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「錦とボロの話」

龍村平蔵著 学生社 1967年

 

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明治時代の職人気質というものは、本当に厳しいもののようです。宮内省から正倉院の端布を復元するよう依頼され、本来給与が出たようなのですが、平蔵氏は断り、本業の帯などの西陣織を作る暇もなく、倒産するほどのめりこみ、何十年もかけて一部を復元したものの、役人からは「お金を払っていないことで宮様の信用を失った」とグジグジ嫌味を言われ続け、神経衰弱になり、借金は山のようで、人間関係も壊れたそうです。ちょっと触るだけで、古さのために塵になって消えてしまう古代の部分の裂を、一から復元するということが、如何に気の遠くなる努力のいることか。

ササン朝ペルシアの特徴を備えた絵柄なのに、漢字が入っていることで、この2枚の錦は中国で作られたのではないか、と思われているのですね。この鹿の錦を顔に乗せていたのは、何という貴族だったのかは著書に書かれていません。パルチャン・ショットをしている4人の騎士の錦は、聖徳太子のものであったと小林惠子説。

二代平蔵は、東京帝国大学文学部美術史科を出られ、大学で教えるつもりが、役人と父とのやりとりがあまりにひどく、父の仇を討つ気分で復元に取り組むことになられたとか。この美しい花樹対鹿文錦は、夢にミイラが2度出てきたほど夢中に復元されました。

 

p135 トルファン盆地は中国西北端の敦煌から西北西700キロ、天山の南にある。この豊かなオアシスは、北に向かっては天山の北側に通ずる街道も古から開けていて、東トルキスタンでは南道のホテン、西端のカシュガルと並んで北道第一の要衝として古くから知られている。オアシスの王は、常に中国の諸王朝か、もしくは北方の草原帝国の支配者のどちらかに依存することを迫られていた。

p137 アスターナ古墳は、カラ・ホージャの廃墟の北東4キロばかりの丘陵地にあり、今の地名は二保という。この古墳群は、カラ・ホージャが高昌城として栄えていた時の同地貴人の墓であることが墓誌から明らかである。その年代は高昌国時代から唐の中期に渡っている。

 p143 中央アジアの盆地の古い墓の中では、千数百年の歳月を経たにも関わらず、一切の残存状況は極めて良好であり、その染織品は思いのほかに豊富である。それらの発掘品は我々の眼に触れる所にはなく、我々が調査できたものは龍谷大学図書館、橘瑞超師、東京国立博物館、天理参考館の4箇所に散在する裂類にとどまる。

p152 最も貴重な錦綾がある。それは瑞超師所蔵の錦裂である。織物技術上、極めて高級な品質である。中央に大鹿と樹木、サッサン・ペルシア特有の太い外輪円文の中に円文が5個、方形の入子枡正方形が上下左右に見え、左上隅にギリシアのアーカンサス十字唐草が四分の1より少し欠けて見えている。

花樹対鹿錦は楕円形に切られてある。その中に3か所の破れ穴がみられるが、よく見ると穴の周辺が黒ずんで、穴は血液等による腐蝕によってあいたものである。両眼及び口の3か所、及び額にあたっていて、これが面覆いである証左を残している。

 

この聖徳太子の旗と言われる、法隆寺に残されていた四天王獅子狩文錦と、花樹対鹿文錦は、同じ工房で作られたとしか思えないほど、似ているそうです。

獅子狩文錦の考察  という別の論文もあります。

https://www.yamano.ac.jp/subject/labo/resarchcenter/pdf17/ya17_01.pdf

 

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復元された四騎獅子狩文錦

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こちらが復元された花樹対鹿文錦。鹿の首に大きなリボンがついていますが、これがササン朝ペルシアによく出てくる意匠ですね。

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参考 首のリボンが似ています。

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 この貴人のミイラの顔にかけられた、窓つきの錦を復元されたわけです。

 

