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大仙陵古墳

有名な大仙陵古墳、大仙公園へ行ってきました。行ってみて感じることがあって、行って良かったなと思います。気になったことを箇条書きにしておきます。古墳の上に19万本の木を植えたのは明治だから、秀吉が古墳で猟を行ったというのは、不自然な気がしました。木のないところに動物や鳥がいるとは思えないから。うーん、でも雑木雑草は生えていたでしょうね。古墳の上で猟?当時はお堀に水もなかったはずなので、できなくはないでしょうけれど。明治20年から3年かけて、墳丘を覆っていた笹を伐採して、松、杉、樫などの苗木19万本以上を植えたとwikiには書かれています。

 

*江戸時代前期の1684年貞享元年)に著わされた『堺鏡』には、豊臣秀吉が当古墳でしばしば猟を行っていたと記されている。   

*盗掘されているー江戸中期の1757年宝暦7年)に書かれた『全堺詳志』には長さ318cm幅167cmの巨大な長持型石棺が認められ、しかも盗掘されている旨が書かれている

*江戸時代には住民の立ち入りが認められていたため、この付近の庄屋であった南家の1795年の文書には「素焼ノ水瓶」(埴輪)が並んでいたことや「コロタ石」(葺石)が多いことが記されている

アメリカ合衆国ボストン美術館に仁徳天皇陵出土とされている銅鏡や環頭大刀などが収蔵されている。これらの品は、1908年(明治41年)には既に博物館に所蔵されていたようで、梅原末治によって紹介されている。

→これらの出土品は、江戸時代に盗掘されて、米国へ江戸末期に移ったのでしょうか???

ネットで拾ったボストン美術館にある出土品。

*古代、御陵の上に植林はされていなくて、お濠に水もなかった。明治時代、おそらく国家神道を進めるために、19万本もの植林を行い、水も入れた。水は梅雨時は溢れないように、真夏は日上がらないように、鉄管を通して管理されている。

wikiから

採集されている円筒埴輪須恵器の特徴から5世紀前半から半ばに築造されたものと考えられている。前方部埋葬施設の副葬品は5世紀後期のものと考えられるが、前方部に存在する副次的な埋葬施設の年代として問題ないとされる。

治定について

古事記』『日本書紀』『延喜式』などの記述によれば、百舌鳥の地には仁徳天皇履中天皇反正天皇の3陵が築造されたことになっている。しかし、それぞれの3陵として現在宮内庁が治定している古墳は、考古学的には履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)→仁徳天皇陵(大仙陵古墳)→反正天皇陵(田出井山古墳)の順で築造されたと想定されており、大きく矛盾が生じている。このことから、百舌鳥の巨大古墳の中で最も古く位置づけられる伝履中天皇陵を伝仁徳天皇陵にあてる見解もある。しかし、この場合は後述(#延喜式)する『延喜式』の記述と大きく食い違うことになる。

大仙陵古墳の規模について、堺市博物館の公式サイトでは以下の数値を公表している。ここでは「 -> 」の後に 2018年4月12日宮内庁の三次元測量調査による修正値を記載する

  • 古墳最大長:840メートル
  • 古墳最大幅:654メートル
  • 墳丘長:486メートル -> 525.1メートル(一説には522メートル)
  • 墳丘基底部の面積:103,410平方メートル -> 121,380平方メートル
  • 後円部 - 3段築成
    • 直径:249メートル -> 286.33メートル
    • 高さ:35.8メートル -> 39.8メートル
  • 前方部 - 3段築成
    • 幅:307メートル -> 347メートル
    • 長さ:237メートル -> 257メートル
    • 高さ:33.9メートル -> 37.9メートル

