好きなもの、心惹かれるもの

本、映画、音楽、陶器、織物、工芸品をご紹介します。

大秦景教流行中国碑

これも「失われたミカドの秘紋」の中に出てきました。亀の上にこの大きな石碑が立っています。二匹の龍らしきものに囲まれて、上の三角部分に十字架が彫ってあります。

ロシア語で映画「サウンド・オブ・ミュージック」を見ていたところ、家族全員の食事風景で、食前の祈りをマリアが短く唱えたあとアーミンと聞こえるのです、アーメンではなくて。「失われたミカドの秘紋」でも浄土教ユダヤのJewで、阿弥陀仏のアミはキリスト教のアーミンから来ている、という場面があります。実際にその発音を聞いて、この仮設もありえると思えるようになりました。

キリスト教が唐にやってきた景教徒たちによって広まったのちに、浄土教となってアーミンが阿弥陀仏に変化して日本に入ったという仮説や、漢字は聖書のストーリーからできているというこの本の仮説はなかなか面白いです。古代ヘブライ語はアーメンではなくアミに近い発音だったという話がp393にあります。実際にロシア語ではアーミンと現代でも発音するのを聞いて、アーミン→アミ→阿弥陀 と変化していったのが感じられます。

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この拓本は十字架がよく見えます。

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達筆で、褚遂良に似ている気がします。

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指導者の名前がズラ〜っとシリア語だそうですが、面白いです。ペルシアやトルコ系の僧なのでしょうか。立本はリッポンでしょうか?その隣の和明ってまさか日本人でしょうか?法源も日本人でもありそうな名前です。僧とは仏教ではなく、どの宗教にも使われたそうです。この場合は景教の指導者。

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 牧師 川口一彦師が、以下のように懇切丁寧に解説してくださっています。あまりに長いので、途中から途中まで抜粋させていただきました。下の方に、元記事のURLがあります。この川口牧師の解説を読むと、景教と仏教が混ざり合っている気がします。どちらもキリストと仏陀が直接書いた聖典ではなく、のちに弟子たちが書いたのですから、だんだんバイアスがかかっていったり、他の宗教の影響を受けて行ったのでは。

 

 著書『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』イーグレープ 2014

仏教からクリスチャンへ―新装改訂版―』『一から始める筆ペン練習帳』『景教のたどった道』(韓国語版)ほかがある。

 

非常に興味を惹かれるのは、伊斯という景教の指導者、ラビのような感じでしょうか、を唐将軍が、従軍外交官のように使っている点です。中央アジアのバルクから唐に来ていたので、アラム語母語とするシリア語や、反乱軍たちが話すソグド語も理解していたから。

これは、皇太子時代の平城天皇が、空海を外交官として5年従軍させて中国大陸で唐のために戦った史実とあまりにもよく似ているのです。このことについて詳細は、小林惠子著「空海と唐と三人の天皇」をご参照ください。空海は、中国語の方言をいくつか、朝鮮語アラム語やペルシア語が理解できたかもしれません。

また、空海は唐から帰国後、九州の宗像市に鎮国寺を創建しましたが、これが景教の寺だったのではないか、空海が師事した西明寺の般若三蔵とは、大秦寺にいたペルシア人宣教師景浄と「理趣経」をペルシア語から漢訳した人物だそうです。「失われたミカドの秘紋」p387より。

p365には、日本の法然親鸞に影響を与えた日本浄土教の父、善導がいたお寺は光明寺大慈恩寺であった。この二寺は景寺と呼ばれていたほど景教と繋がりが深い。慈恩はシオン、エルサレムの別名である。とあります。

思い浮かぶのは光明子光明皇后です。知恩寺慈恩寺も似ていますね。

 

以下 川口一彦師 2018年のコラム:クリスチャントゥデイより

 

[注]大秦は、広義には古代の東ローマ帝国を指す。狭義ではユダヤを指し、景教文書では狭義的に使われる。碑文のこの箇所と、『景教宣元本経』には大秦國那薩羅(ナザレ)城とある。中国の歴史書の唐会要49巻に「天寶四年九月に詔して曰く、波斯經教、出自大秦・・波斯寺を改め大秦寺と宣す」とある。

 

<解説>十字を印としていたとは十字を切ること、十字にかたどったものを身に着けていたことがうかがい知れます。今日多くの信徒が十字を貴ぶのと似ています。鬚はあごひげのこと。外面的には鬚や頭頂部をそることをして正しい者であることを証ししていました。

