったとか。人麿を処刑したのは、小林惠子説では天武天皇になります。(「万葉集で解く古代史の真相」より)
「ホツマ辞典ー漢字以前の世界へ」池田満著によりますと、サルタヒコは、古代天皇の皇子らしいのです。猿田彦も高貴な生まれには似合わない名前ですから本名ではなさそうで、後世に名前を変えられて記録に残された可能性が高いのでは。
「サルタ彦大神と竜」谷戸貞彦著
p159によれば、「サルタとは出っ張りを意味するドラヴィダ語から来ている。日本の地名の佐太は、ドラヴィダ語のサルタと同じ意味になっている。鹿児島県大隅半島の南端に突き出た岬は、佐多岬。愛媛県豊予海峡に出っ張る岬も佐田岬だ。」
p160 「サルタ彦の長い鼻は、男のオハセ神の意味を持っている。サルタ彦の長い鼻は、縄文時代から赤かった訳ではない。」
p161 「サルタ彦神は久那斗の大神の息子なので、御子神とも言われる。山陰民俗学会編集の年中行事によると、ミコ神の信仰は出雲から美作・備中・備前・備後・四国の讃岐・阿波・土佐の一部にある。御子神、アメノウズメノミコトを祀る。」
p169 「鳥取県琴浦町赤崎の神崎神社本殿軒下の飾りに、幸の神の三聖鳥獣の浮き彫りがついている。日本の神社は、幸の神から発展したお社が大部分だから、サルタ彦の象神や、インド由来の龍神の浮き彫りはよく見かける。ここには珍しく鶏頭がついている。この庭鳥の雄鳥信仰(鶏冠信仰)は、サルタ彦神と組になっている。サルタ彦の頭上にも鶏冠がついている。(写真)サルタ彦の高鼻は勃起末羅で、その時は赤味を帯びることから、赤は神聖な色となった。出雲の古墳の棺の中の水銀朱の色もこれと関係があり、赤は血の色で命の色だと考えられた。
p171 「出雲では、雄鳥の下の鶏冠は、フグリに似るので目出度いと言い、口箸はオハセ、耳はホトに似ると言う。すなわち、鶏頭は三拍子揃う性神の象徴だ。大阪府高槻市から長岡市にかけての一帯は、古代に事代主と縁ができて以来、旧出雲王家の領地だった。その地に今城塚古墳が造られたが、(松江市大庭町)作り出し部分から雄鳥の首の形の大型埴輪が出土した。被葬者がサルタ彦大神と鶏冠への信仰を持っていたのだろう。
p172 「御子神は若く元気だから、隣の地域から盗賊や流行病が流行らないように遮ることだった。山の峠道に、サルタ彦の藁人形を置いて守らせることが多い。峠道を守るので、峠の神と呼ばれる。静岡県富士川の西方の海岸に、薩多(さった)峠がある。元はサルタ峠で、サルタ彦人形が飾られていた場所だった。栃木県と福島県境に山王峠があるが、この山王はサルタ彦人形を意味している。埼玉県の西北に両神山がある。その北に道陸神峠があるが、この神も元はサルタ彦大神だった。道陸神は「道の神」のことで、幸の神すべてを指す。」
p174 「岩手県和賀郡湯田町方面で飾られている「ヤクバライ人形」と呼ばれているサルタ人形。オハセが非常に長いのが特徴だ。露出性器は、悪魔祓いの力があると考えられた。生殖を助ける守り神の意味もあった。」
地名には鹿島、鹿児島、牡鹿半島、熊本、群馬、但馬、対馬、牛島、鳥取など動物がついたものがあります。人名では、龍、辰、寅、熊は使われますね。蘇我馬子、厩戸皇子は蔑称までは行かないのではと思われます。
猿の場合は、美名としてつけるということはなさそうに思われます。田中英道教授が、猿も縄文の名前、というように「天孫降臨とは何であったか」に書かれていましたが、それはどうかなと感じました。
小林惠子先生の本では、民族がトーテムとして以下のシンボルを持っていたことを「興亡古代史 東アジアの覇権1000年」に書かれています。
鹿島神宮 鹿+白い服 扶余族
蒼狼 突厥族
三峯神社は狼がいますね。突厥に関係する神社なのでしょうか。小林先生は、高麗は熊と書かれていた記憶があるのですが。コマと読むのでなまってクマになったのでしょうか。
「栗本慎一郎の全世界史」では、蘇我氏がスキタイ・サカ族で、エシュク、アシュク、アサカ、アスク人と自分たちは呼んでいた。彼らが作った帝国がアスカ。鹿島神宮はペルセポリスと同じく聖方位(北から20度西に傾いた方位)で、会津の大塚山古墳はも聖方位で作られている。蘇我氏は鹿島神宮から北の関東東北、北海道の南を支配し、扶桑国を建てた、と書かれています。栗本氏は、鹿島神宮の鹿はスキタイのシンボルと書かれています。
アスカ帝国は、パルティア帝国とも呼ばれた。ユーラシア西部草原からアスカ(パルティア)帝国崩壊をへて、モンゴル高原のチュルクが鮮卑族に移動に圧迫されて、扶余、高麗を経て、北日本から、蘇我氏はやって来た。秦氏もチュルクである。
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