「錦ー光を織る」龍村光峯著 小学館 2009 から 

玄宗皇帝の琵琶の袋だったと推定されたそうです。

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この本には、美しい作品がたくさん掲載されています。

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「錦とボロの話」p137 文中に、「中央アジア探検の気風が世界的に興ってくると、京都西本願寺法主であった大谷光端猊下は、東洋の文化国の人間として、また仏教の北慚本来の研究の一環として、欧米諸国に劣らじと雄大な探検計画を立てたのである。数度の大谷探検隊の成果の中でも、橘端超師が昔の高昌国のあと、アスターナの墓地で発見した錦織は誠に眼をみはるものがあった。」

とあって、大谷光端氏をwikiで調べますと、以下のようです。美人の奥方が九条家で、貞明皇后の姉に当たるのですね。

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第21世法主大谷光尊(明如上人)の長男として誕生する。幼名は峻麿といった。

1885年明治18年)、9歳で得度。翌1886年明治19年)、上京して学習院に入学するが退学。その後、尺振八の開いた共立学舎(当時受験校で知られていた共立学校とは別)という英学校に入学するもやはり退学。京都に帰り前田慧雲(のち龍谷大学学長)に学んだ。

1902年明治35年)8月、教団活動の一環として西域探検のためインドに渡り、仏蹟の発掘調査に当たった。1903年明治36年1月14日朝、ビハール州ラージギル郊外で長らく位置が判らなかった旭日に照らされた釈迦ゆかりの霊鷲山を発見している。同年に父・光尊が死去し、法主を継職するため帰国したが、探検・調査活動は1904年明治37年)まで続けられた。これが大谷探検隊(第1次)である。法主継職後も探検を続行させ、1914年大正3年)まで計3回にわたる発掘調査等が実施された。

法主としては教団の近代化に努め、日露戦争には多数の従軍布教使を派遣。海外伝道も積極的に進めた。

1908年明治38年)、六甲山麓の岡本(現在の神戸市東灘区)に盟友伊東忠太の設計になる二楽荘を建て、探検収集品の公開展示・整理の他、英才教育のための私塾である武庫中学(跡地は現在の甲南大学理学部キャンパス)、園芸試験場、測候所、印刷所などを設置。教育・文化活動の拠点とした。

1913年大正2年)に孫文と会見したのを機に、孫文が率いていた中華民国政府の最高顧問に就任した。

1914年(大正3年)、大谷家が抱えていた巨額の負債整理、および教団の疑獄事件のため法主を辞任し、大連に隠退した。二楽荘と探検収集品もこの時に手放している。現在これらのコレクションは散逸している。

隠退後も文化活動を続け、1919年大正8年)には光寿会を設立して仏典原典(梵字で記述)の翻訳にあたり、1921年(大正10年)には上海に次代を担う人材育成のために策進書院を開校した。

太平洋戦争中は近衞内閣内閣参議小磯内閣顧問を務めた。しかし1945年(昭和20年)に膀胱癌に倒れ、入院中にソ連軍に抑留された。1947年(昭和22年)に帰国し、翌年別府にて没した。この間に公職追放となった

生前は二楽荘の他、大連(浴日荘)、上海(無憂園)や台湾高雄(逍遥園)、インドネシア(環翠山荘、耕雲山荘)などに別荘を設けた。現在の須磨離宮公園はその1つで、1907年明治40年)に宮内省に買い取られたものでありその代替地として岡本の二楽荘が成った。

晩年の地・別府では、当時国際観光都市建設を目指し、政府に特別都市建設法の立法(1950年(昭和25年)に「別府国際観光温泉文化都市建設法」として制定)を働きかけていた市長・脇鉄一に賛同。助言を与え、自ら私案も立てている。

位階、勲章

ここでふと、妹の九条武子さんを思い出してぐぐって見ると、(いかにもお雛様顔ですね。)

