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川口一彦牧師のコラム

ミトラ教ゾロアスター教景教、仏教が7世紀頃日本に入ってきているのは間違いないようです。漢字表記されると、何でも中国のもののように感じますが、実際はペルシア、トルコ、パルティア、モンゴル、ギリシア、ローマ、様々な地域から日本に渡来したようです。

 

初回は2014年でした。大変充実したコラムです。イエス・キリストの双子の弟、ユダ・トマス(アラム語で双子)がインドに宣教に行ったと「失われたミカドの秘紋」p336にありますが、川口牧師は現地取材にも行かれ、とても詳しいです。

 

ソロモンの時代から南部インドにユダヤ会堂があり、現在も数名のユダヤ教徒が礼拝しています。2012年、私たちはケララ州コチンにあるその会堂を訪ねました。イスラエルが国家として成立してからはほとんどのユダヤ教徒たちは帰還しました。その地域にはトマス派(使徒トマスの群れ)の多くの教会があり、信徒の数は、その地域の宗教人口から見ればヒンドゥー教徒よりも多いと言われます。

サン・トメ、マル・トマと呼ばれた使徒トマスと同労者たちは紀元32年頃に北部インドに宣教、中国や南部インドでも宣教し7つの教会の設立後、トマスは72年にチェンナイで殉教しました。

温故知神(1)福音は東方世界へ 川口一彦・日本景教研究会代表温故知神(1)福音は東方世界へ 川口一彦・日本景教研究会代表

やがて福音は商人の信徒たちによって中国に入り、そこで栄えたのが東方の景衆・景教です。しかし850年代、武宗皇帝は仏教を弾圧するために景教徒もその対象としました。信徒も指導者も国外追放され、多くは殺害されました。多くの信徒たちは中央アジア、北京の山間地、内モンゴル福建省などの地に住みつき、会堂は十字寺、名称は景教ではなく也里可温(エリカオン=福音の意味)と名乗り、信仰を守りました。その地域から十字とシリア語聖句の入った墓石がたくさん発見されています。

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紀元前後のペルシアはシルクロードの西部で、遊牧民族のパルティア王国と呼ばれていました。領土の東はインドのインダス川流域、西はシリアまで支配していました。

パルティア王国は、前1世紀にはギリシア語からペルシア語を公用語とし、アラム文字(これは当時の国際商業文字で、中央アジアでは後にソグド人のソグド文字、アラビア文字ウイグル文字、モンゴル文字などの元でもある)を用い、ペルシア化し、弓矢を使った騎馬戦術を得意としていました。この戦術に対しローマ帝国は恐れを抱き、前53年にローマはペルシアと戦った結果、敗退したほど当時のペルシアは強大でした。

アラム語は古くは前10世紀頃から使われ、ダニエル書にも使われています。前538年にペルシアの王クロスがユダヤ人に帰国命令を出したのもアラム語でした。アラム語パレスチナでも語られており、新約聖書の時代にもイスラエルユダヤ人はへブル語とともにアラム語も使用していました。「アバ・父」やイエス・メシアの十字架上の言葉「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」もアラム語でした。

1世紀にはシリア北部のエデッサに東方教会(正式には東シリア教会)や神学校が建てられ、シリア語が発達しました。景教の源流はここで生まれました。この地に福音を伝えたのは使徒トマスや70人弟子の一人のシリア語名でアダイ(タダイ)やマリらで、教会を創設し、多くの信徒によってさらに東のパルティアやインドへと宣教を展開していきました。

シリア語は、大秦景教流行中国碑にも多く刻まれ、その中に「アバ(訳せば、父、祖父)」も見え、景教徒の文献や墓石にもシリア語が使われていました。東方世界に福音が広まった要因の一つにシリア語が普及していたこともあり、シリア語は中国、モンゴル、満州にまで広がっていきました。

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シリア語はエデッサで使われていた言葉で、シリア語新約聖書が分冊から訳されたと考えます。これをペシッタ訳あるいはぺシタ訳聖書と言います。