墳丘長は、第2位とされる大阪府羽曳野市誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の425メートルを上回り、日本最大である。墳丘本体の体積はコンピューター計算により164万立方メートルと、水面上の体積だけで誉田御廟山古墳の143万立方メートルを超えていることがわかった。525.1mと水中4mからは40メートル以上も全長が伸びて、水中からの体積は210万立方メートルにもおよび羽曳野市誉田御廟山古墳(応神天皇陵)よりも体積もさらに大きくなる。誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の体積143万立方メートルはカラの濠からの体積で変化はしない。底面積・表面積共に121,380平方メートルは誉田御廟山古墳よりもはるかに広くなる。宮内庁の調査は重要で考慮しておく必要がある。なお一重濠の下にはヘドロが水の2倍以上も堆積していて墳丘の裾はヘドロの中に食い込んでいて600m以上ある可能性もある。体積は300万立方メートル以上と秦の始皇帝陵を超える体積の可能性もある。

墳形・周濠

前方部を南に向けた前方後円墳で、前方部と後円部のつなぎ目のくびれ部には左右に造出しを設けている。墳丘は3段からなるが墳丘には多くの谷があり、宮内庁所蔵の実測図でも墳丘の等高線の乱れが著しい。この谷の成因については自然崩壊のほかに、墳丘が未完成だったという説も提起されている

現在墳丘は三重の周濠で囲まれているが、江戸時代元禄年間に当時の堺奉行所の指示で最外部の濠は一部を除いて地に開墾され、ほぼ二重濠のような見かけになっていた。江戸時代の絵図『舳松領絵図 上』に三重目の濠の南西角周辺が残存した姿が描かれており、また残存部以外でも農地の地割に濠の痕跡が認められるため、濠は元々は三重であったと考えられる。現在の三重目の濠は埋没部分を1896年明治29年)に掘り直し、復元されたものである。明治政府によって行われた再掘削工事によって濠が築造時通りに復元されたかは疑問が残る

周濠は内側から第1堤、第2堤と呼ばれており、2021年には第1堤の幅約2メートルの上端両側に、直径30~35センチの円筒埴輪を繋げて並べた列が発見され、この2列が第1堤を1周していたと推定された。また貴人のかぶる笠を模した木製品を立てた跡らしきものも発見された。5世紀前半から中頃の築造と見られている

最近の発掘調査によると、前方後円墳の築造時には墳丘の斜面は葺石で覆われ墳頂部には円筒埴輪が並べられていたとされ、五色塚古墳などそのような外観で復元される古墳が多い。大仙陵古墳で明治維新の直前から現在まで研究者などの立ち入りが極めて例外的にしか認められていないが、上記の三重濠掘削の際に出土したと言われる女子人物頭部や馬の頭(以上は宮内庁所蔵)や、東側の造出しから多数の大の破片が出土したとされる。また江戸時代には住民の立ち入りが認められていたため、この付近の庄屋であった南家の1795年の文書には「素焼ノ水瓶」(埴輪)が並んでいたことや「コロタ石」(葺石)が多いことが記されている

埋葬施設

 
石室・石棺図(複製)
前方部中段で発見されたとされる竪穴式石室長持形石棺の絵図。堺市博物館展示(原本は八王子市郷土資料館所蔵)。

後円部は最も重要な人物が埋葬されるが、江戸時代には埋葬施設の一部が露出していた。江戸中期の1757年宝暦7年)に書かれた『全堺詳志』には長さ318cm幅167cmの巨大な長持型石棺が認められ、しかも盗掘されている旨が書かれている

前方部正面の二段目の斜面からも竪穴式石室が見つかっている1872年(明治5年)に、風雨によって前方部前面の斜面が崩壊して埋葬施設が露出した。その際の発掘調査で石室と石棺が掘り出されている。残された絵図面によれば、その埋葬施設は長持形石棺を納めた竪穴式石槨で、東西に長さ3.6~3.9メートル、南北に幅2.4メートル。周りの壁は丸石(河原石)を積み上げ、その上を3枚の天上石で覆っている

副葬品

金銅装刀子
國學院大學博物館蔵、堺市博物館企画展示時に撮影。

後円部埋葬施設の副葬品は知られていないが、前方部の石室は1872年(明治5年)の発掘調査の際に、石棺の東側に「甲冑硝子坏太刀金具ノ破裂等」が、石棺の北東に「金具存セザル鉄刀二十口斗」が発見されている

