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ヴィクトリア女王の時代

ヴィクトリア女王wikiで見てみました。42歳の若さで、夫アルバート公薨去とは。それまでに9人の子をもうけていたのもすごいけれど。あまり知らなかったアフガニスタン王国の歴史の一端が書かれています。ふむふむ。

 

ヴィクトリアが即位したばかりの頃、イギリス東インド会社支配下のインド北西が大英帝国の弱点となっていた。イギリスはシク王国と連携してインダス川まで勢力を伸ばしたものの、ロシア帝国ブハラ・ハン国ヒヴァ・ハン国を事実上の勢力下におさめ、ついでアフガニスタン王国を窺っていた。そのためアフガニスタンがイギリスとロシアの中央アジア覇権争いの中心舞台になろうとしていた。

ヴィクトリアの戴冠式から間もない1838年10月、イギリス軍はアフガニスタンへ侵攻し、首都カーブルを陥落させた。アフガン王(アミール)ドースト・ムハンマド・ハーンは北方ブハラ・ハン国へ亡命したため、イギリスはインドに亡命していたシュジャー・シャーを傀儡の王に即位させた。しかし1841年11月カーブルで反英闘争が激化し、掌握不可能となり、それに乗じてトルキスタンに亡命していた前王の息子アクバル・ハーンパシュトー語版ウズベク族を率いてカーブルへ戻ってきたため、イギリス軍は降伏を余儀なくされた。アクバルはイギリス軍の安全な撤退を保障したが、約束が守られることなく、現地部族民が略奪をしかけてきてイギリス軍は大量の死者を出しながら撤退する羽目となった。結局16000人のカーブル駐留イギリス軍で生き残ったのは軍医のウィリアム・ブライドンのみであった(第一次アフガン戦争大英帝国の威信は傷つき、メルバーン子爵内閣は厳しい追及を受け、退陣に追いこまれた。

イギリスの後ろ盾を失ったシュジャー・シャー王は殺害され、ドーストがアフガンに帰還してアミールの座を取り戻した。イギリスは敗戦したとはいえ、すでにアフガン南西部を半植民地状態にしていることは変わらなかった。結局ドーストは外交権を事実上イギリスに委ねざるをえなかった。さらに1864年にドーストが崩御するとシール・アリー・ハーンムハンマド・アフザル・ハーンムハンマド・アーザム・ハーンの三兄弟の王位継承争いが発生し、アフガンは内戦状態となった。インド総督はアフガン弱体化を狙い、内戦を煽るべく不干渉を建前に「兄弟のうち王位を固めた者を承認する」と宣言した。イギリスの狙い通り内戦は激化し、王位の奪い合いの末、最終的には1869年にシール・アリー・ハーンが王位を固めた。

一方ロシア帝国は1868年にブハラ・ハン国1873年ヒヴァ・ハン国、1875年にコーカンド・ハン国へ攻め込み、中央アジアの3ハーン国をすべて保護領としていた。警戒したイギリスはアフガン支配強化の必要性を感じ、シール王に対してイギリス外交団をカーブルに常駐させるよう求めた。しかしシール王はこれを認めず、逆に1878年8月にはロシア皇帝から送られてきたロシア将校団の使節の受け入れを認めた。イギリス・インド総督リットン伯爵はこの扱いの差に激怒した。

ヴィクトリアの怒りも激しく、彼女はアフガニスタン懲罰の必要性を感じたが、第一次アフガン戦争の苦い思い出もあり、外交圧力をかけて解決させるようディズレーリ首相に指示している。しかし現地インド軍は早々にアフガニスタンへ侵攻を開始していた。ヴィクトリアもやむなくインド軍を全面支援するよう首相と外相に要求した。アフガンとしてはロシアの軍事援助を期待するしかなかったが、ロシアは露土戦争の戦後処理国際会議ベルリン会議で孤立していることに焦り、安易な出兵をして孤立を深めたくない時期だったため、アフガンは見殺しにされた。

こうしてはじまった第二次アフガン戦争でイギリス軍はアフガン軍のゲリラ戦に苦しめられながらもロバーツ将軍の指揮の下にアフガン軍を撃破し、1879年6月にムハンマド・ヤークーブ・ハーン王にガンダマク条約を締結させて戦争は終結した。イギリスはロシアでの長い亡命生活でロシアからの信頼も厚いアブドゥッラフマーン・ハーンをアミールに即位させ、外交を完全にイギリスが掌握しつつ内政は彼に任せてアフガンから撤収していった。

 

1887年6月20日ヴィクトリア女王は在位半世紀を迎え、在位50周年記念式典(ゴールデン・ジュビリー)が挙行され各国の王室・皇室が招かれての祭典となった。ベルギー(レオポルド2世)、デンマーク(クリスチャン9世)、ギリシャ(ゲオルギオス1世)、ザクセン(アルベルト)の四か国は君主が自ら出席し、それ以外の国々も高位の王族・皇族が出席した。日本からは小松宮彰仁親王が出席した。ヴィクトリアは高官や彼女のために集まった世界中の王族・皇族たちを随伴しながら群衆の間を通ってウェストミンスター寺院へ向かい、そこで神に感謝をささげた。バッキンガム宮殿に戻った後ヴィクトリアは「大変疲れましたが、とても満足です」と述べている。

1897年6月の在位60年周年記念式典(ダイヤモンド・ジュビリー)はヴィクトリアの希望で各国の王室・皇室を招いた式典ではなく、世界各地の植民地の首相や駐留連隊代表者を集めた「帝国の祭典」として行われることになった。各国代表使節の出席も認められたが、君主の出席は断っている。日本からは有栖川宮威仁親王伊藤博文が出席した。ロンドン市民の熱狂の中、カナダ・オーストラリア・インド・香港など世界各地に駐留するイギリス軍連隊が行進して大英帝国の威を示した。ヴィクトリアは植民地首相たちにジュビリー・メダルを授与し、また全世界の臣民たちに向けて「愛する臣民たちに感謝する。神の御加護があらんことを。」と演説した。

 

息子、孫、曾孫と。

なぜかチャーチル首相にそっくり。

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