日本では織田信長から始まったとされる頭頂部をそるのを月代(さかやき)と言い、明治時代初期までその習慣がありましたが、ドイツ宗教改革者で修道士マルティン・ルターもそっていました。ラテン語で「トンスーラ」と言い、ローマ・カトリック教会の修道士が古くからする習慣があり、その元は東方教会ともいわれます。イエス・メシアが十字架にかけられたときの頭部のいばらの冠を頭髪とし、その内側をそることによりメシアの証人とする説もあります。

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<現代訳>太宗文皇帝の治世が光り輝き、民を明るく統治していたときに、大秦国の優れた宣教師阿羅本が状勢を占い、聖書などの経典を携え

<解説>太宗は書を能くし特に王羲之の書を収集、臨書し自身も能書家となった。唐には日本を含め50以上の諸外国の往来があったといわれる。

大秦国とは、唐から西方の国々を指すが、特に西アジアイスラエルを指し、一般にローマ帝国を指す。景教の経典には大秦国ナザレとあることからイスラエル説が出た。京都の太秦は大と太の点があるのとないので違うが、文字的には太は大よりもさらに大きい意味から、太平洋は大西洋より大きいゆえに太となる。唐よりも京都のほうが大きいことを示したいこと、京都には秦国の民が唐よりも多く住むようになったことから、あえて太秦としたのであろうか。

[注]阿羅本はペルシャ人で読みは不明。アラホン、アラベン、アブラハム、アルワーン、アロペン、ラバン等の読みがある。景教徒の初代宣教師。生没年は不詳。宣教師が来る前には商人の信徒がおり、彼らの中にはソグド人もいた。

阿羅本の肩書に大徳・上徳とあり、大徳は12冠位の最高位で皇帝の前に出られる立場である。皇帝に景教を伝えて後に受けた冠位と考えられる(日本では小野妹子が大徳の冠位を受けた)。

阿羅本は困難な中、真経(聖書)と像を携え、皇帝に献上した。635年のことである。経・教・像の3点が挙げられ、経は聖書で、教は聖書や景教の教えで、像は碑文にしかないがイコンと考えられる。イコンは聖画像のことで、特にメシアの聖画や使徒たちの聖画であろう。

中国宋代に敦煌の石室で発見された『序聴迷詩所経』(636年ごろの作)と『一神論』(642年ごろの作)は阿羅本の作と考えられ、おそらく長安の翻訳書殿で翻訳の推敲の中、未完成で作成したものと思われる。阿羅本1人だけが作成に取り掛かったのでなく、複数のペルシャ人信徒や随行指導者や通訳者たちもいたことは当然考えられる。

真経とは、日本では聖書のこと。現代中国語の聖書は「聖経」と書かれる。

<現代訳>(太宗皇帝は)図書館で経典類を翻訳させ、教えを宮中で問い、深く真理を理解されると特に伝道を命じられました。貞観12(638)年の秋、皇帝は勅令を出し、「道の名は知られず、そのような聖もない。だから多くの民に教えを説き、民を救え」と伝えた。

<解説>初代宣教師が入京し、シリア語の景教諸経典を漢語へと翻訳作業を進めてから約3年が経過。この間、皇帝と総理大臣など政治家や役人幹部に景教について説明する。その内容を聞いた皇帝たちは宣教を許可し、教えを全土に広める計画と、財政支援を授けることになったと考えられる。最初に訳したのがイエス伝の『序聴迷詩訶經』(636年ごろ作)と考えられる。その後で用語を統一して作成した『一神論』(642年ごろ)、続いて翻訳が出されていったと考えられる。

635年には尊経を作成している。その時の作者は西域大徳阿羅本が中夏にいたときとなっており、のちに781年に建立された景教碑の撰述者、景浄がまとめたと記述していることから、多くの翻訳を阿羅本が手掛けていったことが分かる。阿羅本と景浄との年齢の開きは確定できないが、碑の建立日が781年、宣教師の入唐が635年、150年ほどの開きがあり、互いに面識がない。しかし、景浄は阿羅本の翻訳作業と宣教活動を継承していったと考えられる。