  • 甲冑は、眉庇付冑(まびさしつきかぶと)と短甲で、冑には鋲留めにされた金銅製の小札(こざね)と鉢の胴巻きに円形の垂れ飾りを下げ、眉庇に透かし彫りが施された豪華なもの。甲(よろい)は金銅製の横矧板(よこはぎいた)が留めにされている。また、右の前胴が開閉するように脇に2個の蝶番を付けられており、これらの組合せは、当時の流行を表したものである。
  • 鉄刀二十口は、把(つか)やには金属製の装具のない簡略な外装の刀、ガラス坏(硝子坏)は、緑系のガラス壺と白ガラスの皿がセットになった品であったという。

なお、この調査では石棺の開封調査は行われていない。

ボストンの仁徳陵出土品

アメリカ合衆国ボストン美術館に仁徳天皇陵出土とされている銅鏡や環頭大刀などが収蔵されている。これらの品は、1908年(明治41年)には既に博物館に所蔵されていたようで、梅原末治によって紹介されている。

  • 鏡は細線式獣帯鏡で、青龍白虎玄武朱雀などの霊獣を細線で表しており、後漢製の舶載鏡と推定される。しかし、百済武寧王陵から同種の鏡が発掘され、中国の南朝での製品という可能性もある。また、この鏡は、百済王より七支刀と同時に奉られた七子鏡であるとする説もある。
  • 大刀は、刀身が折れて欠失しており、長さ23センチの把(つか、柄)と環頭(柄頭)が残っている。環頭は鋳銅製、金鍍金で、環の内側には竜の頭部を表し、環には双竜を浮き彫りにしている。把には連続した三角形の中に禽獣を浮き彫りにした帯状の飾り金具を付けている。この類似品は朝鮮半島南部の新羅任那の古墳から出土している。

宮内庁書陵部の研究によると、これらの出土品は、ボストン美術館中国・日本美術部勤務であった岡倉覚三(天心)により、1906年(明治39年)に京都で購入された可能性が高いという。また、実年代は「6世紀の第1四半期を中心とした時期」であり、古墳の築造時期とずれがあるという

古事記』では、オオサザキ(仁徳天皇)は83歳で崩御したといい、毛受之耳原(もずのみみはら)に陵墓があるとされる。『日本書紀』には、仁徳天皇は即位87年正月に崩御し、同年10月に百舌鳥野陵(もずののみささぎ)に葬られたとある。

延喜式

平安時代の法令集である『延喜式』には、仁徳天皇の陵は「百舌鳥耳原中陵」という名前で和泉国大鳥郡にあり、「兆域東西八。南北八町。陵戸五烟。」と記述されている。なお、「兆域東西八町。南北八町。」という敷地が他の陵墓と比較すると群を抜いて広大であることから、ここに記される「百舌鳥耳原中陵」が当古墳を指していることは間違いないと考えられる。「中陵」というのは、この古墳の北と南にも大古墳があるからで、北側は反正陵、南側は履中陵であると記されている。なお前述のように、近現代に宮内省(宮内庁)が反正天皇陵としているのは田出井山古墳履中天皇陵としているのは上石津ミサンザイ古墳である。

堺鏡

江戸時代前期の1684年貞享元年)に著わされた『堺鏡』には、豊臣秀吉が当古墳でしばしば猟を行っていたと記されている。また『堺鏡』には当古墳が「仁徳天皇陵」であると記されており、江戸時代には既に「仁徳天皇陵」として認識されており、現在でも近隣市民からは親しみをこめて「仁徳さん」と呼ばれている。また尊皇思想の高揚にあわせて整備や管理強化が度々行われている。1685年(貞享2年)に後円部の盗掘坑が埋め戻されたことを手始めに、元禄の修陵(1698年(元禄11年))で後円部墳頂に柵を設置。享保の修陵時(1722年(享保7年))には一重濠と二重濠の間の堤に番人小屋を設置。1853年嘉永6年)には後円部に設置されていた勤番所を堤に移転するとともに後円部の柵を石製に変更。1864年元治元年)には文久の修陵の一環として前方部正面に拝所を造成している。また、この時に墳丘西側で途切れていた一重濠と二重濠の間の堤を接続させる工事が行われ、一重濠と二重濠が切り離されている。翌1865年慶応元年)には朝廷より勅使が参向し、現在へとつながる管理体制となった。次第に管理が強化されていったが、幕末までは後円部墳頂などを除き、古墳に自由に出入りすることが可能であったという。また、当古墳所在地である大鳥郡舳松村と北隣の中筋村は大仙陵池から耕地へ灌漑用水を引いていた。

