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「中世都市 博多を掘る」

 大庭康時ほか  海鳥社 2008

 

 

 

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「中世都市 博多を掘る」大庭泰時、佐伯弘次著 海鳥社 2008
 
p21 1218年、延暦寺太宰府大山寺の神人で通事・船頭である張光安は、貿易の利権をめぐる争いからであろうか、石清水八幡宮筥崎宮留守行遍・子息光助らに博多で殺害された。当時の宗像社大宮司家は王氏・張氏と二代に渡り中国人と婚姻関係を結び、その所生が大宮司なっている。博多で集中的に出土する墨書陶磁器から黄・許・金・朱・周・陳・丁・徳・劉・柳・林ら、実に多くの綱首名を確認することができる。
 
p22 このように博多やその周辺で多数みられた宋商の姿は、鎌倉時代中期頃から見えなくなる。蒙古襲来を境に中国人の帰化・土着化もあって、博多における貿易商の主体は日本人へと変化していったのである。
 
p73 1133年に鳥羽院近臣の平忠盛が、周新の船を御院領の肥前国肥前国神埼荘の領掌下として、太宰府の関与の排除を試みた事例がある。
権門ー荘園が太宰府の介入を排除して唐物を確保しようとする姿勢である。特に神埼荘に注目すると、13世紀に博多綱首と関係を持った
ことが知られ、院の海外貿易の拠点だった。院は12世紀後半、陸奥の金も掌握し、これを運ぶ商人を御厨の舎人として組織していた。
摂関家や平家も同様に、独自に輸出品と流通手段を確保したらしい。平家については、兵庫の大輪田泊に貿易船を引き入れ、宋と外交交渉を行うなど、対外関係に積極的だった。
平家物語」に、平重盛が博多から船頭妙典を召して明州の阿育王山に金を施納させたとあるのは、平家と海商の関係を反映していると考えられる。
 
p77 1230-50年代に活躍した謝国明は、東福寺(摂政家)から博多承天寺に連なる博多綱首だったが、同時に宗像社領小呂島に権益を有し、また筥崎宮領を買得するなど、様々な寺社と関係を持った。博多綱首は自らの資本や委託された資本を元手に宋で取引を行い、帰国後に利益を関係者に分配したものだろう。日元貿易の事例から類推するに、定額の請負料納入を契約したものと考えられる。
いわゆる住吉社船(1333年帰国、後醍醐天皇より2000貫徴収)天龍寺船(1341年入元、5000貫納入の契約)の例を参照するに、請料は一艘で数千貫文規模だった。
 
p76 博多綱首が寺社に帰属する場合、しばしば神人(じにん)、寄人(よりうど)という形をとった。例えば1218年に筥崎宮留守行編らに殺害された張光安は「大山寺神人」「大山寄人」などと呼ばれ、延暦寺末寺の太宰府大山寺に組織された神人だった。大山寺は博多綱首と延暦寺を結ぶ役割を果たしたと考えられる。
殺害した筥崎宮留守だが、石清水八幡宮末社であり、石清水と筥崎宮の関係は、延暦寺と大山寺と同様のものであった。注目すべきは、張光安が八幡神人とも呼ばれていることで、大山寺・筥崎宮と両属の関係にあったことである。
さらにこの事件には神埼荘も関与していた。張光安とその所領を先例によって神埼荘のものとする要求が出されている。先例というのは、殺人被害者の所属する集団が、殺害現場を含む土地を被害者の墓所として手に入れる、墓所の法理を指すものと考えられ、張光安は院ー神埼荘とも関係を持っていたらしい。
 

大神社や有力寺をパトロンとして、宋の大商人が活躍。神宮宮司と綱首の婚姻による強固なパイプ。ところが、自分の領地で死んだ者の財産は、自分のものになる、という法律を利用して、大商人張光安の暗殺事件発生。

 

p77 1230-50年代に活躍した謝国明は、東福寺(摂政家)から博多承天寺に連なる博多綱首だったが、同時に宗像社領小呂島に権益を有し、また筥崎宮領を買得するなど、様々な寺社と関係を持った。

博多綱首は自らの資本や委託された資本を元手に宋で取引を行い、帰国後に利益を関係者に分配したものだろう。日元貿易の事例から類推するに、定額の請負料納入を契約したものと考えられる。
いわゆる住吉社船(1333年帰国、後醍醐天皇より2000貫徴収)
天龍寺船(1341年入元、5000貫納入の契約)の例を参照するに、請料は一艘で数千貫文規模だった。
太平記」が天龍寺船派遣に関して、「中国へ宝を送れば売買の利益は百倍である」と記すのは、誇張もあろうが、出資者は相当な利益を見込むことが可能だった。

 

p81 博多ー明州のルートは1350年頃から内乱により危険に晒されるようになり、宋代からサブルートとして用いられた肥後高瀬ー薩摩沿岸ー琉球ー福建のルートがメインルートに躍り出た。