ルイス・マウントバッテン伯爵、つまり初代マウントバッテン・オブ・ビルマについて。父も母もドイツ系ではあるのですね。調べて行くと、まさにアガサ・クリスティの世界ってこんな感じだったのだろうな、と感じます。家系は、右から左へと忘れていきますが、とりあえず。
wikiより
初代ミルフォード・ヘイヴン侯爵ルイス・アレグザンダー・マウントバッテンの子(次男)で、ヴィクトリア女王の曾孫(祖母がヴィクトリア女王の次女)。ドイツのバッテンベルク家出身。海軍元帥。父はアレクサンダー・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット。母はポーランド貴族。
姉の一人にアリス・オブ・バッテンバーグがおり、エディンバラ公フィリップ(イギリス女王エリザベス2世の夫、チャールズ王太子の父)の叔父にあたる。
母の結婚前の名は、ヴィクトリア・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット(Victoria von Hessen-Darmstadt)。
ヴィクトリアは、ヘッセン大公ルートヴィヒ4世と最初の妃であるイギリス王女アリス(ヴィクトリア女王とアルバート公の次女)の長女として、ウィンザー城で生まれた。3歳まではベッスンゲンで育ち、その後ダルムシュタットに家族で住んだ。彼女は妹エリーザベト(のちのロシア大公妃エリザヴェータ・フョードロヴナ)と同じ部屋に生活し、良い教育を受けた。
1878年、ダルムシュタットで大流行したジフテリアに大公一家が罹患し、末妹マリーと母アリスは助からなかった。ヴィクトリアは、幼い兄弟たちの母親代わり、父の秘書代わりとなった。
1884年4月、ダルムシュタットでヴィクトリアは父の従弟ルートヴィヒ・フォン・バッテンベルクと結婚した。彼の父アレクサンダーは貴賤結婚をしてロシアの軍人となっていたため、子供たちは下級貴族扱いであり、資産も少なかった。この結婚に父ルートヴィヒは不本意だったため、夫がイギリス海軍の軍人だったこともあり、ヴィクトリアはイギリスで生活するようになった。夫が地中海へ航海に出ると、ヴィクトリアも同行してマルタで一冬をすごしたことがあった。彼女は息子ルイスを10歳まで自分が家庭教師代わりに教育した才女だった。ルイスは1968年に「母は歩く百科事典だったよ。」と言った。
第一次世界大戦が始まると、夫ルイスとヴィクトリアはワイト島に引退した。国民感情を考え、敵国ドイツの姓を名乗るのに不都合となり、イギリス王家は「ウィンザー家」と改名した。それにならい、ヴィクトリアたち一家は「バッテンベルク」(バッテンバーグ、Battenberg)から、より英語的な「マウントバッテン」(Mountbatten)に改姓した。その3日後、夫はジョージ5世よりミルフォード・ヘイヴン侯爵を授爵された。この戦争の後の1917年のロシア革命で、ヴィクトリアは妹2人、エリーザベトとアリックス(ロシア皇后アレクサンドラ)を失った。
ヴィクトリアは、長女アリスの病に心を痛め、家庭の不和で行き場をなくした孫フィリッポス(のちのエディンバラ公フィリップ)を引き取り、イギリスで養育した。
夫と死別してからの彼女は第二次世界大戦中に、ケンジントン宮殿に住んでいた。宮殿が空襲に遭ったあと、ウィンザー城に住まいを移した。1950年、ルイスの家に滞在中に病にかかり、「ここは私が死ぬには良すぎる場所よ。」と言ってケンジントン宮殿に戻り、そこで没した。
子女
- アリス(1885年 - 1969年)ギリシャ王子アンドレアス妃。エディンバラ公フィリップの母。
- ルイーズ(1889年 - 1965年)スウェーデン王グスタフ6世アドルフ妃。
- ジョージ(1892年 - 1938年)第2代ミルフォード・ヘイヴン侯爵。ナデジダ・ミハイロヴナ・ド・トービーと結婚。
- ルイス(1900年 - 1979年)初代マウントバッテン・オブ・ビルマ伯爵。エドウィナ・シンシア・アシュレイと結婚。
ここで妻となった、エドウィナ・アシュリーとは?と検索すると、英文しか出てこないんですね。エドウィナの母は、欧州でも有数の富豪でパワーを持ち、エドワード7世の私的な銀行家だったという、Sir Ernest Cassel (1852–1921)の一人っ子。逆玉の輿だったようにも見えるのです。ものすごい遺産をもらっていたのですね。妹さんがいたようですが、何も書かれていません。エドウィナ・アシュリーは1900年11月生まれ、夫のルイス・マウントバッテンは1900年6月生まれ。
Lady Mountbatten held the following honours:
- Dame Commander of the Royal Victorian Order (DCVO) – 1 January 1946
- Dame Grand Cross of the Venerable Order of the Hospital of St. John of Jerusalem (GCStJ: 1 January 1946 CStJ: 19 December 1928)
- Lady of the Imperial Order of the Crown of India (CI) -21 February 1947
- Dame Grand Cross of the Order of the British Empire (GBE: 1 January 1948 CBE: 1 January 1943)
- Service Medal of the Order of St John
結婚式のベストマンは、エドワード8世ではないでしょうか。
このマントは何の称号に関する衣装なのかは不明。
長女のパトリシア・ナッチブル、2nd Countess of Mountbatten of Burma
結婚式のブライズメイドとして、エリザベス王女、マーガレット王女、アレクサンドラ王女、妹のパメラ・マウントバッテン。
次女パメラ・ヒックス。女王のlady-in-waitingを勤め、インドご訪問などに同行したそうです。レディ・パメラ・ヒックスの結婚式のブライズメイドには、アン王女が出席しています。
ルイス・マウントバッテンwikiを見たら、二回、クーデター計画に関与したという噂?が書かれていました。下記の記事を読んで、なるほど、と。また、甥の18歳のフィリップ王子を、13歳のエリザベス王女と引き合わせ、文通を促したとか、他でも読みました。
後列1番左がマウントバッテン卿、前列左から3人目がエドワード8世。東京での写真だそうです。マウントバッテン伯爵は、昭和天皇が国賓で訪問された際に、晩餐会出席を拒否し、葬儀にも日本を招待しなかったのだそうです。
子孫のマウントバッテン家の話題は他にも。