今年のショパンコンクールの審査員に、マルタ・アルゲリッチとネルソン・フレイレも入っていました。フレイレの病気のため、両者とも審査員を9月に辞退されました。もしも、このお二人が審査して下さったならば、コンクールの結果が、違っていたかもしれないですね。そして、またアルゲリッチが怒って、審査の途中で帰国しちゃったかも。
以下の山根悟郎氏の記事で、ショパンエチュード二番と、チェルニー60番練習曲の19番が激似である、と動画付きで掲載されています。初めて知りました。もちろん、チェルニーの方が真似したんだそうです。
残念ながら、ネルソン・フレイレは、11月1日に逝去されました。ご冥福をお祈りします。お二人は、隣同士のパリのアパートに住んでいらしたとか。この動画は、ブリュッセルのお宅で撮影されているそうです。
wikiでアルゲリッチを見たら、3回の結婚と離婚、それぞれの結婚で一人ずつお嬢さんを産んでいたことを知りました。その後は二人の恋人、エトセトラ。とってもモテる方なんですね。
wikiより抜粋
5歳の時にアルゼンチンの名教師ヴィンチェンツォ・スカラムッツァ(en:Vincenzo Scaramuzza)にピアノを学び始める。
1949年(8歳)、公開の場でベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番ハ長調作品15を演奏。
ブエノスアイレス知事のサベテという人物がマルタの熱烈なファンだったため、1954年8月13日、サベテの仲立ちにより大統領府でアルゲリッチ親子と会ったフアン・ペロン大統領は、マルタに留学希望の有無を尋ね、「フリードリヒ・グルダに習いたい」との申し出に従って、アルゲリッチの父を外交官に、母を大使館職員にそれぞれ任命し、1955年初頭から一家でウィーンに赴任させた。家族とともにオーストリアに移住したアルゲリッチは、ウィーンとザルツブルクで2年間グルダに師事した後、ジュネーヴでマガロフ、マドレーヌ・リパッティ(ディヌ・リパッティ夫人)、イタリアでミケランジェリ、ブリュッセルでアスケナーゼに師事した。
1957年ブゾーニ国際ピアノコンクール優勝。ジュネーブ国際音楽コンクールの女性ピアニストの部門においても優勝。1960年ドイツグラモフォンからデビュー。
22歳の時、中国系スイス人の作曲家で指揮者のロバート・チェン(陳亮声)と結婚、1964年、長女リダの出産前に離婚。
1965年ショパン国際ピアノコンクールで優勝、、マズルカ賞も受賞。
1969年に指揮者のシャルル・デュトワと再婚、後にデュトワとの間に娘が出来る。
1970年1月、万博の年の幕開けに初来日。
1973年頃2度目の来日の際に飛行機の中で夫婦喧嘩となり、アルゲリッチは日本の地を踏まずUターンし、離婚。後に、ピアニストのスティーヴン・コヴァセヴィチと3度目の結婚。
1983年頃からソロ・リサイタルを行わないようになり、室内楽に傾倒していく。ヴァイオリニストのギドン・クレーメル、イヴリー・ギトリス、ルッジェーロ・リッチ、チェリストのロストロポーヴィチ、マイスキーなど世界第一級の弦楽奏者との演奏も歴史的価値を認められている。
1990年代後半からは、自身の名を冠した音楽祭やコンクールを開催し、若手の育成にも力を入れている。1998年から別府アルゲリッチ音楽祭、1999年からブエノスアイレスにてマルタ・アルゲリッチ国際ピアノコンクール、2001年からブエノスアイレス・マルタ・アルゲリッチ音楽祭、2002年からルガノにてマルタ・アルゲリッチ・プロジェクトを開催している。
受賞歴は、フランス政府芸術文化勲章オフィシェ(1996年)、ローマ・サンタ・チェチーリア協会員(1997年)、グラミー賞(1999年、2004年、2005年)、ミュージカル・アメリカ誌・Musician of the Year(2001年)、第17回高松宮殿下記念世界文化賞(音楽部門、2005年)、旭日小綬章(2005年)、旭日中綬章(2016年)など。
アルゲリッチの唯一の弟子である伊藤京子さんが、大分での音楽祭を企画し、毎回アルゲリッチにアテンドされていたようです。22回も続いていたのですね。温泉もお好きなのでしょう。