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2000年6月21日付毎日新聞大阪夕刊に共同通信社が、古代シリア語聖書抄録が敦煌莫高窟で見つかったとの報道がありました。シリア語聖書は中国の元代のもので、縦19.8cmセンチ、横30.8cmの大きさの白紙に手書きされているとあります。唐代の景教徒迫害に伴う国外追放の後に、エリカオン(福音教徒)たちの使用していたもので、シリア語は中国では唐代、宋代、元代で生きていました。

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十字のついた器は中央アジアウズベキスタンで出土した7~8世紀の作で、景教徒の骨を納めた箱ではないかと考えられます(サマルカンド国立文化歴史博物館所蔵)

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西方世界の言語はギリシア語でしたが、東方世界の言語はアラム語、シリア語で、へブル語を話すユダヤ人には身近な言語でした。旧約聖書ギリシア語訳ではなく、シリア語に訳していくことにより聖書が社会に定着し、シリア語は中国まで伝わっていきました。

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法隆寺には、ソグド文字を刻した香木が残され、日本にもソグド人が来ていたと考えられます。それには十字が刻され、景教徒のうわさが起きました。

景教徒は、バルク以外に現在の新疆ウイグル地区のトルファン地域の高昌でも集会を開いていました。そこの壁画に、景教徒たちの描いた絵が発見されています。この壁画はドイツの探検家ル・コックが景教会堂で発見しました。

景教徒は敦煌でも集会を開いていました。その地からは、600年代中頃に漢文で書かれたイエスの降誕記事、マタイの福音書7章やイエス伝が、宋代初期に敦煌の石室で発見されました。『序聴迷詩所経』と『一神論』です。『序聴迷詩所経』はイエス・メシア経と訳します。本書にはヨルダン川での洗礼の記事、十字架の様子も書かれています。その一部を紹介していきます。本経典の原本は大阪市にある「武田科学振興財団 杏雨書屋」が所蔵しています。

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 敦煌のオアシスでの生活

景教徒たちは砂州と呼ばれていた敦煌で生活していました。緑も水も見られない敦煌トルファンの砂漠の地で、多くの果物が栽培や販売もされ、葡萄も多く作られていました。地下に大量の水の道が流れていて、その水で生きていたからです。天山山脈崑崙山脈からの雪解けの水が大量の地下水となりました。地下水は、西はアフリカからシリア、イラン、東はトルファン敦煌へと続いています。その水の取り入れ式をカレーズ法と呼び、20メートルの深さに縦穴式井戸を作り、多くの地下水を利用していました。

中国の史書漢書』や『魏書』の西域伝には、カシュガルには多くの民族が行き交い、店には行列もできるほど栄えていたことや、6世紀の高昌の様子も描かれていて、砂漠でも気温は高く、麦は年に二度作られ、養蚕や果物の栽培を行い、多くのブドウ酒や良質の塩を中国に献上していると書かれています。

砂州敦煌での集会

イギリスの探検家スタイン(1862~1943)によって1908年に発見された敦煌景教徒たちの集会室の壁画には、指導者の貴重な絵が描かれていました。彼の頭の帽子や胸には十字の記章がついています。右手は三位一体神の「三」とイエス・メシアの神と人の二性を「親指と中指」で表現しています。発見された画をもとにロバート・マクレガーが複製画を作成しました。

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右手の印が、仏様と似ていませんか

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空海は唐に渡り、キリスト教のアウトラインを知った!?

空海は804年に遣唐使として入唐し、およそ2年間、都の西安を中心に遊学し密教を修得しました。彼は景教を通してイエス・メシアや聖書の教えに接したのではないかとも考えます。景教会堂の大秦寺は西安城内西の義寧坊区にあり、景教碑も781年に建ちました。当時の景教徒たちは四方八方に住み、集会は様々な場所で行われていたと考えますと、誰でも景教徒たちに出会うことができ、質問もできる状況にあったと思います。空海は聖書の教えについて知り得たと考えます。なぜなら、密教には聖書の教えに似た部分が多くあるからです。

両者の背景と土台が違う中、洗礼式に似た灌頂儀式、洗礼による罪の赦しと灌頂による罪の赦し、主イエスを信じた者の即座の救いの信仰義認と即身成仏の教え、神が共におられる恵みと同行二人の教え、空海兜率天への昇天・終末に再来するとの教えとイエス・メシアの昇天・再臨の教えや信仰、十字を切ることと中印など似ている部分もあり、それらを取り上げて書いていきたいと考えています。

