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「熊襲は列島を席巻していた」

内倉武久著 ミネルヴァ書房 2013

 

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興味深いことが色々。玉壁って初めて見ました。隠されていた古代王の印。

 

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ウイグル王族が、このような三叉の冠をつけていた絵を比較として

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p35 宮崎県串間市から出土した玉壁。玉壁は、古代中国で皇帝など貴族階級が権威の象徴として、死者を悪霊から守るため死者の体を覆うものとしても珍重された。

日本列島では串間市のを含めて4個の玉壁が出土している。福岡県糸島市三雲の伊都国王出土のもの。巨大なカメ棺に副葬されていた。さらに邪馬壹国内と考えられる福岡県筑前町・峯遺跡出土のもの。

 

p36 串間市出土の玉壁は直径33.2cm、厚さ0.6cmもあり、本場中国でも最大級の優品とされるものである。現在この玉壁は、旧加賀藩前田家の公益法人・前田育徳会の所有物となっている。この謎を秘めた逸品は、最近まで詳しい探索はなされていなかった。

 

p37 目につくのは玉壁の三割を覆うイボイボ状の突起。穀粒文と呼ばれ、羽渦紋化した動物紋から変化したものだという。内側には頭と尾を互いに絡み合わせた三羽の鳥。外側には絡み合う二匹の動物の顔などを図案化した双身動物面紋が五単位線刻されている。

 

p38 台湾・国立故宮博物院の鄧氏による「玉と王権」によると、中国の戦国時代末期から前漢時代(紀元前三世紀から紀元一世紀)ころに制作されたものではないかという。
蒼緑玉で作られ、三周構成で模様を刻んだこの玉壁は当時の最高ランクに位置し、帝王ないしは帝王の身近にいる者の所有であったろうという。

中国の玉壁の歴史は古い。円形で中央に穴を開けた製品は、黒龍松花江流域の多くの遺跡で発見されている。南方では上海の南、杭州市の良渚遺跡で出現する。日本での時代区分では縄文時代前期末から中期末に相当する。良渚文化より千年ほど古い内モンゴル一帯の紅山文化も玉に対する畏敬の念があり、玉製品が発見されているが、玉壁であるとする出土品は少ない。

 

p42 故日高正晴氏が広東省の南越王墓博物館で、串間出土の玉壁と瓜二つの玉壁が展示されているのを見つけた。これで串間の玉壁の制作年代がはっきりして来た。中国の秦末期か前漢はじめころ。

 

p168 「紀氏家牒」に「平群県に馬牧があり、駿馬を選んで飼育し、天皇に献じたため、額田早良宿禰の子である額田駒宿禰が馬工連の姓を賜った」と書かれている。紀氏は熊曽於族と共に九州倭(イ)政権の中枢を担っていた氏族である。

 

p172 海南島の南東端にある保亭リー族苗族自治県には、ずばり「加茂」県がある。

賀茂族も熊曽於人の一族らしい。「山城風土記」には、賀茂族の祖神・建角身命は、熊曽於国の中心部の神の山・霧島に天下ったという伝承を持つ。

 

p174 建角身命らは、北部九州に移った後、卑弥呼勢力に追われて近畿に逃げた伊都国の狭野命(神武天皇)らと行動を共にし、関西に本拠を移したのではなかろうか。賀茂神社は全国に広がっているが、九州には少ないからだ。本来故郷であった熊曽於国で行っていた流鏑馬の祭りを続けたと考えられる。

丹波=但馬と書いて元来タジマと読む。至るところに北部九州と同じ地名が残っている。田島の本拠地は佐賀県北西部から長崎県北東部にかけて。