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涙、涙のカンタス便ー豪州親子留学の始まり

30代の私は、前の年に、1分で離婚を決めて、留学の予行演習としてホームステイを決行して、豪州大留学と家庭裁判所での離婚を同時並行で手続を進めていました。無料の市の弁護士には、梯子を外されるようなものと揶揄されて取り合ってもらえなかったので、30年前の日本、まだ周りに離婚した人がほとんどいなかった時代に、私が真っ先に相談したのが、近所に住むドイツ人主婦でした。彼女は私より10歳年上で、話を聞くなり、

「慰謝料とか、お金の心配はしなくて良いから、今すぐに離婚して、貴女が思う人生を生きなさい。」

と言ってくれたのでした。お金はあとからついてくるもので、時間の方が大事だということだと思います。彼女は米国から赴任してきた企業の社長夫人でした。米国なら離婚は当たり前のことだから、彼女に相談したのです。彼女は地元のスーパーで、見ず知らずの私に、「これとこれの、ビネガーはどっち?」と英語で聴いてきた人で、そのまま彼女のアパートに案内されて、電気やガスのメーターとか手紙類を説明して、と頼まれてからのご縁でした。

当時はなぜか地元でよく外国人赴任家族に出会ったのです。ドイツ語を33歳ころ習ったのも、娘のバイオリンのクラスにスイス人のお嬢さんが入ったからでした。スーパーそばの道で出会ったのがドイツ銀行頭取夫人でした。家に呼んで、着物を着せてあげて、同時にドイツのディンドルを娘に着せてもらいました。

留学と離婚の手続を進める中、たまたまベビーカーを押して歩くご婦人に、「可愛いですね」と声をかけたら豪州領事夫人でした。家に来てもらって、息子と娘に第一バイオリンと第二バイオリンを弾かせて、私がピアノ演奏をして聴いてもらったら、推薦状を書いて下さいました。それが、シドニーに滞在して、アパートがあまりに汚くて娘が気管支喘息になってから、土足の絨毯ではなく、敷き変えたばかりの綺麗なアパートへ引っ越した際に、決め手となりました。その推薦状がものを言って、ライバルの豪州人より、家主が私を選んだからです。アパートを出る際も、一度も家賃が遅延したことがないから表彰したいほどだと不動産屋に言われました。靴を脱いで暮らすから汚れないし、不動産屋にとっても家主にとっても、良いテナントだったそうです。

授業の始まりに合わせて、バタバタの留学手続。元夫は、娘はいらないから息子が欲しいと言い張り、小学校5年の息子と小学校2年の娘に、「パパとママのどちらについて行く?」と念の為に尋ねると、二人とも「お母さんについて行く」と答えました。

自分も行ったことすらない豪州へ、小学生二人の命を預かって、飛行機に乗る。飛行機が動き出しても、涙が止まらない私。最後だから、と見送りにきた元夫。娘には目もくれず、息子だけに自分の腕時計を形見にはめさせました。その時、強く、自分が全責任を持って、子供達を立派に一人で育てる、と自分に誓ったのです。

当時の家庭裁判所では、親権は母親が取るのがほとんどで、しかも父親に以後会わせないのが普通でした。私も聞かれて、会わせないと答えました。私自身が二度と会いたくなかったからです。ただ、息子の希望があれば、息子は父親に会わせた方が良かった、と今では思っています。息子が中学から高校と大きくなるにつれて、父親が必要だったと思います。とりわけ、私の父が生きていればまだ良かったのですが、この後父が早く亡くなったので、祖父も父もいないで育った息子は不幸だったと思います。

なぜ豪州なのか。なぜ大学なのか。それはおそらく、育った環境からの刷り込みだったと思います。明治の祖父が東工大、明治の祖母が女子が東大に入学を許されなかった時代の、女子の東大であるお茶の水女子師範学校卒。就職先は、東大が引っ越してきたような会社で、社員の9割が東大卒でした。上司は、上皇陛下が皇太子だったときの沖縄万博を案内された方で、企業の重役と東大院の講師を務めていらっしゃいました。「死ぬ瞬間までが勉強です。」と言われたのが最後の言葉になりました。その方は医者になりたかったので、旧制高校時代に独語は自分でマスターしておいた、と言われたのが印象的でした。

米国でなく豪州にしたのは、銃社会が怖かったから。特にホームステイ先で、日本の高校生が、ハロウイーンとはいえ、ライフルで殺された事件の後でしたから。

これから片親で育てるには、普通の育て方では間に合わない。人がやらない隙間にチャンスがあると思ったから。また子供達が幼児から、漢字カードと英単語カードを冷蔵庫の入っていた大きな段ボールで作ったおうちに貼り付けたり、冷蔵庫にずらっと磁石で漢字カードを貼って、子供が自分で意味を理解できるようにしておいて、子供英検を受けさせていたので、ある程度、英語の環境に馴染めると思っていたから。

二人にバイオリンを習わせていたおかげで、耳は良かったようで、二人とも現地校しか行っていません。私の大学から日本人学校はとても遠く、行かせる気も時間も労力もありませんでした。小学校2年からイタリア語の授業が、6年制の中学高校では息子はギリシャ語を選択しました。

私は3年で文学部卒業のところを、母の大学を退学してさっさと帰国しなさいという脅しに乗せられて、最後の年の授業を半年で取ることを学部長に問い合わせ、許可が出たので2年半で卒業しています。このとき、どうして無理無理、と踏ん張れなかったのか。息子は中3での帰国であり、本当は高校1年で帰国した方が受験がなくて済んだので楽だったのです。

これを書いただけで、ずっと抑えてきた何かが、冷凍保存から溶け出した食品のように私の中から溶け出してきて、涙が止まりません。

二人とも小学生だったので、カンタスの機長が呼んで下さって、親子3人でコックピットに招待されました。機長さんとコックピットで撮った写真があります。30年前は何かとのどかな時代でした。

豪州の大学では、成績が良いと、大学院を2年でなく1年で卒業できるコースがありました。私はその条件を満たしているので、大学院を1年でできると教授に言われましたが、豪州人同級生によると、1年で卒業できるけど、めちゃくちゃ忙しくて大変よ、と言われました。大学にオーケストラがあって、シンバルをやる人がいないと言われて、娘にやる?と聞いたことがあったような。

私自身は大学院を出てどうの、という野望はなくて、自分よりも子供二人の未来にとって、絶対に役に立つという確信があったことと、私は短大卒だったので、京大卒の元夫からよくマウントを取られて面倒だったので、大学だけは卒業したかったのが動機でした。

私が予測した通り、娘はのちにTOEIC950は取れましたし、息子も860は取りました。