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「16世紀のイエズス会宣教師たちは、高野山空海について次のように書いている。『共和国の一つは高野と称し、坊主4500人が同所に居住し、同所には女子も家畜も一切入れず、諸宗派中最も嫌悪すべきものである。約700年前、悪魔の子にして、シナより初めてこの醜悪なる教えを将来せし人を、生きながら同所に埋葬した。生きながら埋めた時、彼は眠りに就き、その後数千年を経て弥勒菩薩と称する他の仏と共に再び来って、世界を再建するであろうと言った。この人は弘法大師と称す』(イエズス会日本年報下114頁)」

イエズス会は、高野山を共和国とみなしていたんですね。

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空海大日如来と一つになったといわれます。なぜ一つになれたのか、それは大日如来が近くにおり、一緒にいることを観じたからです。空海の言葉には、次のような聖書に似た言葉があります。

三宝(仏・法・僧)を信ず。法身大日如来)はどこにおられるのか。遠くにおられるのでなく、身のうちにおられる。如来の教えはどこにあるのかというと、私の心にあり、近くにある。過去もなく永遠に天にある(帰命三寶。法身在何不遠即身。智体云何我心甚近。本来无去。鎮住満月之宮)」(『性霊集』巻第7より)

仏法、遙かにあらず、我が心中にしてすなわち近し。真如(悟り)、外に非ず、身を棄てて、何んか求めん。迷悟我に在れば、発心すれば、即ち到る」(『般若心経秘鍵』より、明曠著『般若心経疏』参照)

法身仏である大日如来が近くにいるゆえに、心を仏に向ければ、遠くに探さなくてもいいと教えました。今も真言宗では、仏は近くに、心の中にいるから仏道に励むよう説いています。これは聖書の言葉と教えに非常に似ています。

聖書の言葉

神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17:21)「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある」(ローマ10:8)

聖書には、インマヌエルという言葉がありますが、ヘブル語で「神が私たちと共におられる」の意味です。イエスの降誕により、また信じた者によって「神が私たちと共におられる」ことが現実となりました。

なぜ空海の言葉に、聖書に似た言葉があるのでしょうか。おそらく空海が中国に渡ったとき、当時のクリスチャンである景教徒たちから聞いたと考えます。密教その他の経典には、聖書に似たこのような教えがないからです。

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いろは歌には謎があります。それは下の段の右から読みますと「とがなくてしす(咎なくて死す)」となり、その方は誰かと考えられてきました。平安時代大江匡房空海説を唱え、真義真言宗覚鑁は、仏教的に「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」としました。ここから空海の作と言われ、現在は曲をつけて真言宗の宗歌として歌われています。

しかし、「咎(罪)がなくて死なれたのはイエスだ」との説が浮上しました。なぜなら上段右は「い」、上段左は「ゑ」、最後が「す」でイエスとなり、上段右から「いちよらやあゑ」と読んでいっちょら(一張羅)となり、「咎なくて死なれたのはイエスで、この方ひとり」となります。こじつけてしまいましたが、このように読むなら「いろは歌」は非常に福音的な詩であり、日本文化のかな文字を用いた宣教用テキストの一つと考えられます。

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中国景教遺跡巡りツアーレポート

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碑林博物館の中に入ると奥の部屋の第22室に景教碑が置かれてありました。

温故知神—福音は東方世界へ(33)中国景教遺跡巡りツアーレポート① 川口一彦

ガイドは碑の下部の動物が日本では亀とか亀台と言っていますが、中国では亀文化がないので上部に彫られた龍の九番目の子のビシと言ってくださいと言われました。

また唐代に書かれた碑や文章の中の「民」の字には一画が欠けているということでした。理由は唐代を創立した皇帝が李世民でその名称の「民」を恐れ多いとして国民にそのように命じたということでした。