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西本願寺第21代法主明如(大谷光尊)の次女(母・藤子は光尊の側室紀州藩士族)として京都で生まれる。義姉・大谷籌子裏方(大谷光瑞夫人)を助けて仏教婦人会を創設し、1911年明治44年)に籌子が死去した際には本部長に就任、同会運営の重責を果たした。

仏教主義に基づく京都女子専門学校(現・京都女子学園京都女子大学)を設立、1923年大正12年)9月1日関東大震災で自身も被災するが一命を取りとめ、全壊した築地本願寺の再建、震災による負傷者・孤児の救援活動(「あそか病院」などの設立)などさまざまな事業を推進した。

1909年明治42年)9月、公爵家出身で正金銀行勤務・男爵九条良致に嫁いだ。良致は左大臣であった九条道孝の子で、武子の兄・光端の妻である籌子の実弟にあたる。この結婚は、西本願寺大谷家300年の歴史において、当家の女性が信徒でない者と結婚する初めての例となった。

武子は結婚した年の12月、天文学を学びたいという良致の希望により3年間の予定で[3]勤務先兼留学先(ケンブリッジ大学)に随行し、ロンドン郊外のバーンズ( 3 Kitson Road, Barnes.二人が暮らした建物は現存[2])で暮らしたとされるが、同行した大谷探検隊随行員の記録では、欧州到着後武子は籌子と地中海周遊に出ており、ロンドンでは別居とある。武子は渡英1年半の1910年10月に帰国し、良致はそのまま英国滞在という別居状態が十数年続いた。これには美貌・教養・家柄(大谷家は伯爵家)の誉れ高き武子に、良致がなじめなかったからではないか等、夫婦不和の憶測もあったが、武子は離婚どころか浮いた言動一つとらず、良致の帰国をひたすら待ちつづけた。

 

なんと言いますか、とんでもなく遠い彼方の、上流社会を覗きみたような気になりますね。

この探検の詳細が以下に書かれています。

パミール 中央アジア研究会

https://pamir.jp/wp-content/uploads/2015/04/9996fb669c8ef54af5ed28649a1cec75.pdf

1908(M41)年、ヘディンが西本願寺を訪問した際のこの有名な写真は、京都成井写真館の記念写真 で、西本願寺内において撮られた

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ラサ条約(1904)によって一旦は否定されたチベットに対する宗主権が回復された経緯は複雑である が、各条約の内容を見る。 1英国は英清条約(1906)で「英国政府は西蔵の領土を併合し、又は西蔵の施政に干渉せざることを約 す。清国政府も亦、他の外国をして西蔵の領土又は内治に干渉せしめざることを約す。」(附属書第二条) 21907 年の英露協商は百年余の英露対立を解消させた。そこには〈西蔵に関する協定〉があり、前文に 「露西亜及び大英帝国政府は、西蔵に於ける清国の宗主権を認め、...」、第一条には「両締約国は、西蔵領土保全を尊重し、其の内政に対し一切干渉せざることを約す」とあり、英露の協定なのに、清の宗主権を認めるという奇妙なものだった。こうして労せずチベットの宗主権を承認されたことになった 清は、チベットに入ろうとするヘディンもそれを支援する光瑞をも拒否するのである。

光瑞は北京で交渉(1907.4.13)、清国にヘディンの護照発行を働きかけた。英・露・清三国間で外交 交渉を進めている中でのヘディンと光瑞の動きは、「三国を困惑させ」、チベットを攪乱しかねないと 疑惑を懐かせて、国際政治社会から排除と制約を受ける。

第二次大谷探検隊・橘瑞超と野村栄三郎-二人の調査目的は、1モンゴルのチベット仏教の把握、 2中央アジアに住むトルコ人イスラム教がどのようなものか、3(これが主目的)東アジア仏教に 流布する漢文仏教経典の原典となるサンスクリットで書かれた古写本を、西域で捜すことだった。・橘瑞超、単独で楼蘭へ―トルファンからコルラに入り、ここで二人は分かれ、橘はタリム河上流へ と南東方向へ旅し、ロプの砂漠を横断して楼蘭を目指し、1909 3 11 日にロプ・ノールに到着した。目的はヘディン、スタインよりも更に詳しく仏蹟を調査することだった。5 世紀初め古代楼蘭(鄯 善国)を通った僧・法顕によって、小乗仏教が信奉されていたことが知られている。LK 遺跡はスタインではなく橘瑞超が 最初の発見者だった。