明治時代

1872年(明治5年)の前方部斜面の崩壊により埋葬施設が露出したことを受けて、堺県県令税所篤等による緊急発掘が行われた。この時の調査は、古川躬行(堺の菅原神社の神官・国語学者)の執筆、柏木政規(諸陵寮の役人)の作図による『壬申十月大仙陵より現れし石棺の考へ 同図録』とその添図『明治壬申五月七日和泉国大島郡仁徳天皇御陵南登り口地崩出現ノ石棺并石郭ノ図』および甲冑の図としてまとめられた。ただし、この記録は関東大震災により大半が焼失したため発掘の過程や程度などの細部をうかがい知ることはできない

 大仙古墳のすぐそばにある堺市博物館。埴輪の身長は70cmくらいでした。意外と大きい。赤い服を着ていたようですね。このシェーのポーズをとっている埴輪像は、馬と一緒に出土するのだそうです。この埴輪、鼻が高いですね。何を表しているのでしょうか。行ってくるよ、の挨拶?

群馬県高崎市の保渡田古墳群にある八幡塚古墳の写真に似た埴輪のポーズで後ろ姿があるので参考に。写真の左の方に、馬に手をかけるようなポーズになっています。

 出土したときから左手がなかったという埴輪。男性。挨拶しているように見えます。

 円筒形埴輪の正面に、馬の線刻があります。高さ80cmくらいでしょうか。当時、馬が貴重品で、中国から認められた大王であったことを誇示しているらしいです。そうでないと、馬が手に入れられない立場だったとか。馬の埴輪も二頭展示されていて、大きさは小馬か、ロバくらい。古代の馬は、小さかったのかしら。実物大である可能性もあるかなと思いました。

南シベリアのクルガンでは、飾り馬も一緒に王や従者と埋葬されていたことを思うと、それらを埴輪にして埋葬した日本は、マイルドで優しい文化ですね。中国では、清朝の皇帝が亡くなると、妃も殉葬されていますから、かなりあとまで殉葬が残された。この違いはなんなのでしょう。

鈴、馬具、黄金製のベルトの出土は毎度おなじみですね。

見づらいですが、家のすぐ右の塀は、VVVVVというギザギザになっていますね。

はて、中にミイラはあったのでしょうか?

ネットで探しましたが、この瑠璃ガラスの写真が見つかりませんでした。写真撮っておいて良かった。正倉院にある蒼いグラスを思い起こさせますね。これでお酒を飲んだのでしょうか?サイズは直径12cmくらい、高さが15cmくらいの小ぶりのものでした。お皿は茶托のように使ったのでしょうか。こちらも小ぶりです。

正倉院の瑠璃杯のレプリカ

正倉院白瑠璃碗

kousin242.sakura.ne.jp

御陵の絵図も残っているんですね。

耳がつくのは、聖徳太子もそうです。別名豊総耳法大王で、仏像の底だったかどこかに彫ってあったと読みました。

3重にお堀がありますが、なぜか松の木々が、ほとんどが古墳の方へ傾いているんです。不思議ですね。

大仙公園は、英国か仏国の公園を参考にしているのかな?と感じました。広々としていて、花は少なく、新緑がとても綺麗で、裸足で緑の上を歩いたら気持ち良さそうでした。

気球で、上空から古墳が見えるようにしているアイディアがすごいですね。大仙公園内の日本庭園も情緒があります。