<解説>宣教師と供の者たちは太宗皇帝に対し、ペルシャから唐に来た理由を伝えた。そして自分の信じる神や救い主イエス、聖書やペルシャの地理に関して伝えた。また、図書館では聖書を漢訳し、やがて3年が経過すると、皇帝は宣教の許可を与え激励した。彼らは皇帝にシリア語の聖書類、漢訳本やイコン(聖画類)を献呈した。この時期に『一神論』や『序聴迷詩所(イエス・メシア)経』、その他の翻訳本が編さんされたと考えられる。阿羅本宣教師は、大徳という称号を皇帝から受けた。

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<現代訳>役人たちは長安城内の一画にある義寧坊に大秦寺を建て、指導者たち21人を迎えました。昔、宗周の時代、宗家の徳が失われたとき、西に昇る青駕のように、偉大な唐の道が光り輝き、景教は東の中国に来ました。役人たちは・・・

<解説>大秦寺の文字は碑文冒頭にも出るが、大秦とはユダヤのこと。ユダヤのイエスの教えであることから景(景は世界の光イエスの意味)教とした。以前の名称はペルシアから来たことから波斯(ペルシア)寺と呼んでいた。景風はイエスの教えのこと。

温故知神―福音は東方世界へ (77)大秦景教流行中国碑の現代訳と拓本22 川口一彦

宗周とは紀元後の人と時代で、その時代が過ぎて、唐の時代となって栄え始めたときに景教長安に来たという。唐代の開始は紀元618年で、17年後の635年に初代宣教師が公的に中国に入った。その時代は太宗皇帝が全土を掌握し、安定に向かっていた時期でもあった。

<現代訳>阿羅本は鎮国大法主[注1]となって尊ばれ、福音は国の十道区画[注2]に流れ、祝福に富み、景寺は百城に満ち、家庭も景教の祝福であふれました。
則天武后の聖暦年698年に仏教徒(釈子)から景教は東周(首都の洛陽)の地で悪口を受けました。

[注1]鎮国大法主は、唐の皇帝が宗教指導者に与えた名誉称号。
[注2]十道は、中国全土の区分のことで、『舊唐書』地理志一に「一は関内道、二は河南道、河東道、河北道、山南道、隴右道、淮南道、江南道、剣南道、十は嶺南道」とある。733年には15道となる。景教会堂は至る所に設置されていたことも分かる。

僧首とは主教・牧師のこと。大徳とは大主教・監督のこと。及烈(ガブリエル)は、玄宗皇帝の開元2(714)年に波斯(ペルシャ)から長安に来ました。

『冊府元亀』巻546には「開元2(714)年に波斯の僧及烈が奇器(珍しい器)を造り進呈す」とあり、『冊府元亀』巻971に「開元20(732)年9月、波斯の王が首領の潘那密と大徳僧及烈を遣わし朝貢す」とあり、同一人物との説が挙げられました。また『冊府元亀』巻975に「開元20(732)年8月、波斯の王、首領潘那密と大徳僧及烈を遣わし来朝す。僧(及烈)は紫の袈裟を賜る」とあります。

[註]紫袈裟とは、皇帝から賜った栄誉の衣服でそれを着用して皇帝に接見しました。

[註]当時はどの宗教団体の指導者も僧という文字が使われていました。現在では仏教僧侶だけですから誤解が生じるかと思いますが、当時の社会事情を学ぶことにより、誤解が解消できると考えます。大切な言葉の1つです。

[註]伊斯とは、唐皇帝に仕えた品位の高い景教徒で、シリア語名ではイズドボジードとの説があり、同一人物なら景教碑の下部分にシリア語で彼の名と業績が彫られた者といえます。玄宗の後の粛宗皇帝が伊斯を遠く朔方(突厥)に派遣したのは在位年の756年から761年の間で、イラン系の伊斯と同じイラン系ソグド人の安禄山安史の乱を起こし、その平定に適当と考えられたと思われます。

[注]郭公子儀は唐代の名将で、玄宗、粛宗、代宗、徳宗の4代の皇帝に仕えた。安禄山の乱の際、皇帝を助けて国家再建の功労者となった。クーデターを平定し、779年徳宗皇帝即位後に大尉中書令の最高官、汾陽郡の王となった。孫が皇帝の后となり、穆宗皇帝は曾孫に当たる。

<解説>郭子儀が765年にウイグル軍の協力を得て吐蕃軍を平定したとき、従軍したのが伊斯でした。彼が現在のアフガンの北、中央アジアのバルクから唐に来ていたので、アラム語母語するシリア語や、反乱軍たちが話すソグド語も理解していたからです。 