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内モンゴルの博物館を訪問

ツアーの一行は、北京から飛行機で内モンゴル呼和浩特(フホホト)空港に飛び、そこからマイクロバスでシャラムレン博物館と百霊廟(パイリンミャオ、その北のオロンスムでは十字墓石が多数発見)にある博物館へと向かった。シャラムレンと呼ばれる所と、さらに北にある百霊廟では1936年前後から、十字とシリア文字が彫られた信徒の墓石が多数発見され、調査がなされた(江上波夫氏は1935[昭和10]年に現地調査に出掛けていた)

中国の元の時代には景教と呼ばれる名称はなくなり、也里可温(エリカオン=福音の意味)と呼び、会堂は大秦寺から十字寺になった。陰山山脈を過ぎて北方面の百霊廟、オロンスム地域には多くのオングト族たちが支配しており、その中にキリスト教徒のエリカオン信徒たちが生活していた。最初に訪れたのは包頭(パオトウ)市のシャラムレン博物館であった。中に入ると草の上に無造作にシリア文字の聖句の入った墓石が置かれてあった。

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北京の三盆山の十字会堂跡(元の時代)を訪問

この地には、唐代に建設された景教会堂があります。845年ごろの武宗皇帝による外国宗教への大迫害で多くが殺害され、追放の果てに廃墟となりました。やがて1358年に修復してそこに十字寺会堂を建設し、一つの石碑「十字賜」が建立されました。現在、ここは国の重要文化財となっています。

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福建省泉州には、元代に活動していたエリカオン(福音)信徒たちの墓石が多数発見され、当地の博物館に保管展示されています。その一つの碑が2008年愛知県瀬戸市愛知県陶磁資料館で一般展示されました。

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碑にはシリア語が刻され、十字の先端には三つの円が描かれているのは唐代景教徒たちの墓石や景教碑の十字のシンボルと同じで、三位一体の神をシンボルしたと考えられます。

中央アジアキルギスの信徒墓石

2005年愛知県瀬戸市愛知万博中央アジアキルギス館には景教徒墓石が展示されました。キルギス国周辺には多くの信徒墓石が発見されています。この墓石にも十字の先端に三つの円が描かれ、周辺にはシリア語が刻されてあります。

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北京で発見された10世紀ごろの景教徒によるシリア語祈祷書には、殉教者の記事があり、その一文に、殉教した者は景教徒商人・ビジネスマンであったことが記されています。もともと景教徒による伝道は多くのビジネスマンたちによるものでした。その商人たちはソグド人が多く、ソグド人信徒の墓碑が洛陽で発見されています。

当時の彼らは、生活が保証されていた西方教会の指導者たちとは違い、イスラムが支配的になった本国のペルシャには帰れず、自分自身の全生活をかけて宣教に従事するためには、テントメーカー(自給自足の開拓伝道者。例えば異邦人宣教の使徒パウロのように)として生きることでした。信頼するのはお金でなく全能の主なる神様であり、神様からの恵みと守りと導きでした。

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佐伯好郎と同時代の研究者たち

佐伯好郎は英語と漢語に堪能でありましたので、中国の遺跡発見場所に出向いて調査し、それをさまざまな機関で発表することにより、啓発された人々がさらに研究し発表するようになりました。

同時代に景教の調査と発表に関わった主な方として、石田幹之助は『長安の春』(創元社を、羽田亨は『西域文明史概論』(弘文堂書房)を、桑原隲蔵[じつぞう]は『東洋史説苑』(弘文堂)、『考史遊記』(弘文堂書房岩波文庫)などを、騎馬民族征服王朝説で知られる江上波夫は『モンゴル帝国キリスト教』(サンパウロ)、『オロン・スム遺跡調査日記』(江上綏(やすし)編、山川出版社)などを出版、後進の研究者に多くの影響を与えてきました。

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空海景教との関わりについてははっきりした証拠はありませんが、著者が代表する日本景教研究会の機関誌において発表されたところを紹介しますなら、空海の中国でのサンスクリット梵語)語の先生の般若三蔵と景教碑の撰述者の牧師の景浄とが知り合いであったことは事実で、また空海の書物の中には聖書に似た言葉もあり、真言密教の儀式にはキリスト教に似たものもうかがえます。

