龍が玉を持っているデザイン、可愛いですね。
p78 対馬の伝承 「私の方の神様は、1年に1回、出雲に参られます。神無月です。その時出雲に行かれます神々の中で1番最後に参られて、一番最初に帰ってくる、といわれております。その季節は舟で出雲に行き帰りするにも、一番行き来しやすい時期に当たっております。」
このキイ・ポイントは、神々の位取りである。出雲の大神が主人、天照大神は家来なのだ。居住わっている方が主人、集る方が家来なのだ。その家来の神々の中で、天照大神はナンバーワン。参集する神々の中では最高位ながら、出雲の大神に対しては、従属神という位取りなのである。
P80 それまでは出雲の大國主大神が神々の主神だった。天照大神は、家来の神々の実力ナンバー・ワンにのし上がっていた。だからこそ、主人たる大國主大神に対して、国譲りを強要しえたのである。一見平和裏ながら、強制的な統治権の奪取なのである。対馬の伝承は、国譲り以前の、真実の神々の位取りをしめしていたのである。
p90 記紀神話中の天の岩屋は、沖ノ島岩屋島のことではあるまいか。天照大神の隠れ処として、この沖ノ島以上に好適なところをわたしは知らない。
p97 島根県邇摩郡仁摩町 湯泊温泉 曽我清春氏「わたしの家では、大國主神が賊に追われて逃げてきたとき、かくまったことがある」
かつて京都府久世郡久御山町永福寺で、わたしの祖先は、親鸞が越後流罪におもむく途中、暗殺するべく貴族から命令を受け、近江に派遣されたが、果たせなかった」という口承を聞いたことがある。
また大和の吉野では、「わたしの祖先は、神武天皇が来られたとき、これに抵抗した。このあたりでは知られているので、戦時中は辛かった」と苦渋の色濃く語る主人に会ったというお手紙を読者からいただいたことがある。
p108 これは本当に龍だろうか。この湯舟坂古墳の被葬者は、蛇綱の習俗が残っていたこの丹後の領域の支配者で会った。この日本列島の蛇信仰の表現、このように見るのが妥当ではないだろうか。母子の蛇神たちが善神であり、鉄刀に宿る守護神と見なされていることは、およそ疑いがないであろう。
p112 守護神としての蛇信仰、それは関東の各地に遺存している。北陸、丹後、但馬の古代史の旅のさい、わたしが丹後郷土資料館で、蛇綱について開設したところ、参加者の方々が千葉県下にもこの習俗が遺存していることを知らされた。
北関東において、丹後湯舟坂古墳出土の大刀と共通の母子の蛇をもつ大刀が出土している。(高崎市佐野出土)
p143.144に面白いくだりがあります。
「脱解・瓢公倭人記事」の、王妃が卵を生むとか、卵が半島側の海岸に流れ着くとか、卵から人間が生まれるとか、いずれも架空の話だ。脱解の多婆那国所生説話も史実とは認められない。という論者に対して、古田氏はトロヤ戦争の原因が、三女神がパリスにりんごを渡し、最も美しい女神にこれを与えよと迫り、りんごを渡されなかった女神の嫉妬と怒りによるものだったこと。架空の事件、架空の戦争と思われて居たが、シュリーマンの発掘で、トロヤの廃墟がリアルな歴史の遺構であったことを引いて、先のりんごの証明についてこう語る。
「古代人は、真実な物語を語るとき、非現実的な語り口を加え、それを導入部として用いるのを好んだ。」
「あれほど長期にトロヤとギリシャが戦争をした背景には、よほどの神意に関わる理由があったに違いない。古代人はそのように思惟し、りんごの挿話を加えた。また古代の聴衆たちは、そのような語り口を好んだものと思われる。」
p156 要約すると、朝鮮半島の史書「三国史記」「三国遺事」は弥生期の倭人との交渉を語る貴重な説話を収録している。それらは天国=対馬・壱岐中心の海峡圏及び、倭国=博多湾岸を都とする筑紫中心国家の概念に立つとき、明晰な理解をうることができる。それらは金海式甕棺の出土分布や日本絹の出土分布の考古学的事実と対応し、弥生期の史実を背景として語られた説話であったことを証言している。
新羅と天国と倭国が、共通の宗教信仰を持っていたこと。日月を祀る儀式。祭天信仰である。
最後に新羅国王の宝庫に日本絹が宝物として蔵されていた事実だ。その宝庫を貴妃庫と呼んだ。日本の王妃の呼称をつけた宝庫が存在したことは新羅ー倭国間の関係が友好的であったことを証明する。
小林恵子先生も、平原遺跡が女王卑弥呼の墓と「興亡古代史ー東アジアの覇権争奪1000年」に書かれています。また、卑弥呼とは官職名で、女王卑弥呼は許黄玉だったのではないかと。
許氏が神事を司る一族であったことは、以前京大アーカイブに掲載されていました。
以下「興亡古代史」より
p14 奄美大島では大巫女をフミコというそうだが、卑弥呼との関連が考えられる。卑弥呼は個人名ではなく、南西諸島に代々受け継がれる祭政一致の女王を指す官職に近いのではないか。
中国雲南省や東南アジアにルーツを持つ陸稲系の赤米は昭和初期まで奄美大島で栽培されていたし、種子島や対馬には赤米神事を行う神社や祭礼が現存している。
大嘗祭の中臣寿詞に赤丹の穂とあるが、赤米の赤く長いノギからきているとされる。
紀元南の邪馬臺国は奄美大島にあり、最盛期は北九州方面まで支配下においていたと考えられる。呉越の南の雲南省から広東省にかけては北方騎馬民族の南下が波状的に始まっていた。彼らは自らを狼や犬の後裔と称したので、中国では犬戎と呼んでいた。
中国の「山海経」によると犬戎の祖先は黄帝の子孫の白犬で、赤ひげ、白い肌、黄金の目だったという。犬戎の特徴は白人に近い。
p35 犬戎の呉将軍とは江南の呉が考えられる。
p36 隼人が犬の吠え声をまねるという儀式が践祚大嘗祭にあるのは、列島の始祖が何らかの形で、犬戎と関連すると考えられていたことを示唆するものだろう。
p42 北九州の奴国が後漢にもらった金印のつまみは蛇、出雲神社も大神神社も主神は蛇である。中国にとって列島は蛇をもって表意される国と考えられていた証明なのである。蛇をトーテムとする民族は滇である。
中央アジア遊牧民の月氏の一部は雲南省から南越に住み着いた。彼らは青眼赤髭で胡人の風貌をしていたと言われる。紀元前109年、漢の武帝が滇王に封じたが、授けた金印のつまみが蛇だった。
p64 黄巾の乱が起きる80年以上前の101年、巫術者の許聖という人物が重税を恨んで反乱を起こし、長江中流域を荒らし回った。江南の許氏一族は伝統的に巫術者を代表する家系だったようである。
p65 許昌父子に関しては史書は沈黙している。彼らの行き先は列島だったのである。
許黄玉の黄玉は、仙女特有の黄色のあざを指しているのではないか。許黄玉という名は、許氏という巫術者という意味になる。
p66 素環頭の刀、鏡、玉は後の三種の神器で、古墳の主が単に高貴な女性というだけでなく、女王だったからではないか。巨大な鏡は南越を含めて、中国南部でしか作られない。