伊斯の活躍とは、軍事上と信仰上において献身的に仕えたことです。一部のソグド人たちの安禄山ほかが反旗を翻して玄宗や粛宗皇帝を攻めたとき、中央アジアのバルクから来た伊斯が、事情に精通し、文武に長けていたことから用いられました。その功績によって皇帝から受けた金品を、信徒や貧しい者を支えるために捧げた行為がここに記されています。拝領した金銭で景教碑も建てられました。

達娑(タルサ)とは、ペルシャ語で信徒のこと。中央アジアキルギスには、首都ビシュケク近くにカラツカチがあり、かつてはタルサケントと呼ばれていました(写真は2017年に現地で撮影)。ケントは町で、タルサたちの住む町といえます。多くの東方教会信徒たちが住んでいたことが、元の時代に数多く作成された十字墓石の発見で分かっています。

彼らの源流は中国景教徒たちで、845年ごろに中国武宗皇帝による宗教弾圧があり、外国からの諸宗教の指導者や信徒たちを国外追放したことにより、東西南北に離散し中央アジアにも生き延びていきました。この信徒たちは景教の名称を使わず、也里可温(エリカオン=福音の意味)と呼ぶようになりました。会堂名も、それまで使用していた大秦寺や景寺という名称をやめ、十字寺としました(ちなみにネストリアンと呼ぶのは西方教会側での蔑称で、景教やエリカオン東方教会はネストリウスとは無関係)。

この部分には、景教碑を建てる理由と目的の1つが記されてあります。それは、神と人に献身的に仕えた伊斯の活躍が、中国景教を再建し、立派にしたこと、その献身的内容を忘れないために記録保存することでした。景教碑では、中国の皇帝は太宗から語られています。初代の宣教師が来唐して宣教の許可を下し、各地に会堂を建てて展開した時代が太宗の代だったからです。 

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<現代訳>時の法主である寧恕(ヨハネか?)は、東方景教徒の主管者(総主教)です。朝議郎前行台州の呂秀巖が書きました。

呂秀巖について
碑を書いた呂秀巖は、土木工芸を管理する職にあることから書にも優れていました。また景教神学校の校長ともいわれます。彼は呂一族で先祖は秦の始皇帝の父、『呂氏春秋』(始皇8年、紀元前239年に完成)の作者である呂不韋と考えられます。彼の子孫が東アジアに多く、韓国の韓国教会新聞社社長の呂容悳博士もその一族。その系図があると言って見せてもらいました。

 

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<解説>
この部分は景教碑の碑陽下部にあるシリア語で、その意味を理解すればさらに碑文と彼らの活動がうかがえる。彼らは時の皇帝に、イエスの教えを伝えたことが分かる。次に碑文の撰述者の景浄は、碑陽の後半に出る伊斯の子であり、父が皇帝から受けた財産を自分のために使用したのでなく、貧しい者への施し、景教会の発展にささげたことを伝えていることが分かる。僧とあるのは、当時のすべての諸宗教の指導者に使用していたもので、今日的に使用される仏教徒だけをいうものではなかった。

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<解説>
両側面にはシリア文字で指導者の名前が彫られています。左側面には景教碑を見に来た人物が、景教碑があまりにもよく造られていたのを感動して、シリア文字の上に楷書体で書き込みました。それを訳すと、「(碑が建立された781年から)1079年後(つまり1859年、咸豐9年[1859~60]のこと、中国清の時代)、武林(武林は現在の杭州)の韓泰崋が見に来た。幸いに文字が完全に整い、重ねて碑亭を造り覆った。惜しいことに亡くなった友人の呉子苾方伯が見に来れず、嘆くばかりである」となります。

次に上段のシリア文字と漢語を記しました。以下の僧とは指導者で、牧師または長老を指します。大徳曜輪はシリア語で、マール・ヨハナン、大徳は主教または主任牧師。僧日進は、牧師イサク。僧遙越は、牧師ヨエル。僧廣慶は、牧師ミハエル。僧和〇(=土へんに口)は、牧師ジョージ。僧思明は、牧師マハダ・グースナサ。僧寶達は、牧師ムシャダ。僧拂林は、牧師エフライム、父祖ダビデ。僧福壽は、牧師モーセ。シリア語の読みは、唐代ではどのように発音したかは不明で、カタカナ表記も不明な部分があります。(シリア語はセム語と同じ右から左に書いて読む)

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