好きなもの、心惹かれるもの

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幼児教育

ラマーズ法で一人目を産んだら、へその緒が首に巻き付いて産まれてきたので、オギャーとは鳴きませんでした。産湯を使って、泣く声が聞こえました。赤ちゃんの抱っこの仕方で、おっぱいが飲みやすい、飲みにくいがある、と入院中に習って、何とか飲ませられるように。

1歳まで母乳だけで育てました。3時間おきに授乳、夜中に2回起きて授乳、双子が育てられるほど、カフカではないですが、ホルスタインに自分が変わってしまったと感じるほどに、母乳が出たことは、驚きでした。毎日母乳でメロンの如く胸がパンパンに膨らんで痛い。血管の中全部が母乳になったかのようでした。毎晩、夜明けも浴室で絞ると、母乳が天井に飛ぶほど。お肉を食べると細い乳腺が詰まるから、油っぽいものを食べないように助産婦さんに言われました。一時は乳腺炎になりかけたところ、婦人科開業医のの60歳近い助産婦さんが何を思われたのか、内緒で自宅まで訪ねて来られて、絞って下さったのです。「貴女の乳腺は絹糸のように細いから、これでは詰まって手術と言われてしまうから」と。お金を払おうとしても断られて。観音様のような方でした。

二人目も1歳まで母乳で育てましたが、飲む量が少なくて、片方しか飲まないので、これも困りました。赤ちゃんが、紅葉のような小さな手で乳房を抱えて、おっぱいを飲む姿は可愛らしいのですが、娘は片方飲んだら、プイッとそっぽを向いて寝てしまうのです。

上が2歳の頃、お腹が大きくなって抱っこはできないよ、と言っていたのですが、抱っこをせがまれて、座ったままで息子を抱き上げたところ、切迫流産になってしまい、1か月入院に。ちょうど実家に戻っていた時だったので、祖父母がいたから良かったのですが、入院している間、息子はショックで、食卓のテーブルの下にバリケード?を作って、ずっとそこに引きこもっていたんだとか。

退院後も、今新幹線に乗ったら流産します世、と言われて、実家にいるまま二人目を産むことになりました。娘のお産は、破水して慌ててタクシーを呼んで病院へ行って、分娩室へ直行。そのまますぐ産まれた超スピード安産でした。

無事に産まれて、息子が抱っこにハイハイに背中に乗せてあげたり、可愛がっていた写真を30余年ぶりに見ると、それがどうして今では微塵もそんな愛情がないのだろうかと不思議でなりません。

第一子が産まれたときに思ったのは、楽器が弾けて、語学ができて、何かスポーツができる子にしたいな、でした。胎教の時に、クラシック音楽はかけていました。やっと立てるようになった頃、クラシックをかけていた機械の前で、息子がお尻をふりふりしていた姿が思い出されます。他にはウィーン少年合唱団のドイツ民謡のCDを流していました。幼児の頃は、毎日お散歩へ出たがる子だったので、とにかく毎日散歩。

下が2歳、上が5歳頃、冷蔵庫が入っていた大きな段ボールから家を作って、漢字カードと英語カードを貼って、子供が興味を持つように環境を整えました。音楽は、クラシックの他に、ディズニーの歌のCDも流していました。同時期に、水泳、体操、書道、バイオリン、ピアノも習い始めました。進学塾へは行かせないと決めていました。塾のお金を留学に回した感じです。

幼稚園や、小学校入学までに、体を使う習い事をした方が上達すると思っていました。自分が高校から、英単語や漢字の熟語がゴマンと出てきてうんざりした経験から、幼児からそれらを覚えた方がずうっと楽だと思っていました。

できなかったのが食育です。一緒に餃子を作るとか、もっと小学生から料理を手伝わせたら良かったと思います。その時に、添加物についてとか、農薬についてなど、教えたら良かった。

二人が小学生時代は、バイオリンコンチェルトを弾けるまでになっていて、バイオリンにとても時間を割いていて、料理どころではありませんでした。東京芸大バイオリン科卒の先生についたり、娘はコンクールに出たこともあり、全国大会の練習など、他の習い事もありましたし、習い事に終われた日々でした。

そして上が小5、下が小2で豪州留学したので、全く料理どころではありませんでした。その日、その日が過ぎていって。帰国したのは上が中3、下が小6の夏。上の息子は高校受験のため、2か月くらいだけ、比較的近場の塾へ自転車で行っていました。海外の授業と日本の授業のカリキュラムが違うため、日本の中3の範囲をおさらいする目的でした。本人の希望で公立高校を1つしか受験しませんでした。本人曰く、他に行きたい学校がないから、と。幸いにも、息子は高校3年まで、家で勉強したことがなく、教科書も学校に置きっぱなしでしたが、そこそこの成績はとっていました。大学院まで現役で行ってくれたのは親孝行だったと思います。大学院も1つしか受けなかったと思われます。私が娘と一時帰国した際に、合格したからアパート契約して、と初めて受験したことを知らされました。息子は大学時代からバイトをしていたので、自分で交通費や受験料も払っていたのです。

対照的なのが娘で、音楽や美術と語学が得意で、学校の勉強に興味がありませんでした。中3、小6で帰国してから、3回くらい親子でTOEICを受けました。娘の中1のTOEICは600点くらいだったかと思います。娘の同級生には、教育パパがいて、中1で英検1級をとった秀才がいました。娘はそういうタイプではないので、中3過ぎて考えたのが、この子は日本の教育でない方が向いていそうだということでした。そこでフランスの高校へ留学して、英語で全ての科目を学び、国際バカロレア試験に合格すると同時に英国大学入学資格を得るコースに挑戦させました。幸いにも、向こうで娘もやる気を出して、合格、卒業することができました。

二人とも、語学と楽器とスポーツができる子になりました。娘は豪州の小学校で小4からイタリア語が必修、フランスの高校でフランス語が必修、英国の大学でドイツ語を選択しました。息子は豪州の中学で3年弱ギリシャ語を習い、大学でもギリシャ語を良い成績で修めました。

もし孫がいたら、英語と中国語を幼児から教えると思います。スポンジのように何でも吸収できてしまう年頃に、耳から聴かせて、遊びのように教えてしまえば、後から役にたつと思います。今は、推薦入学制度もありますし、昔のように偏差値がどうのと気にする必要も薄そう。何か1つ特技があり、語学ができる方が、人生が楽しくなりそうに思います。

私が通った東京の私学校は、偏差値を使わない学校でした。人と比べることに意味はない。過去の自分と比べて、どう成長したかを見れば良いのです、と言われていました。今でも偏差値がどういうものか、数え方も知りません。

塾に行かせるお金は、家族旅行に使う方がずっといいと思います。私は5歳頃以降、家族旅行をしたことが終生ありませんでした。父は海外出張でいませんでしたし、家族4人揃って、温泉とかどこかへ旅行したことはありません。そういう意味では、どこにでもある普通の家庭ではなかったのです。その代わり、19歳で米国、35歳でドイツとスイスにホームステイして、よその家族に可愛がってもらったのは、ある意味不思議な巡り合わせでした。

ブループリントについて、少し考えていたのですが、私は産まれてくる前に、本当の両親に可愛がられないとか、離婚する人生を決めてきたのだろうか、ということです。わざわざ、幸せになれそうな結婚ではなく、我慢する、耐える人生を選び、そこから自分を成長させるようなストーリーを決めてきたのだろうかということです。死ぬ前に、幸せだったと思って満足して人生を終えたいので、ここからが巻き返しだと思っています。