妹アルマのドイツ語版『兄スヴェン』の第 9 章「トランスヒマラヤを越える探検旅行(1905-1909)」からヘディンの来日の記録を読み解く。

西本願寺当事者たちは、来日はチベット行で光瑞に支援を依頼した際の来日の約束を果たすためだと 言う。光瑞についての記述は極めて少なく「大谷は日本で最も主要な仏教の高僧である。その上彼は 次期天皇の義兄にあたる...」と来日途上の日記の一文しかない。

来日してヘディンは東郷平八郎乃木希典山県有朋伊藤博文などに面談した。

 

光瑞とヘディンは、ともに生前多くを語らなかった。その理由を、1光瑞の方では、ヘディンのチベット調査への支援と自分の探検隊が英国 によって苦境に陥ったこと、更に本願寺疑獄事件で法主を辞し、探検からも手を引いたか らであり、2ヘディンの方は、英国の制止を振り切ってチベットに潜入したことが、調査 で発見したトランスヒマラヤ山脈を新発見にあたらないと英地理学協会で避難されたこと と関係していると述べ、チベット問題が二人に多くを語らせなかったと推測している。 「いずれにせよ二人はともに、その交流を語る時と場をこうして失っていったのである。」

 

大谷光瑞とアジア 知られざるアジア主義者の軌跡』柴田幹夫 2010.8.10 勉誠出版

第二部 大谷光瑞小伝(柴田)
第三部 大谷光瑞とアジア―第八章 大谷光瑞チベット(高本)
大谷光瑞年譜(柴田)
1 光瑞とアジアとの関係を、朝鮮半島、ロシア極東地域、中国大陸、チベット、南洋それにトルコと
言う地域から考えた本である。また同時に歴史的事象として国内外における光瑞の行動や文化遺産などを考えてみたもの(但し、中央アジアと台湾が抜けている)。
西本願寺の海外布教―在留邦人に対しての布教活動 随行員に死者(天然痘)を出すほど過酷なもので、光瑞が見て体験したものは、汚穢にまみれた中国と 上海・香港の諸外国がらみの繁栄する中国であった。

本願寺法主としての光瑞に対して、さまざまな批判が内外から起こったのも事実である。内側からは多くの負債を抱えてい た本山に対して向けられたもので、多くは本願寺と大谷家の財産区分の不明瞭性を指摘するものであ った。また外部からは探検隊の派遣、二楽荘の建設などに多額の費用を要したことに対する批判であ った。⇒疑獄問題の責任をとって辞職。

1916(T5)年~1926(S1)年、(大連)満鉄と光瑞―本願寺は満鉄の大株主であった。戦後その負債が教団に大きく響いた(『浄土真宗と戦争責任』岩波)

光瑞を「内閣参議をつとめ、「太平洋戦争」の積極的支持者である政治家とみるか、日本の多くの国 民の尊崇を集める宗教家とみるか」大きな問題となった」(石堂清倫)

ゴム園の経営 1916(T5)~1918(T7)シンガポール郊外、車のタイヤ用(先見の明)

孫文との交流 1913 孫文本願寺を訪問、1916(T5)には近隣の孫文邸を往来、二人の関係は深か ったと考えてよい。

 

もう1つ関連するレポートがありました。

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http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/佛教学研究/佛教学研究%E3%80%80第70号/佛教学研究%E3%80%80第70号%20004和田,%20秀寿「大谷探検隊の一側面%20:%20南洋諸島を調査した龍江義信の事績を中心として」.pdf