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京都市右京区太秦森ケ東町50番地に蚕ノ社(かいこのやしろ)があります。その社の奥には石柱で作られた三柱(みつばしら)鳥居があり、江戸時代には木製であることが葛飾北斎の絵(『北斎漫画「江戸百態」』)で分かり、かなり以前から設置されていたことも分かります。この絵には、神道の紙垂(しで)はありません。

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ここの由緒書きには、ここが古代キリスト教景教徒の礼拝場所と書かれています。鳥居の下で洗礼式をしたのではないかと思います。平安時代から遣唐使や多くの往来があった京都で、キリスト教のそれらしき遺跡が発見されるならうれしいことと思います。

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エスあるいはイエス・メシアの表記

翳數(イエス)➡ 一神論の中の世尊布施論に2回。
移鼠(イエス)➡ 序聴迷詩所経に2回。
移鼠迷師訶(イエス・メシア)➡ 序聴迷詩所経に1回。
一尊弥施訶 ➡ 志玄安楽経に2回。
普尊弥施訶 ➡ 景教三威蒙度讃に1回。
景尊(景教の尊主)➡ 景教碑に1回。
世尊 ➡ 一神論の中の世尊布施論に30回。景教三威蒙度讃に1回。
皇子 ➡ 尊経1回。
聖子 ➡ 景教三威蒙度讃に3回。
明子 ➡ 景教三威蒙度讃に1回。
応身 ➡ 尊経1回。
分身 ➡ 景教碑1回。
大聖 ➡ 景教三威蒙度讃に1回。
大師 ➡ 景教三威蒙度讃に6回。

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中国唐代のイエスを信じていた景教徒リーダーの名称について

どの時代にも、どの教会共同体にも、信徒数が増加すれば教会組織の運営・管理がなされていきます。初代教会の組織には、使徒預言者、牧師、教師、監督、長老、執事、巡回説教者などが立てられていました。(新約聖書福音書パウロの手紙他に掲載)

漢訳すると、大司教、総主教(パパシュ)、上徳、大徳、長老、法主、執事長、僧などとあります。僧と書かれた肩書のある人物はシリア語名も書かれ、約70以上の名前が彫られています。しかし、僧といっても当時はどの宗教教団の指導者も僧と呼んでいました。現代は、僧の肩書は仏教指導者だけのものですが、当時はイスラム教も含め全ての宗教指導者は、僧、大徳、上徳とも呼んでいました。紀元635年、ペルシャから唐に布教のために派遣されてきた初代宣教師の阿羅本は、大徳、大法主とも呼ばれていました。現代人が現代的な文字感覚で読むなら大きな誤解を招き、仏教の影響を受けたとも言いかねません。

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中国唐代に景教が中国全土で栄えた理由

景教はひそかに入ったのでなく、皇帝に接見して主イエスの教えを公的に大胆に伝えたことによりました。

温故知神—福音は東方世界へ(55)景教小事典⑩中国唐代に景教が中国全土で栄えた理由 川口一彦

その資金は中国が援助しました。景教碑には「諸州各置景寺・・・」とあり、諸州とは全国、全ての州、中国全土を意味します。各地に景教寺院の会堂が建てられていったことを伝えています。

景教碑には「法流十道国富元休・・・」とあり、「法流」とは教えが伝わったこと、「十道」は全国、国が富み、繁栄したと伝えます。キリスト教が中国で栄えたことから国が富み繁栄していきました。

745年(天宝4載)に、名称を「波斯教」から「景教」に改名しました。ペルシアから来たゾロアスター教マニ教イスラムと混同されないため区別することにありました。当時の仏教僧からは弥施訶(メシア)教とも呼ばれていました。

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始皇帝の母の墓が十字架の形をしていたのを以前youtubeで見たので、中国王朝メンバーがキリスト教を信じていたことがあったのは知っていました。

唐の時代、中国全土に教会が建てられて、キリスト教が盛んであったというイメージがなかなか湧きませんが、そういう時代があったのですね。開封という都市にもユダヤ人が多く住んでいたと読んだことがあるのですが。

玄宗皇帝と安禄山は有名ですよね。楊貴妃が日本に亡命してきたが間も無く亡くなり、侍女が皇帝に報告に帰国したところ、観音像を渡されたとどこかで読みました。観音像はマリア像だったんでしょうか。